第五十五話『亜獣を統べる女』
こうして私は、シクリータ宮殿にやってきた。
最初は右も左も分からないまま、ただ広大な宮殿に圧倒されていた。 けれど、それでも必死に掃除や手入れをこなし、失敗しながらも一歩ずつ慣れていった。
その間にも──兄は時々、暴走することがあった。ストレイド様がいらっしゃる時は、いつも彼が止めてくださった。けれど不在の時は、私が兄にしがみつき、暴れないように必死で止めた。
そのたびに顔や体に傷が増えていったが、気にならなかった。 兄が“戻ってくれる”と信じていたから。
──そして、宮殿で暮らし始めて三ヶ月が経った頃。
「フィアもだいぶここに慣れてきたな。正直ここまで出来るとは思ってなかった。そんなフィアに、プレゼント。」
「……プレゼント、ですか?」
そう言ってストレイド様が渡してくださったのは、袋に入った一着の服だった。 袋から取り出してみると──青を基調にした可愛らしいメイド服。
夏用と冬用がきちんと用意されていて、冬用は中に綿が詰められ、ふわりと温かい。
「これって……」
「ずーっとそんなボロい服で居るわけにもいかないだろ? 女の子は見た目が大事だしな。だからこれ着て、可愛いフィアでいてほしいなってさ。…まぁ俺、そういうのあんまり分かんねぇから、グライスと一緒に選んできたんだけど。どうかな?気に入ったら嬉しいんだけど。」
「……早速、着てきてもいいですか?」
そう言って、更衣室へ駆け込むフィア。
ストレイドは少し照れくさそうに、けれどどこか楽しげに待っていた。
そして数分後──。
「──ど、どうですか……?」
「……すごく似合ってる。やっぱり、そっちの方がずっと可愛いな。」
「……少し恥ずかしい気持ちもありますが、私自身も気に入りました。そのご好意に、感謝いたします。」
深く頭を下げながら、胸の奥にふわりと灯る温かさを感じていた。 それは、確かに“幸福”と呼べるものだった。
──初めて出会ってから三ヶ月後の夜。
晩餐の席で、ストレイド様が真剣な表情で口を開いた。
「──フィア、もうここに来て三ヶ月になる。そろそろお互いのことを理解しておくのも大事だと思ってな。だから、俺の目的を伝えておく。」
「ストレイド様の……目的ですか? 分かりました。」
フィアは背筋を伸ばし、真剣に聞く姿勢を見せた。
ストレイドは短く息を整え、ゆっくりと語り出す。
「俺は、突如姿を消したある人を探している。その人の名前は── 一星灯火。 昔、俺が討伐士だった頃の同期で、神蔵蓮と三人でよく任務を共にした仲間だ。」
「一星……灯火様。特に聞いたことはありませんね。」
「彼女は、動物も殺せないほど優しい少女だった。だがある日、突然任務を放棄し、姿を消した。理由は誰にも分からない。」
ストレイドは少し目を伏せ、低く呟いた。
「……だが、一つだけ心当たりがある。 あいつが『炎の導き』を授かった日から、少しずつ様子が変わったんだ。 授かったからには、討伐士としての氏名を全うしなければいけない。だが彼女は、“こんな力、欲しくなかった”と何度も口にしていた。 毎日のように落ち込み、やがて“死にたい”と呟くようになった。……正直、彼女はおそらく討伐士になることを望んでいなかったんだろうな。」
「炎の導き……天の導きのひとつですよね。授かれるのは、本当に限られた者だけのはず……」
「そうだ。けれどあいつは、生あるものを愛していた。自分の力で命を奪ってしまうことが、何よりも苦しかったんだろう。 ──だから俺は、もう一度灯火に会って、あいつを、戦いから救いたいんだ。」
その瞳は真っ直ぐで、強く、そしてどこか儚かった。フィアはその表情を見て、心から理解した。この人は、本気で彼女を救いたいと願っているのだと。
だから──私は、この人のために生きようと思った。
「──ストレイド様。大体の事情は把握しました。宮殿のことは私にお任せください。 ストレイド様がご多忙なら、全ての管理は私が行います。ですから、どうか灯火様の捜索に専念してください。 ……それに、もし私の命で目的が達成できるのなら、その時はどうか、遠慮なくお使いください。」
彼女は静かに微笑んだ。
その笑みに、死の覚悟はなかった。ただ、深い感謝と純粋な願いが宿っていた。
「──すまない、フィア。宮殿を任せることになってしまって。感謝している。本当に……ありがとう。だが、命は粗末にするな。命ってのは、そんな簡単に差し出すもんじゃない。その気持ちだけ、受け取っておくぜ。」
彼の言葉に、フィアは静かに頷いた。
* * * * * * * * * * * *
「──というのが、私の過去の全容です。」
フィアが淡々と語り終えた。
深海は黙って聞き続け、そして小さく息を吐く。
「そうか……。フィアも、両親を目の前で……。俺も昔、愛菜が天道教の奴らに撃たれて、目の前で死にかけたことがある。でもフィアの場合は家族だし……本当に、地獄みたいだったろうな。お前、よく生き抜いたよ。」
「……そんなことは無いと思います。兄はまだ元に戻っていませんし、何も解決していませんから。」
「相変わらず謙遜ばっかだな。まぁいい、ありがとう。話してくれて。さて、そろそろ帰るか。琴葉と愛菜が寂しがる。」
そう言って歩き出そうとした時──
背後に、ぞくりとした悪寒が走った。
誰もいないはずの背後に“気配”がある。
深海とフィアは即座に振り向いた。
白い仮面をかぶり、帽子を被った女が立っていた。
その周囲には、唾液を垂らしながら唸る獣たちが並んでいる。
「あらぁ?あなた、どこかで見たような……あ、思い出した。私たちが管理していた“亜獣ちゃん”を無惨に殺した──小柳深海君、だったっけぇ?」
その声はねっとりと甘く、しかし底知れぬ冷たさを含んでいた。明らかに女性の声。ボイスチェンジャーではない。
だが、深海の眉がわずかに動く。
──なぜ、あのことを知っている?
「あの洞窟の亜獣……。まさかお前、あれの“飼い主”か?」
「ふふっ、そうよぉ。私の可愛いペットだったの。あんなにすぐやられるとは思わなかったけど……それだけあなたが強いってことねぇ? 感心しちゃうわ。」
「……お前、何者だ。仮面に帽子なんて被りやがって、何も分からねぇ。」
女は妖艶に微笑み、背後の獣たちを撫でる。
その仕草は、愛しい恋人を扱うように優しかった。
「ふふ、別に敵意はないの。今日は“交渉”に来ただけ。話を聞くだけでも、どう?」
「悪いが、得体の知れない奴と話すほど暇じゃねぇ。」
深海は距離を詰めながら周囲を確認する。獣の数──五十。剣は持っていない。殴り合いでは分が悪い。
「勘違いしないで? 私はただ、あなたをスカウトしに来ただけ。────我々の組織に入らない? あなた、力が欲しいんでしょう? 仲間になれば、手に入るわよ。強さを。世界を変えるほどの力を。」
その言葉に、心が一瞬だけ揺れた。
“力”──その響きに。
けれど、その隣でフィアが静かに口を開く。
「横から失礼しますが、あなた方はどんな組織なんですか? 自分の名前も名乗らずに交渉が成立するとは思えません。」
ハッと我を取り戻した。危うく、また“力”に心を奪われるところだった。
「……ふふ、ごめんなさい。素性は明かせないの。でも、一つだけ言えるわ。私は──“亜獣を愛し、亜獣に愛される女”。この子たちは私の忠実なペット。そんな可愛い子たちを無惨に殺したあなた……とっても興味深いの。」
女の声が一気に熱を帯びる。
「あなたの内臓を抉って、脳をくり抜いて、全部見たい。あなたという存在を理解してあげたい。あなたを──欲してるのよ。」
「……イカれてやがる。」
深海が舌打ちしたその時、フィアが一歩前に出た。
「──深海様は、ストレイド様と私の“大切な人”です。
ここで、あなた方に渡すわけにはいきません。」
彼女の身体が光に包まれ、低い唸り声が響いた。狼耳が伸び、手足が変化し、服を突き破って純白の毛並みが広がる。 四足の狼へと姿を変えたフィアが、黄金の瞳で敵を見据える。
『──ここに来てから少しだけ、ストレイド様と特訓していました。完璧ではありませんが……深海様を失うくらいなら、戦います。』
「……フィア、お前……。」
『私は、まだ死ぬわけにはいかない。深海様も──ここで死ぬようなお人ではない。 だから私が、あなたを倒します。』
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