第32話 湧き出るネセシティ
「どう? 手遅れの意味わかった?」
相変わらずの鉄格子向こう側から上から見下ろす目線。その先には、まだ寝そべって顔だけ上げた状態の芋虫ルカ君が一匹。彼はフィロの言葉に答えない。代わりに目の前の水晶が映し出すものに釘付けだ。その映し出されたものとは、言葉通りの“惨状”数分前。
ルチア組合は危機真っ只中だった。辛うじて防護一線を戦っていたが、ふと彼らを襲っていた大量の燃えているヒヨコがいなくなったと思いきや、今度はとてつもない怪物が現れた。一言で表すと巨大な蝿。しかし、一言で言い表せないおどろおどろしさと恐怖が湧く。対峙すること自体いけないような、もっと畏怖すべき存在のような。
こんなの、勝てっこない。
現れてすぐそう思った。顔が自然と青ざめる。
固まったまま瞬きもしないルカに、フィロは一方的に言葉を投げかける。
「そもそも、なんでこんなことになったんだろうね。……ルカはこうなることを知っていたのに」
開始の一言は変わらない口調で放たれた。
「ルカは偶然とはいえ、悪党の悪巧みに気づくことができた。それはこの試合が始まる前だ。この悲惨な現状を迎えるずっと前だ」
「や……」
さすがのルカもフィロの方へと顔を向けた。その顔は相変わらず青ざめ、固まったままだ。見開かれた目は水晶から視線を外し、すらすらと、ずらずらとルカを批判し始めた彼を凝視する。
「鞄が盗まれていることにも気づけた。それを仲間に知らせていたら、きっと取り返せただろう。取り返すだけでなく、悪党を倒すこともできただろう。そしたらこの事件はすべて未遂で終われたんだ。この時点まではね」
「い……やめ……」
「しかし、ルカ、君はヘマをしたんだ。悪党に見つかるっていうね。それも古典的にコケるっていうミスの仕方。君が捕まらなければ、この罠は明るみに出てみんな助かったのに。こんなとこでもみんなの足を引っ張るんだ。今までの試合、君は一度も戦ってないだろう? 怯えて、狙われて、助けられて、怯えての繰り返し。助ける身の気持ちを考えたことも無さそうだね。そして、その恩を仇で返すかのような今回の失敗。君は本当にそうだね、昔から変わってない。役立たずの君のちょっとしたミスで、今回も人を殺すつもりで「やめて!!!!!!!!!!!!」
ルカの大声、彼女の声が大きく響いた。その声はフィロの言葉を掻き消すのに十分な声量だ。
いつしか彼女の目には大きな涙が溜まっており、しかし、決して零さないようにしているのはきっと意地だ。眉間にシワを寄せたまま、彼女は彼の方を見て叫ぶ。その顔はもう青ざめても、固まってもいない。力強い顔付きだった。
「私はもう誰も殺さない、殺しちゃダメなんだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
そう叫ぶとルカの行動は速かった。自身の下唇に上の歯を躊躇いもなく押し付ける。押し付けて、押し付けてブちッ
タラリと血の味が歯を伝って口内に伝わったとわかると、噛み切ったところが固まる前に、血が出ているうちにと勢い良く口を床に擦りつけた。そして、唱え慣れた呪文を口ずさむ。
「口よりも足が軽やかな方がよい 静かなものは動かすな
歩ける前に這わなくてはならない 今ほど良い時はない
我を彼の地へ、彼の地を此処へ……転置っ!!」
彼女の身体は淡く輝き出し、泡となって消えていく。
「……泡なのは、上様に似ているってことかな」
鉄格子の向こう側で消えゆく婚約者を見送り、その跡に残った鎖を見ながらフィロは今さっきこの空間に入ってきたニコに話しかけた。
「ようやく空間移動ができるようになりましたか、ルカ様は。やっと召喚術の基本の基本的な能力を」
やれやれとちょっとの間行方不明になっていた猫は首を振る。
「まぁ結局、俺が追い詰めて焚き付ける形でワープしたけど」
「まだ上出来な方でしょう。わたちが居るとわたちに頼ってしまって全然お力を思い出さないんですから、あの方は」
「だからちょっと離れてみたんだろう?」
その点はどうだったんだという風にニコのいる方に目を向けると、猫はもう主人の元へと行く準備をし始めていた。ピンクでファンシーな煙がモワモワと周囲に立ち込める。召喚された身としながら、こうも自分の能力を自分の意思で使いこなせるのは相当高位な召喚獣の証だ。
「離れたのは正解でしたが、わたちは心配で全く生きた心地がしませんでしたよ。フィロ様はどうでしたか、ルカ様を追い詰める役、最初は嫌がっていましたけど」
「うーん、それがとっっっても楽しかったんだよ、意外にも! ルカをイジめるのもいいなっというかこれが所謂、言葉攻めかって新たに発見……って行っちゃった」
ニコはご機嫌に話すフィロの話を聞き終わる前に、何か気持ち悪いものを見るような顔をしたまま煙とともに消えていった。
一人残ったフィロもその後、「まぁ、俺も早く婚約者殿の勇姿を見に行かないと」と一人呟いてからその場を後にする。
そして、そこには誰も居なくなった。
同時刻。
大きな、大きなベルゼブブがレチア組合の方へ羽撃く、ほんの10秒前。沫く、泡く、淡い光とともに一人の召喚師が競技場に現れる。ベルゼブブの脅威に観客までもが慄く中、瞬間的に現れた彼女の真摯な姿に気づけたものは、一体何人居たのだろうか?