第三十二話『初めての恋心』
とある少女は、貧民街に生まれ育った。
両親は共働きで、家にいる時間よりも働いている時間のほうが圧倒的に長い。少女はいつもひとり、狭い部屋の片隅でおままごとをしながら、過ぎていく時間をただ眺めていた。
幼稚園にも、小学校にも通わせてもらえなかった。
「…ママとパパは今日もお仕事…、でも仕方ないよね…忙しそうだったし。」
本を読むのが好きだった彼女は、言葉の覚えが早く、他の子どもたちよりもずっと語彙が豊かだった。
だが、小学生になる頃には、彼女の瞳には常に悲しみと寂しさが宿っていた。 孤独の中、本やぬいぐるみだけが彼女の友だった。
──この毎日が、ずっと続くのだろうか。
そう考えていた、その時。
バタン!
ドアが勢いよく開いた。
鍵を閉め忘れていた。 少女はビクリと体を震わせ、何もできずにただ来訪者を見つめる。
玄関からリビングへ続く扉が開き、少女は息を呑んだ。
「───よいしょ、なにかあるかな…って、…え、なんでこんな所に女の子が…?」
現れたのは、同じくらいの年齢の少年。
黒いフードに黒いズボン──目立たぬように身を包んでいる。 少年は彼女を見ると、慌ててフードを被り直した。
「え?なんでこんな所いんの?学校は?」
「…え、えぇっと。私学校行ってないから。」
「まさか不登校?僕が言うのもなんだけど、学校は行った方がいいぜ?」
「……行きたいよ…私だって。でも、ママとパパがダメだって。勉強なら家でも出来るでしょって。…でも、でもさ…。私は、勉強だけじゃなくて…お友達も欲しかった、運動会とかも参加したかった。お友達と帰ったりしたかった…!私は…あんな華やかな学校生活を送りたかった…!でも、ママやパパに甘えたり出来ない、甘えたら迷惑かけちゃうから、私は一人でいいの…!!」
少年の何気ない一言で、今まで押し殺してきた涙と感情が溢れ出した。 少女は熱を帯びた声で叫び、少年は黙ってその言葉を最後まで聞いた。
そして彼は、静かに少女へと近づく。 少女は恐怖で目をぎゅっと閉じた。
「────そうか、お前も、僕と同じだったんだな。」
少年の手が、そっと彼女の頬に触れる。
涙がぽたぽたと彼の指先を濡らす。
それは、彼女の心の痛みを優しく受け止めるようだった。
「実は僕も、学校行きたかったんだ。でも、親が盗みを手伝えって僕に言ってきて。学校行けなくて、……羨ましいよな。友達と帰ったり、ゲームして遊んだり。そんなこと、僕だってしたかった、けど僕の家、お金ないから、ランドセルすら買ってもらえなくてさ。」
少年の瞳には、同情と共感の色があった。
自分と似た境遇の少女を前にして、その痛みが手に取るように分かってしまうのだ。
少しの沈黙ののち、少年は言った。
「────じゃあ、僕が友達になってやるよ。」
少女は目を見開いた。
驚き、疑い、そしてほんの少しの希望が入り混じった表情。 長く張り詰めていた心が、ようやく緩んだようだった。
「…いいの?」
「おう!当然だろ!ここでお前に会ったのもなんかご縁?がありそうだし、これから今の瞬間を持って、僕たちは友達だ!」
見つめ合う二人。 空気が柔らかくなる。
だが、その穏やかな空気を破るように、玄関から大きな声が響いた。
「────おーい!誰かいたのか〜??随分おせえみたいだけど〜!なにか見つけたのか〜!!」
女性の声。 おそらく少年の家族だ。
少年は玄関の方を振り返り、少女に微笑む。
「──やっべ、母さんだ。悪い、もう行かねえと…じゃあな、また会いに来るよ。」
にっと笑って、少年は去っていった。
去り際、小さく「誰もいなかったよ、ここはハズレ」と呟く声が聞こえた。
その声は、彼女の両親の声よりもずっと優しかった。
彼がいなくなった後、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。 頬が赤く染まり、胸が高鳴る。
──なぜだろう。
これが、初めての感情だった。
それは彼女にとって、とても心地よいものだった。
「───また、会えるかな。……あ、お名前、次会った時聞きたいけど…なんか、恥ずかしい。」
ぬいぐるみを抱きしめながら呟いた言葉。
それは、彼女に芽生えた初めての恋心。
彼女が“愛”という感情を知った瞬間だった。
──翌日。彼はまた家に来た。今度はひとりで。
昨日と同じなのに、空気には少し気まずさが漂っていた。 それも当然。まだ二人は──
「──あ、そいやさ、僕たちまだ名前も聞いてなかったよな。」
「…はっ!そ、そうね。…す、すっかり忘れてたぁ。」
まさか彼の方から切り出すとは思っていなかった。
少女は照れくさくなり、わざとらしく肩をすくめる。
「僕、『遠坂優羅』。君は?」
「私は、『アルグ・メィリィ』。一応、日本人とロシア人の血が入ってるの。」
「──へえ!!すげぇ!!メィリィか、メィリィ、すげぇ可愛い名前じゃん!!」
「か、かわっ…!?///」
子どもらしい率直さが、彼女の頬をさらに紅く染めた。 その純粋で甘酸っぱい空気が、たまらなく心地よかった。
それから二人は頻繁に遊ぶようになった。
家ではトランプやすごろくをし、外では鬼ごっこ。
そんな日々が、彼女にとっては宝物のように輝いていた。
──そして出会いから二ヶ月が過ぎたある日。
「じゃあ、行ってきます!」
元気よくドアを開けるメィリィ。
今日は母親が仕事を休んでおり、見送りに来てくれた。
「──また、あの子の所に行くの?」
「うん!またゆうくんと遊ぶんだ〜。」
「…ねえ、メィリィ?」
「ん?なにママ。」
「──あの子と絡むのは、もうやめなさいよ。」
「……えっ?」
耳を疑った。
彼と過ごす時間は、かけがえのないものだった。 それを、母は今、遮ろうとしている。
「なんか最近この近くで、盗みを働いて生活してる家族がいるって噂になってるのよ。で、その噂の家族ってのが、今メィリィが行こうとしてる彼の家族なのよ。……私だって地位とかあるんだから、あまりあの家族と関わらないで。分かった?」
──彼の家族が盗みを働いていることは、薄々気づいていた。
それでも、彼らは必死に生きている。
貧民街という世界の中で、生きるために、手段を選ばず生き抜こうとしている。 それが悪なのだろうか?
そう思いながらも、メィリィは小さく頷いた。
「───うん。分かった。もう行かない。」
子どもなりの嘘。
それは母から見ればすぐに分かるほど拙いものだった。それでも、彼女には嘘をつく理由があった。
彼しか、彼女の支えはいなかったからだ。
彼が「友達でいよう」と言ってくれた。 あの瞬間から、彼女はようやく“自分”を保てるようになった。
だから──今日も彼のもとへ向かう。
視線の先には、彼の姿しかなかった。
「──お、来たか。って、大丈夫?なんか体調悪そうだけど。」
「な、なんでも、ない。」
「そう?じゃあ今日もゲームやろうぜ!」
二人は笑いながらテレビゲームを始めた。
彼と過ごす時間は、やはり楽しい。
彼が笑うたび、心が軽くなる。
彼が名前を呼ぶたび、胸が弾む。
その小さな幸せの積み重ねが、やがて恋になる。
それは、誰もが一度は通る道。
ただ彼女は、その“愛”を、誰よりも強く、深く、求めていたのかもしれない。
──こんな幸せな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう願った。 けれど現実は、いつも残酷で。
だからこそその時間は───儚く、美しかった。
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