第二十四話『今の不安より明日の幸せ』
自宅に戻ると、愛菜が出迎えてくれた。
少しムスッとした表情で、じっと見つめてくる。
「──もう、どこ行ってたんですか、深海さん。ご飯、冷めちゃいましたよ。今、温めますか?」
まるで人妻かのように、落ち着いた雰囲気を纏っている。昔はこんな大人びた印象なんて、なかったはずなのに。少し前までは、泣いて飛びついてきたはずなのに。
「ああ、悪い。ちょっと討伐士関係の用事でな。……飯、用意してくれるか?」
「ふふん、はいっ!お任せください!じゃあ、先にお風呂入ってきてくださいね。ご飯、準備しておきます!」
愛菜はにこっと笑い、くるりと背を向けてキッチンへと歩いていった。
俺はその背中を見送りながら、風呂場へ向かう。
脱衣所で服を脱ぎ、体をさっと洗ってから、湯船にゆっくりと身を沈めた。
「───ふう、今日も疲れたな。…結局、愛菜の記憶喪失の原因もわからずじまいか。あの時、オレが守れてれば、こんなこと考える必要なんてなかったのにな。」
あの日を後悔しなかった日は、一日たりともない。
ふとした瞬間に、あの光景が脳裏をよぎって────罪悪感と喪失感で、胸が押し潰されそうになる。
「……でも今は、愛菜の意識が戻ったことを素直に喜ぶべきか。あのままずっと眠ったままだったら寂しかったし。師匠の家に居候しっぱなしってのも、やっぱ申し訳ねえしな。」
討伐士になれば、衣食住はすべて保障される。だから、親元を離れて暮らす者がほとんどだ。中には一人暮らしを選ぶ者もいれば、恋人と同棲したり、すでに家族を持っている奴もいるらしい。
そんなふうに、頭の中をグルグルと巡らせていると──
コンコン、とドアをノックする音が浴室に響いた。
「────深海さーん!着替え、ここに置いときますからねー!」
愛菜の声だった。
料理に洗濯、掃除まで全部を完璧にこなす優等生な女の子─────
でも、幼なじみの俺には分かる。
記憶を失う前の愛菜とは、どこか雰囲気も、態度も、違って見える。
「ああ、ありがとう」
軽く返事をして、風呂の縁に背を預ける。
熱がじわりと肌に染みて、全身の力がふっと抜けた。
「はあ……」
湯船に身を沈めながら、ぽつりと独り言を呟く。
「そういえば……俺がここを離れるとき、愛菜はどうすればいいんだ?」
天道教の連中の動きが活発になってきている今、ここに残すのが安全なのか、それとも一緒に連れていくべきなのか。
どちらが正解なのかなんて、正直わからない。
「……くそ、考えること多すぎて、頭が煮えそうだ。少し落ち着け、オレ。」
そう呟いて、首まで湯に沈み温まった後、風呂から上がった。
リビングに戻ると、時計の針は深夜を回っていた。
師匠も婆ちゃんもすでに眠っていて、家の中はしんと静まり返っている。
この時間、リビングには俺と愛菜のふたりだけだった───。
「あ、深海さん! ご飯できてますよ!」
キッチンから顔を出した愛菜が、嬉しそうに言う。
「────今日はなんと、ハンバーグです! 深海さんが好きだって聞いたので、頑張って作ってみました!」
「……確かに当たってるけど、それ、誰情報?」
「あ、美咲さんからです!」
愛菜は得意げに答えると、少し声を低くして言った。
「“俺の好きな物は、ハンバーーグ! あの肉汁がたまんねえんだよ!”って、深海さんがテンション高く言ってたって言ってましたよ?」
彼女の物真似はちょっと下手で、イントネーションも変だったけど、なぜか笑えてきた。
クスッと笑いがこぼれた。
夜の静けさと、2人きりの雰囲気が妙に心地よく感じられた。
「あー、なんか、美咲が言うのが容易に想像できちまうな。────じゃあ早速、いただきます。」
「はい、どうぞ召し上がってください。」
主婦感たっぷりの彼女が、俺の目の前に座り、机に肘をついて顎に手を乗せながら見つめる。
箸を手に取り、ハンバーグを食べやすい大きさに切って口元へ運ぶ。
「───美味しい。これ本当に美味しいな。」
思わず口をついて出た言葉だった。
肉はジューシーで、噛むたびに肉汁が溢れ出す、あたたかくて優しい味。冷めていたはずなのに、まるで出来たてのように感じられ、心まで温まる味だった。
こんなに美味しいおかずがあって、白米が進まないはずがない。
俺は夢中になって、ご飯まで一気にかき込んでいた。
その様子を、対面に座る愛菜がじっと見ていた。
「ふふ、深海さん、よっぽどお腹空いてたんですね。子供みたいで、ちょっと可愛いです。……それに、こんなに勢いよく食べてくれると、やっぱり嬉しいですね。」
「当然だろ。これだけ美味しけりゃな。例えるならこれは──メイド喫茶週6通い時代の“あずさちゃん”による、ふわふわもちもちきゅんきゅん極上オムライスに匹敵するレベルだ。」
「その……“めいどきっさ”?はよく分かりませんけど、食べ物を食べ物で例えるなんて、深海さんって発想が独特で面白いですね。」
「だろ?オレの中では、あずさちゃんが不動の一位だったのに──こんな美味しいもん食べさせられたら、二位に浮上するレベルだ。」
「…ふふっ、二位になってもなお嬉しいって思っちゃうのはなんでなんですかね、ちょっと不思議です。」
こんなふうに、2人きりで交わす穏やかなやり取りが、心地よくてたまらなかった。
静かな夜の空気と、ぬくもりある彼女の存在が、疲れ切った心を優しく包み込んでくれる。
本当に、居心地のいい空間だった。
食事を終えると、愛菜が立ち上がって食器を片付け始めた。
手伝おうと声をかけたが、「私がやるので大丈夫です!」と、元気よく断られてしまう。
そんな彼女の後ろ姿を見つめていると、ふと胸が締めつけられる。なぜだかはっきりとは分からない。
感情が渦巻いて、整理が追いつかない。分かっている。考えたところでどうにもならないことだって。それでも、どうしても彼女の姿が心に引っかかる───
「──よし、家事も全部終わりましたし、深海さん。一緒に、二階へ行きましょう?」
「……ああ、わかった。」
そう言いながら、俺たちは並んで狭い階段を登る。
着いたのは、初日に案内されたベランダ付きの一室。
少し広めで、今も変わらず俺が使わせてもらっている部屋だ。
正直、ここを譲ってくれていることには感謝しかない。
「深海さん、私と2人で、窮屈じゃないですか?」
「オレは平気だよ。愛菜は?」
「私も大丈夫です。逆に広い部屋だと落ち着かないので、これくらいがちょうどいいです。」
窓を開けると、夜風がふわりと吹き込んできた。
心地よい涼しさと、どこか温もりを感じさせる風が、二人の髪を優しくなびかせる。
「……そういえば、ベッドひとつしかないんですね。」
愛菜がぽつりと呟く。
「そうだな。じゃあ愛菜が寝ろよ。オレは床でも全然平気だから。」
「えっ、そんなの申し訳ないです! 討伐士の試験とかでお疲れなんじゃ……?」
「気にすんなって。オレ、床で寝るの慣れてるし。こんな時期に慣れてない人が硬い床で寝たら、腰痛めるか風邪引くのがオチだ。」
「……そう、ですか。じゃあ……遠慮なく。ありがとうございます。」
そういい布団の中に入った。
俺はちなみに寝る前に窓は開けて寝る派だ。
夏場ではエアコンもったいないし、冬場は換気と寒さで朝起きれるという単純な理由。
───どれだけ時間が経ったのだろう。
目を閉じてから、長い沈黙が続いていた。
気がつけば、すっかり深夜になっていた。
「……なんだか、寝つけないです。」
愛菜がぽつりと、小さな声で呟いた。
「──オレも、同じだ。」
静かに彼女の問いを返す。
「あの、深海さん。ちょっと変なこと、聞いてもいいですか?」
「ああ、もちろん。」
「……私、皆さんに迷惑をかけてませんか?」
「……どうして、そう思うんだ?」
「私、記憶を失って……皆さんの知ってる“私”は、もういない。深海さんも、みんなも、きっと色んなことに巻き込まれて。その原因が私なら……もし私がいなければ、そんなことにはならなかったのかなって、考えてしまって。なんとなくですけど……ずっと、そんな気がしてるんです。」
「……まあ、正直に言えば、背負ってないとは言えないかもしれない。でも、少なくとも“今”のお前が、オレに迷惑をかけてるとは思ってない。そこは安心していい。」
「……私、“愛菜”って呼ばれるの、すごく嬉しいんです。どうしてかは分からないけど……でも分からないからこそ、怖くて。自分がどこから来て、どんな人間だったのか、家族は? 友達は? 好きだったこと、嫌いだったこと、夢や、想い……それが何も思い出せない。だからきっと、私は皆さんに迷惑をかけてる。そんな気持ちが、ずっと、胸の奥から離れないんです。」
「愛菜…?」
震えるような小さな声を聞き、俺は体を起こす。
見れば、彼女は軽く肩を震わせ、涙をこらえていた。
────彼女を見て、俺は間違っていた事に気付く。
もっと早く、彼女の気持ちに寄り添うべきだった。
目を覚ました彼女にとって、この世界はすべてが初めてで、すべてが“他人”だった。そんな環境に、たった一人で放り込まれる恐怖。
それを、ちゃんと想像してやれていなかった。
彼女の不安も、涙も、抱えていた孤独も────
今、救ってやれるのは俺だけだ。
今この瞬間、俺にしかできないことがある。
「……愛菜、ごめん。本当の意味で、お前の気持ちを理解してやれてなかった。分かってるフリをして、向き合ってなかったんだと思う。今から話すのは、オレの知ってる“海宮愛菜”のことだ。オレの記憶の中に居る、“海宮愛菜”の話。もし聞きたくなかったら、聞き流してくれ。」
彼女の前に座り、目を見つめる。
優しく、でもまっすぐに。彼女の不安が少しでも和らぐように、心を込めて語り始めた。
「───お金持ちの家に生まれた、オレと同い年の十九歳。名前は、海宮愛菜。
母さんとはとても仲が良さそうで、父さんのことはあまり話してくれなかったけど、近所ではすごく評判が良かった。だからきっと、家族仲も凄く良かったんだろうなって、オレは思ってた。
学校では、みんなの中心にいて、困ってるやつがいたらすぐに気づいて手を差し伸べる。
優しくて、努力家で、そういうところがみんなから尊敬されてて、生徒会長にも選ばれてた。
勉強もできて、誰からも信頼されてて──まさに文句なしの優等生だったな。
オレも、何度も助けられたことがあるよ。
お前の言葉に救われたこと、何度もある。
好きな食べ物は、スイーツとラーメン。
しかも両方“別腹”らしくて、どれだけ食ってても『これは別だから』って、嬉しそうに頬張ってたっけな。
苦手なのは苦いもの全般で、ピーマンとかゴーヤとか見ただけで眉をひそめてた。
好きなことは、人を笑わせることと、お菓子作り。
小さい頃からずっと作ってて、誰かに振る舞っては『美味しい』って言ってもらえるのが嬉しいって、いつも言ってた。そうやって笑顔を集めるのが、愛菜の何より幸せな事だったんだよな。
苦手なことは、裁縫とお化け。
お化けは苦手ってレベルじゃなくて、ホラー映画見ただけでオレに飛びついて泣き叫ぶくらい。
正直、びっくりしたけど、ちょっと可愛かった。
裁縫が苦手なのに、無理してマフラー編んでくれたことがあったな。編み目はボコボコで、決して上手じゃなかったけど……その気持ちが嬉しくて、今でも大事使ってるし、使わない時はしっかりしまってる。
身長がちょっと低めなのがコンプレックスで、背の高い子を見ると、心の中で『縮め、縮め』って唱えて睨んでたらしい。オレもしょっちゅう睨まれてたっけ。……冗談だと思ってたけど、今思えば、あれは結構ガチだったな。
でもそういうのも、全部含めてお前らしくて。
背が低いのを気にしてるくせに、ヒール履いたら『足痛い〜!』って文句言ってた。
それなら履くなよって、何度ツッコんだことか……
将来の夢は、パティシエになることだったな。
小さい頃からお菓子作りが好きで、自分のオリジナルスイーツを作って、オレに食べさせて腰抜かせるのが目標だって、真剣な顔で言ってきたっけ。
試作品作ってくれたこともあってさ───
それが本当にうまくて、『これマジで店出せるだろ!』って、2人で腹抱えて笑ったな。あの時の笑顔、今でもはっきり覚えてる。
愛菜は、一人の時間があんまり得意じゃなくて、いつも誰かと一緒にいたがってた。オレも、しょっちゅう色んなところ誘われてた。正直『またかよ』って思うときもあったけど、でも……一緒にいると、なんだか安心できた。オレも、気づいたら誘われるのが当たり前になってたんだよな。
……それと──(……なんでだよ、オレ。今、泣く場面じゃねえだろ。まだ、話は途中だ。語らなきゃいけないこと、まだあるだろ。涙なんか出すな、踏ん張れ。……でも、止まらねえ。記憶の中の“あいつ”が、あまりにまぶしすぎて……)
── それで、お前は、オレの隣をいつも歩いてて、来んなって言っても着いてきてたりもして、しつこいけど誰よりも優しくて、気を使えて、オレの事を『シンくん』って可愛く呼んでくれて、常に本心を隠してるけど嘘が下手でバレバレ、そんな純粋な一面を持つ天真爛漫な可愛い女の子。
──── それが、オレの知ってる海宮愛菜だ。」
俺が分かる海宮愛菜の情報は、全て伝えた。震えた声で、涙を堪えながら話を終えた。
彼女は、堪えていた涙も限界が来たのか、静かに涙を流し俺の方をずっと見ながら、俺の言葉を聞いていた。
「………今の言葉を聞いた所で、愛菜の気持ちがどう変化するかは分からないけど。オレは昔の愛菜も、今の愛菜も同じ様に見てる。
たとえ記憶があっても無くても。お前は正真正銘、海宮愛菜だからだ。…もし分からない事や不安な事があるのなら、これから一緒に探していこう。一緒に分かっていこう。一緒に乗り越えていこう。愛菜は一人じゃない。隣にオレが居る限り、一人になんてならない。
いつか不安な気持ちが無くなって、幸せだなって思える日が必ず来る。その時が来るまで、一緒に頑張ってみよう。
オレはずっと、君の隣に居る。『今の不安より明日の幸せ』を願いながら、一緒にこれから時を過ごしていこう。毎日、毎日、死ぬまでずっと、傍に居てやりたいんだ。俺の身勝手なわがままだと思って、オレを隣に置いて欲しい。傍に居させて欲しい。」
お互い涙で潤んで顔が見えていない。
けど、彼女に精一杯気持ちを伝えられた。
心と心で通じあった気がした。
彼女は下を向き、涙を出しながら呟き続ける。
ぼそぼそと、心から漏れる本音を吐き続ける。
「──本当に怖かった、どうしていいから分からなかった。……今も正直、全部は分からないけど。…でも、一つだけ分かるの、あなたの言葉は全部、信用出来るんだって。だから、あなたの言葉、信用してもいい?私は、誰にも迷惑かけてないって、私は、ひとりじゃないんだって。私の不安なこの気持ちは、絶対にこれから無くなっていくって。」
「ああ、信じろ。信じていい。というか言葉より、明日からの行動で信じさせてやるよ。オレは意外と、好きな人にはとことん一途なんだぜ?梓ちゃんへの愛よりも大きな想いを、時間をかけて伝えていくつもりだ。何年も何年も何百年でもいい。オレの寿命が尽きるまで、ずっと言い続けてやるよ。」
彼女がふふっと笑った。2人の距離が近づく。
そして彼女が俺の胸に手を置き、身体を委ねる。
疲れているのか、力が抜けたのか。
「……うん、信じる。私には "シンくん" がいるって。シンくんの事を、私が信じたいから。」
「…ッ!」
そっと、彼女が俺を抱き締めた。
涙で服が濡れるのが気にならないほど、彼女の呼び方が変わった事に、驚きと嬉しさがあった。
その瞬間、俺も涙が再び溢れてきた。
彼女を抱き寄せ、優しく髪を撫でながら、そっと呟く。
「……オレは、君の為にここにいる。君の嬉しいとか、悲しいとか。プラスやマイナスの、色んな感情を一緒に共有できる。そんなパートナーになりたいって思ってる。だから、これからは、オレを信じてついてきて欲しい。オレの隣で笑ってて欲しい。オレだって愛菜と同じで、人の笑ってる顔が好きだ。だから隣にいる愛菜と笑い合いたい。それにオレは、絶対に、愛菜を見捨てたりしねえよ。」
彼女が顔を上に上げ、目が合った。
彼女の目尻にある涙を指で拭い、彼女が言葉通り笑った。
彼女が再度抱き締めた。
先程より、ぎゅーっと強く力を入れて。
俺もそれに答えるように、不安を吹き飛ばすように、力を込めて抱き締めた。
「───初めて会ったはずなのに、なんでこんなに胸が高鳴るの。こんなに、あなたの事を考えると頬が赤くなるの…。なんでこんなに、大好きだって思うの。……なんでこんなに、愛して欲しいって思っちゃうの…。」
彼女が、ぼそぼそと俺の胸の中で呟いた独り言。
その言葉は俺に届かなかったが、幸せな空間は、気が付けば、ずっと朝まで続いていた。
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