第三十四話『愛してる』
帰路を歩きながら、彼女は今日一日の出来事を思い返していた。今夜だけで、胸に刻まれるような思い出がいくつもできた。
彼女は少し俯き加減に歩く。隣では、彼が静かに彼女の歩幅に合わせて並んでいた。
しばらく無言のまま、夜風に吹かれながら歩いていたその時──
「───あれぇ?おうおう優羅ちゃーん。こんな所で何してんの??もしかしてぇ?金も返さずに仲良くカノジョとデートかーい??」
「カワイイ彼女じゃーん、おいおい、まずは俺達にやる事ってのがあるんじゃねぇのかなぁ??」
「やめてやれよお前らー、どーせ金も返せなくなって沈まる運命の奴にちょっかいなんてかけんなって!はっはっは!」
ガタイのいい男たちが三人、路地の影から現れた。
金色のネックレスをチャラつかせ、耳にはいくつものピアス。 その圧力だけで、彼女は無意識に一歩、後ずさる。
「…え、誰、この人達、優羅くんの、知り合い?」
「……知り合いっつうか、俺ん家貧乏だから、色んなやつに金借りてたんだよ。それでついに親が裏の方に手を出しちまってさ。多分、その関係者。」
小さく、彼が彼女に説明する。
男たちはなおも睨みながら、下卑た笑みを浮かべて言葉を続けた。
「あ"ぁ??テメェ何無視してんだよ。中学生が図に乗ってんじゃねぇぞ。貧乏で低脳のクソガキが。暴力で分からせてやろうか?」
凄まじい言葉の刃 彼女は怯えて、反射的に彼の背中に隠れる。けれど彼は、一歩も引かない。
堂々と前を見据え、静かに口を開いた。
「悪いけど、親の作った借金を俺が肩代わりする義理は無いはずだ。金が欲しいなら親に言え。俺に絡むのは筋違いってやつだ。」
「テメェに本気で返してもらおうなんて思ってるわけねぇだろ!からかいだよからかい。テメェの親には体売ってでも臓器打ってでも金作らねぇと利子は増えてくって忠告したら子供のように泣き喚いてたよ。けっけっけ、大人が泣き喚いて乞う姿は堪らねぇよなァ?だからこの仕事はやめられねぇよ。」
言葉の一つひとつが毒のように重い。
その瞬間、彼の中に怒りが沸騰するのが、空気で伝わってきた。 親を、目の前で侮辱され、笑われたのだ。
怒らないほうがおかしい。
「───テメェら、確かに俺の親はなぁ、色んなところから借金して、俺と遊びにも滅多に行かねえような親だったよ…けどな、俺を養っていくためにせっせと朝から晩まで働いて、温かいご飯を毎日用意してくれる、そんな誇りの親なんだよ。───そんな大事な母ちゃんと父ちゃんを…馬鹿にしてんじゃねぇぞ!!」
深夜の静寂を破る怒号。
その声は、彼の魂ごと燃やすような響きだった。
彼女はその背中を見つめながら、恐怖と不安、そして胸を締めつけるような感情に言葉を失う。
だが、男たちは真剣に受け取ることなどなく、ケラケラと笑い続けた。
「はっはっは!こいつムキになってんぞ!」
「ウケる、やべぇ笑い止まらねえ。誇りの親だってよ!」
笑い声が路地に響く。
それでも彼は、震える拳を握り締め、後ろを振り返らなかった。
その姿を見て、彼女の胸の奥で何かが弾けた。
「─────何がおかしいの!!!」
鋭い叫び。男たちの笑いが止まり、視線が一斉に彼女へと向けられる。
彼女はもう、黙っていられなかった。
「何がおかしいの!!自分の親を大切にして、自分の親の事を『誇り』だって胸張って言える、それの何がおかしいの!!何が変なの!!何がそんなに笑えるの!!あなた達が誰だか私には分からないけど、あなたたちより、優くんの方が絶対いい人だもん!!」
「メィリィ…」
中学生の語彙としては、未熟な部分もある。
けれど、そこには真っ直ぐな想いがあった。
目尻には涙が光り、彼女は震える声でそれを吐き出した。あまりの熱に、彼も、そして男たちでさえ一瞬動きを止める。
「──あ?なんか今泣き虫女の声が聞こえてきたんだけど〜?幻聴かぁ?」
挑発するように吐き捨てる男。だが、もう空気は変わっていた。そこに立つ少年少女の瞳には──確かな“意思”が宿っていた。
「自分に関係ねえのに首突っ込んでんじゃねぇよ、クソガキが。──やるか?」
「めんどくせえから、こいつの身ぐるみ剥がして裸体写真でも臓器でも売っちまおうぜ。恐怖で二度とその口、聞かせなくしてやるよ。」
男たち三人が、ゆっくりと彼女に向かって歩み寄る。
足音が夜道に響くたび、心臓の鼓動が速くなる。
彼女は恐怖に支配され、涙を流しながらも、足が動かない。「逃げなきゃ」と頭ではわかっているのに──震える脚は、地面に縫いつけられたように動かない。
やばい。動いて。お願い、動いて──!
その瞬間、目の前に立つ大きな背中が、まるで盾のように彼女を覆った。
彼は、まっすぐ前を向いたまま、低く呟いた。
「────この子にだけは、手を出すな。」
「ぁ?テメェは下がってろ。お前は後で構ってやるからよ、今はその女の───」
「聞こえなかったか? 手を出すなって言ってんだよ。」
言葉が終わるより早く、優羅の拳が一人の男の腹にめり込んだ。続けざまに、鋭い蹴りがその男の顔面を打ち抜く。ガタイのいい男が、地面に崩れ落ちた。
──中学生が、だ。その光景に、一瞬場が凍りつく。
「あ、アニキ……? なんで倒れてるんすか?」
「優くん…強い…こんな強かったの?」
「…あはは。実は俺、昔から武道を習っててさ。討伐士最強──その夢は昔からあったんだ。だから強くなりたいって特訓してた。……だから他の人よりも、ちょっとだけ強いんだ。」
「いや、少しじゃないじゃん!!」
「テ、テメェ……アニキを不意打ちで倒したからって、図に乗ってんじゃねぇってんだよ!!」
残る二人がナイフを取り出し、殺意をむき出しに切りかかる。刃が街灯の光を反射して鈍く光った。
もう完全に、“殺す気”の目だった。
「優くん! 危ない!」
「…はぁ。そうやってナイフとか武器使わねえと勝てねえって思ってる時点で──もう、お前らの負けなんだよ。」
一人目の手を蹴り飛ばす。ナイフが宙を舞う。
そのまま拳を叩き込み、続けざまに蹴りを放つ。
もう片方の攻撃も的確にかわし、反撃の一撃で沈める。 中学生とは思えない、訓練された動き。ひとつひとつの動きに迷いがなく、速く、正確だった。
「────こちとら、生きるか死ぬかの貧民街を生き抜いてきたんだ。あんまり調子に乗らないで欲しいぜ。」
さっきまで威勢のよかった三人組が、いまや地面に転がっている。 その光景は、彼女にとって“安心”というよりも、むしろ“恐怖”に近かった。
目の前の優羅が、まるで別人のように見えた。
「…ふぅ、終わったか。悪いなメィリィ、巻き込んじまって。……さあ、帰ろうぜ。」
彼がそう言って歩き出した、その瞬間だった。
──キィン、と金属の音。
地面に伏していた男の一人が、最後の力を振り絞り、ナイフを投げ放つ。 優羅は即座に気づいた。だが──ほんの一瞬、間に合わなかった。
「────メィリィ! 後ろ!!」
メィリィが振り返った瞬間、ナイフが頬をかすめた。
鋭い痛み。温かい血が流れ出す。
「……いっ……たっ……」
恐怖と痛み、そして混乱が重なり、メィリィの足が崩れる。 その場に座り込み、動けなかった。
「───貰ったぁ!! 死ねぇぇ!!」
別の男が、ナイフを両手で構え、彼女の背後から飛びかかる。
狙いは──心臓。
振り返ると、刃がもう目前まで迫っていた。彼女の目が見開かれる。
守らなきゃ。彼女だけは、絶対に。
頭で考えるより先に、体が動いていた。
「─────メィリィ!!!!」
───────グサッ。
─────バサッ。
肉を貫く音。血が地面に滴る音。人が倒れる音。
全てが、耳に、はっきりと届いた。
優羅の体が、彼女を庇うように倒れ込む。
彼の腹から、真っ赤な血が溢れ出していた。
──────彼は、刺された。
致命傷だった。
「……………う、うそ、でしょ? ゆう、くん?」
「はぁ……はぁ……お、お前が悪いんだ!! お前があんな余計なこと言わなければ、俺だって殺す気はなかったのに……!!」
「───私の、せい?」
「そ、そうだ! て、てめぇの、せいだからな!」
「こ、今回はこのくらいで勘弁してやるよ! ありがたく思え! じ、じゃあな!!」
男たちは、フラフラとしながらも捨て台詞を残し、闇夜の向こうへと走り去っていった。
彼らの吐き捨てた言葉に、憎しみよりも先に浮かんだのは──彼の容態への、純粋な不安だった。
血を流しながら倒れる優羅のそばに、彼女は膝をつく。 唇から漏れるのは、壊れたように繰り返す言葉。
「私が、悪い。私が、悪い、私が、悪い、ワタシガ、ワルイ、私が、私が、私が、私が私が私が私が私が私が私が──────」
「メィ……リィ……。」
掠れた声が、その自責の呟きを止めた。
まだ息がある。まだ、助かるかもしれない。
彼女は周囲を見渡すが、深夜の道に人影はない。
携帯も持っていない──助けを呼ぶ術が、どこにもない。
「俺……ドジこいちまったな……。こんな、事で……死の淵まで、追いやられるなんて……馬鹿だよな……俺。」
「ゆう、くん……なんで。なんで私を……」
涙が止まらないまま、彼の言葉に耳を傾ける。
彼の頬にも、彼女の涙がぽたぽたと落ちる。
それでも、優羅は微笑んだ。
「……直感的に、メィリィだけは、守らなきゃいけねぇって、思ったんだ。…なぁ、メィリィ。ありがとな、あの時……嬉しかった。俺の親のこと、まるで自分の親みたいに怒ってくれて……勇気を出してくれて、すげぇ、嬉しかった。本当に。」
「…あんなの、あいつらが悪いんだよ。それよりも、私のせいで…あなたが…っ。」
声が震える。言葉も、涙も止まらない。
彼はゆっくりと、弱々しく笑った。
「…言っとくが、お前の、せいじゃねえからな。俺が、したくてやった事、だから。…もっと言うなら、お前に、生きてて、欲しかったから。」
「私だって…ゆうくんに、生きてて欲しかったよ。私だって……私だって…!!」
「…ありがとう。その気持ちだけで、すげぇ嬉しい。…はぁ、やっと、俺は解放されるんだな。俺、今まで、たくさん人に迷惑かけて……本当はしたくない盗みを働いて……噂が広がって、嫌われて……辛かった。でも、その中で君に出会ったあの日だけは──盗みをしてよかった、って……良くねぇ事だけど、思っちまったんだ。」
「…優くん……。」
優羅の体温が、少しずつ失われていく。
その手の温もりが、指先から遠のいていくのがわかる。
それでも彼は、優しく笑っていた。
「あの日から、俺の人生は変わった。いい方向に、変わったんだ。毎日が楽しくて、あっという間に過ぎてって、ずっと……こうやって楽しく生きて、じいちゃんばあちゃんになっても、一緒に笑ってるんだろうなって思った。それくらい、君との出会いは格別だったんだよ。」
「…私も、優くんと出会えたあの時は、本当に特別だった。誰よりも私を理解してくれて、誰よりも私を気遣ってくれた。そんな優しい優しい優くんに、私は救われたんだよ。」
二人は、穏やかに、これまでの思い出を語り合う。
この瞬間を逃したら、もう二度と話せない──そう直感していた。
「小学校や中学校も、メィリィさえいれば俺は何でも良かった。君さえいてくれたら、どんなことだって乗り越えられる気がした。…俺も、君の存在に救われた。君は、嫌われ者の俺と一緒にいてくれた。俺は、そんな優しくて、笑顔が可愛い君が……ずっと『好きだったんだ』……ふはっ、やっと言えた。一生言えなかったら、どうしようって思ってた。」
その言葉。初めて彼の口からこぼれた「好き」。
誰よりも、何よりも、嬉しかった。胸の奥に、光が差すようだった。
「──私だって、『好きだよ』。優くんの顔も、声も、可愛いところもかっこいいところも、人に優しいところも、親のために怒れるところも、自分の辛いところ隠しちゃうところも、でも嘘が下手なところも、全部ぜーんぶ含めて……『大好きだもん!!!』 本当に、大好き、大好き……!!」
やっと言えた、「好き」という言葉。涙が溢れ、二人は抱き合いながら泣いた。
彼女にはわかっていた──もう、時間がないことを。
彼の魂が、ゆっくりと連れ去られていくことを。
「──嬉しいなぁ…。俺たち、両思いだったんだね。…だったら、もっと早く言えば、良かったなぁ。」
「…そうだね。そうしたら、カップルらしいこと、いっぱいできたのにね…。デートとか、色々、したかったね。」
「…ふふっ、最後の後悔だなぁ……それは。」
彼女の心が、そこで崩壊した。
何が引き金だったのか、自分でも分からない。
ただ、心の底から湧き上がる叫びを抑えきれなかった。
「……でも、やっぱり嫌だよ。…優くんが居なくなるのは、やっぱり嫌だ…!! ずっと一緒に居たい!! ずっと隣にいたい! ずっと優くんと話していたい!! ずっと優くんの笑顔を見ていたい!! 一人になるのが怖い……優くんが居ないこの世界で、私がひとりでやっていけるのか、不安だし怖いよ。一緒にいてよ……ずっと、この手を握っててよ……。いつもみたいに、テンション高く私を振り回してよ……優くん……。やだよ……。」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、彼女は彼の胸にすがりつく。優羅は、どこか寂しげに、それでも優しく微笑んだ。
「────メィリィ。お前は、幸せになる権利がある。…幸せになるために、君はこの世に生まれてきたんだ。…だから、俺が居なくなっても、幸せになって欲しい。幸せに生きてて欲しい。……確かに、一人、君を置いていくのは、俺も怖い。…でも、君がどこかで幸せに生きててくれるなら、俺は安心して上から見ていられるから。お願い。生きて、幸せになって欲しい。…というか、君は絶対に幸せになれる。俺が、保証するから。」
最後の力を振り絞り、彼は彼女の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。彼女は嗚咽を堪えながら、涙を流し続ける。
言葉にしなきゃいけない。今しか、ない。
その前に──彼女は小さく呟いた。
「……優くん、最後の私のわがまま。許してね。」
そっと顔を寄せ、彼の唇に、自分の唇を重ねた。
血の味がした。それでもいい。
これが、愛を伝える唯一の方法だから。
驚いたように目を見開いた彼は、すぐに受け入れ、微笑んだ。 そして、唇を離した彼女は、静かに言葉を紡ぐ。
「───私は、優くんが大好き。この世界の誰よりも、大好きよ……だから、私は優くんの気持ちを背負って、これからも生きていく。優くんの願い通り、幸せになる。…優くんの夢も、私が代わりに背負うから。…だから、私のことを見捨てずに、空から見守っててね。そしてたまには、私に会いに来て。約束、だからね。」
言葉を終えると同時に、優羅の腕が、静かに力を失っていった。
その手がぷらんと落ち、目から光が消える。
「────約束、だ。…ははっ、俺は……大好きな人の、腕の中で、人生を終わらせることが……出来て、世界の、誰よりも、幸せだなぁ……。めぃ、りぃ、ほんとうに、だい…すき……。」
掠れた最後の声。
言い切る前に、呼吸が途切れた。
それでも、その想いは確かに彼女へと届いていた。
彼の目尻から、一筋の涙がこぼれる。
冷たくなっていく体。そして、静寂。
「──うぅ…ううっ、……うわぁぁぁぁぁ!!! ううっ……!! ぐすっ…!! ゆう、くん、ゆうくん……!! …ゆうくん!! お願い、元に戻って…!! もっと、私を…! 愛してよ……!! うわぁぁぁぁぁぁ!!!」
堰を切ったように、彼女は泣き崩れた。
彼の亡骸を抱きしめ、残る温もりを必死に感じながら。その夜、月明かりの下で、彼女の嗚咽だけが響き続けた。
彼の最後の言葉は、彼女の心に深く刻まれた。
──それは、彼女が“愛”を求め続けるようになった、最初の夜だった。
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