第四話『最強を目指す青年』
舞台は移り変わり、小さな庭に集められた。
日差しを受けて柔らかく輝くはずの芝生は、今の俺にはやけに冷たく、どこか張り詰めた空気をまとって見えた。高い木々が風に揺れ、葉の擦れ合う音が耳に残る。それが妙に静かで、余計に胸の鼓動がうるさく響いた。
窓際にはおばあちゃんと愛菜が立っていた。ふたりとも落ち着かない様子で、こちらを心配そうに見つめている。愛菜の眉間には深い皺が寄り、何度も手を握っては離していた。おばあちゃんは逆に表情を固くしたまま微動だにしない。その静けさが余計に不安を煽った。
そして、庭の中心にいるのが──おじいさんと俺。
陽光の中に立つその背中は、年齢を感じさせないほどまっすぐで、まるで巨木のように揺るぎなかった。灰色の髪が風に流れ、無駄のない立ち姿からは、長い年月を積み重ねた者だけが持つ“重さ”が滲み出ている。
──正直、この状況が理解出来なかった。
ただ平凡に生きてきただけの俺が、“試してやる” というおじいさんの言葉ひとつで、この不可解で緊張感のある場に立たされている。
「あの、試すって……何を……?」
その瞬間だった。
世界が跳ねたように見えた。
視界が一瞬で揺れ、おじいさんの姿が消え──次の瞬間には、腹に雷が落ちたような衝撃が走っていた。
「っ──!?」
理解する暇もなかった。拳が突き刺さったことに気づいたのは、すでに呼吸を奪われたあとだ。みぞおちをえぐる痛みで、胃液が逆流し、喉の奥まで酸っぱい液体が込み上げてくる。
「がはっ……!」
地面に手をつき、膝を折る。視界が波打ち、芝生がぐるぐると回った。息ができない。肺が動かない。何が起きたのかすら判断できない。
「まったく、修行が足りんな。──お前さんの身につけている腕時計、服装。どれもこの時代のものではない。おそらく数百年以上前の物じゃ。…つまりお主ら、“過去から来たんじゃろう?”」
おじいさんの声は淡々としていた。まるで雨が降ることを説明する程度の気軽さで、とんでもない真実を口にしている。
頭がぐらりと揺れた。腹の痛みでまともに言葉を紡げないが、喉を震わせてどうにか声を搾り出す。
「──だ、だったら……なんだって言うんですか……!そんなの……あんたに……関係──」
声と一緒に喉の奥が焼ける。血の味がした。
精一杯の意地で拳を振るった。だが──軽く弾かれた。
何が起きたのかわからないほど一瞬で、俺の拳はただ空に散った。
「口を動かす前に、いつまで悶絶したフリをしておる。立てんのなら──ワシが立たせてやろうか? こうしてなぁ!」
咄嗟に腹を庇おうとしたが遅かった。
蹴りの衝撃は、腹の奥にまで響き渡り、背中側まで突き抜けるほどだった。一瞬、視界が白く染まり、次の瞬間には宙に浮いていた。
「ッ──ぶ、は……っ!」
空気が肺から全部押し出され、地面に叩きつけられたときにようやく声にならない悲鳴が漏れた。唾液と血が口から飛び散り、芝生の上に赤い点をつくる。
──加減という言葉を知らない。
本気で、殺すつもりの威力だった。
◆ ◆ ◆
どれほど時間が経ったのか。数秒かもしれないし、数分かもしれない。
体が自分のものじゃないみたいに重く、視界はぼやけ、耳鳴りが鳴り止まない。世界の輪郭が揺れ、地面の冷たさだけがやけに鮮明だった。
「……ふぅ、残念じゃ。もっと骨のあるやつだと思っていたんじゃがのぉ。ワシの思い違いか。所詮、過去から来たボンクラか」
おじいさんの声が、遠くから響く。
強烈な敗北感が胸に沈殿する。でも、悔し涙すら出ない。ただ苦しい。
──俺は弱い。
それを突きつけられているはずなのに、不思議と怒りは湧かなかった。代わりに、もっと根深い感情が胸の奥に沈殿していく。
悔しさ。情けなさ。認めたくない現実。
そして──負けたくないという衝動。
体はボロボロだ。それでも、俺は立ち上がった。足が震え、膝が折れそうになる。それでも前に体を押し出し、どうにか姿勢を起こす。
腹に刻まれた痣は、数分前の出来事とは思えないほど凄惨に見えた。けれど、その痣が今だけは──自分の存在を証明する印のように思えた。
おじいさんがゆっくりと振り返った。
その視線が俺を捉えた瞬間、胸の奥が熱くなる。
──何かが変わった。
脳がしびれ、意識が研ぎ澄まされていく。痛みはまだあるはずなのに、遠ざかっていくような感覚。視界が鮮明になり、鼓動の音がやけに大きく響いた。
「……待てよ……ジジイ」
自分でも信じられないほど低く、静かな声が口をついた。
「──まだ終わってねぇぞ」
おじいさんの目が一瞬だけ見開かれたのがわかった。
俺は上着を掴み、そのまま乱暴に脱ぎ捨てた。布が地面に落ちる音さえ、妙に大きく聞こえる。
体は鍛えられていない。強そうには見えない。でも、この瞬間だけは──そんなことはどうでもよかった。
胸に広がる熱が、全てを上書きしていく。
ここで負けたら、何かを失う気がした。自分のプライドとか、未来とか、過去とか、そんな曖昧なものじゃない。“もっと大事な何か” を。
血の匂い、草の香り、夕方に近づく空気の冷たさ。全てが妙に鮮明に感じられた。
心の奥から湧き上がるのは──獣のような衝動。
戦いたい。
目の前の敵、“爺さん” をぶっ飛ばしてやりたい。
ただその一心が、全身を突き動かしていた。
「行くぞ……ジジイ。今度は──俺の番だ」
「……ふん、そうだ、その目じゃ。その目が、その思考が、その悔しさが、お前を奮い立たせているのじゃろうな。… やはり、ワシの目に狂いはなかったようじゃ。」
じいさんの言葉は、どこか楽しげな響きを帯びていた。まるで獲物の生死を見守る捕食者のように。庭の空気は張り詰め、微かに冷たい風が頬を撫で、遠くの木々がざわめく。その全てが異様な緊張感を増幅させていた。
次の瞬間、じいさんの動きが視界を裂いた。意識して避ける暇もなく、腹部に鋭い衝撃が走る。息が止まり、胃液が逆流するような痛み。全身が痺れ、血の気が引いていく。
反射的に、膝を突き出した。少しでも反撃するために、考える前に動いた本能的なカウンターだった。
だが──それは空を切った。
「……っが……!」
視界が揺れ、体が宙を舞う。地面に叩きつけられた衝撃で、肺の空気が一瞬で消えた。砂利と土の匂い、風の圧力、衝撃で響く骨の痛み。全てが混ざり合い、意識がふわりと飛ぶ。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
どれだけ時間が経ったかもわからない。
頭が痛く、腹が焼けるように痛い。喉が焼け焦げるように熱い。足も体も、痛みとしびれでまともに動かない。
「──シン… くん … だい 、じょ … ぶ、。」
愛菜の声が、遠く霧の向こうから掠れて聞こえる。返事をしたい。声を出したい。体が動かず、目も開けられない。
脳が揺れ、吐き気が襲う。頭の中で痛みと恐怖が交錯し、現実感がぼやける。最悪、無理、きつい、どうしよう、やばい──
思考が痛みに引きずられ、思考することさえできなくなる。
「そう 、です … 、たす 、ほう 、他に 、… すか … 。」
愛菜の声が揺れ、焦っている。足音がバタバタと響き、慌ただしく動く気配。何かを探し、何かを確認しているようだ。遠くで誰かが問いかけているが、言葉は届かない。
「そん 、私 … 、い 、ます 。」
もう聞き取れない。音が霞み、現実が薄れていく。
俺は──関係しているのか、していないのか、わからない。
怖い、なにが、何が起きている──。
──そのとき。
「深海くんは、私の大切な人なんです。…ですから、私が絶対に助けます。」
声だけが、鮮明に意識の奥に届く。
世界が白く霞む中で、唯一の光のように心に刻まれた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
──────気づくと、目の前は柔らかな布団で覆われていた。目の前には丸く暖かい灯りが揺れ、右側から愛菜の顔が現れる。
「シンくん……!シンくん!本当に心配したんだから、もう…!!バカ!バカバカ!心配させないでよ…!」
泣きながら抱き寄せられる。体温と香り、柔らかさ。胸に伝わる鼓動。
生きていること、無事であることを実感し、涙がじわりと出てきた。
「あ…、悪いな。ちょっとまだ、クラクラしてっけど──」
上体を起こし、自分の腹を見た。青黒く腫れ上がっていた痣が、跡形もなく消えている。
「────え、なんで?俺、確かあの爺さんにボコされて、」
「その子に、感謝するんじゃな。」
影のように爺さんが現れる。足音ひとつ立てず、静かに立っている。
今は文句も言わず、話を聞くしかない。
「お前さんが気絶して寝込んでる間、この子は、あるかも分からない "癒しの薬草" を取りに、山々を超え、川を渡り探してくれていたんじゃよ。」
危険な未来の世界で、未知の山や川を越え、薬草を探してくれた──。
その行動が、どれほどの困難を伴うか想像できる。
「そう、だったのか。… ありがとう。」
「バカ…。折角探して、見つかって使ったのに、あなたがなかなか目を覚まさないから。私 …… わたし … 。」
声が震え、嗚咽が混じる。泣きながら、必死に気持ちを伝えようとしている。
それを見て、ただ頭を撫でるしかできない自分がいた。
「……本当にありがとう。お前のおかげで救われたよ。この恩は絶対に返すから。」
手を伸ばす。髪をそっと撫でる。慰めたい訳でも、照れ隠しでもない。ただ、泣きながら抱きつく彼女に、何をすればいいか分からなかっただけだ。
「──それとお前さん達、名前は?」
「…小柳深海、コイツは海宮愛菜。」
「そうか、愛菜に深海か。…深海、お前さんはいい根性をしておる。正直、あの場でボコボコにやられて終わると思っておったが、深海、お前は立ち上がった。その精神力と根性だけは認めてやるわい。」
「でも、負けた事には変わりない。爺さん。アンタは強かったよ。俺今までアイドルオタクやってて、人と本気でぶつかった経験とか無かったけど。そんな俺でさえ、爺さんがちょ〜つええ事は分かった。」
「アホ抜かせ、ワシはもう老い耄れじゃ。現役の頃に比べたら、そこまで強くないわ。」
じいさんは笑いながら言ったが、その目の奥の光だけは冗談を許していなかった。
今までの動き、重さ、圧──どれを取っても“老い耄れ”なんて言葉では片づけられない。 むしろ、経験と技術が削ぎ落とされて、無駄だけ消えた“完成形”みたいな強さだった。
……そして、この会話の最中、不意に胸の奥でひとつの考えが膨らみ始める。
この国は、討伐士が中心となって動いている。
それは竜馬からも聞いたし、街で見かけた人々の立ち振る舞いでも分かった。
警察のような役職であり、軍人のようであり──異世界モノで言えば、まさに *騎士団* の中核。
なら、もし“最強の討伐士”にまで上り詰めれば──
俺達が巻き込まれた **香良洲の異常現象** の核心に触れられるんじゃないか?
もしその原因を突き止められれば、帰還の道も見えるかもしれない。
そんな直感が、稲妻のように脳内を貫いた。
(最強になれば、現代に帰れるかもしれない……)
胸が熱くなる。恐怖じゃなく、期待でもなく──
“やるしかない”という確信。
「……なあじいさん。ひとつ頼みがあるんだ。」
「なんじゃ、そんな真剣な顔して。」
じいさんが目を細める。
庭に吹いた一瞬の風が、汗ばんだ肌を撫でた。
胸の鼓動がうるさい。
でも、迷いはなかった。
ここが近道なら挑むしかない。
アニメや漫画みたいな展開に、正直ワクワクしている自分もいる。
だがその根底にあるのは、単純な現実だ。
──この世界で最強にならなければ、俺達は現代に帰れない。
だから。
だからこそ──。
覚悟を決める。
俺はまっすぐにじいさんを見る。
愛菜も少し驚いた顔で、けれど黙って隣で見つめてくれていた。
呼吸を一つ置き、拳を握り、真正面から言った。
─── 俺に、稽古つけてくれないか?
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