聖女編33
ラファイアは深い藍の空に浮かぶ冷め醒めするような銀色の月を見上げて吐息をついた。
ハーヴェ神の神殿での儀式がもう明日という日の夜更けである。
眠れない。
いつまでも帰ってこない最高神に神官達が平気な顔をしていることが彼女には信じられない。誰に聞いても「いつものことですから大丈夫ですよ」と言うばかりで、ハーヴェ神の心配をする者は皆無だ。
ラファイアは彼に何かあったのではないか、とか最後に会った時の様子を考えて、もう自分に会いたくないのでは、と不安なことこの上ない。
もう明日は儀式だというのに。
ラファイの刺繍した儀式用のローブはファーレ神殿の神官長ベニトラも太鼓判を押してくれたから着るのが恥ずかしいということはないだろう、とやや自信無く彼女は思う。やはり自分に会いたくないからではないか、と思ってまた吐息が出る。
月は答えてくれない。
ハーヴェ神が太陽として表されるのならば、月は彼の妻ミューゼ神を表す。
全てのものの死を司る女神ミューゼ。その姿を誰も知らない。それは最終的に行き着く場所におられる神だから、というだけでなく遥か遠い天界からこの世界と距離を保っているからだという。その理由は明確になっていない。神々だけが知る理なのである。
どんな神様なのだろうか。
ラファイアは焦れた思いで月を仰ぐ。
あの最高神の妻なのだから相当な美貌に違いない。そしてあの奔放に見せかけている義理堅い神に付き合う神なのだからかなりの手練れだろう。
悔しいがラファイアの出る幕ではない。
この地上で癒されない彼は天界へよく帰るのだ。
もちろん、天界には天界にハーヴェ神の仕事があるのだろうとは思っているが。
こんな浮気相手みたいな気持ちを抱くなんてどうかしている。
ラファイアはもう何度目かの吐息を漏らして庭へ出て行く。
月明かりのおかげで視界は昼間のように明るい。
庭に伸びた石畳も草や木々の生い茂る様も鮮明に目に入ってくる。
ふと足元を見てラファイアはしゃがみ込む。陽光の元では開いていた花が月明かりの下では閉じているのだ。その可憐な様が哀愁を呼び起こす。
「ラファイア?」
耳に馴染んだ声がラファイアを呼んだ。
振り仰ぐと月を背にした黄金色の神が浮かんでいる。
「ハーヴェ様」
会いたいと思っていた存在が目の前にいる。
少しの間頭が真っ白になって、ラファイアはただ彼を見上げている。
「ああ、私の最愛。なんて表情をしているのだ。そもそも、こんな夜遅くにどうした?眠れないのか」
輝かしい美貌がラファイアの上にふわりと降りてきて当然の行いとでも言うかのように自然に彼女を抱きしめる。
熱いくらいの彼の体温にラファイアは安堵してしまう。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
しばらく言葉もなく抱きしめられていると彼が不意に体を離した。
「さあ、もう寝台へ向いなさい。それとも私の寝所へ来るかい」
軽い冗談のように言う彼の瞳は切なげに揺れている。
「はいと言ったら、連れて行って下さるのですか」
答えるラファイアの声は硬い。
「そうだね。連れて行き、君を貪り尽くして死ぬまで閉じ込めておくだろう」
死んだって離してあげないけど。
軽薄者の表情でハーヴェ神は言って彼女に背を向ける。
「冗談だ。君が眠らないとヘルーシュが休めないだろう。明日は君の相手をしてあげられないが、よく眠って万全の体調で過ごして欲しい」
「はい」
ラファイアは姿は見えないがここにいるだろうヘルーシュ神に申し訳なく思いながら部屋に戻る。
他人行儀なハーヴェ神の側にいることが辛い。
言葉や態度にはないけれど、はっきりとした彼の拒絶がこんなにも身に堪える。
泣きそうになってラファイアは寝台に潜り込むとぎゅっと目を閉じる。
まだ聖女として何も始まっていない。
そう思ってラファイアは何とか震える心を押さえつけてまんじりともせずに朝を迎えるのだった。
儀式は神官長の高らかな祈りの声に神官達が追随するように荘厳な祈りが始まり、それから子供達が神殿で祝福を受ける。
一人一人に手を向けて温かい波動を送っているハーヴェ神を遠くから見つめてラファイアは彼が神気を抑えていることに気が付く。
最高神ともなれば神気の可変ができる。
それは新鮮な驚きだ。だが通常そんなことをしていられないのだろう。ラファイアに会う時は抑えられていないのだから。
子供達は緊張と興奮した様子で祝福を受けていく。全ての子供が祝福を得ると神官に案内されて帰って行く。神殿から人の暮らす麓の街までは徒歩で数日かかる。かと言って馬でもかなりの距離があるから寝台付きの馬車で送らせるのだ。そして麓の街では人間だけの祝宴が開かれ、子供達の成長を祝う。
気付けば昼はとうに過ぎ、夕暮れに近い時間だ。
神官もラファイアも空腹に気付かずに過ごしていたらしい。それも儀式の通例のようで、誰も不思議がらない。むしろ食堂ではタイミング良く豪華な食事を配膳してある。
聖騎士も神官も上下の分け隔てなく席について神官長の言葉を待っている。
いつもは部屋に食事が運ばれるラファイアも今日ばかりは目立たぬように隅の席に座っていた。隣近所に神官も聖騎士も座ってくれないことに少し傷付いてしまうが、何っちゃって聖女だから仕方ないのかもしれない。それよりも聖騎士が集まって皆で食事を囲む懐かしい雰囲気に気分を高揚させているのだ。
神官長の有難いお言葉も締めを迎えようとしている。
「ハーヴェ様の恵みに感謝します。我々はこれからも精進し、神と民のために力を尽くしていくことをここに誓いましょう」
皆が盃を掲げる。
「ハーヴェ神に感謝を!」
「神と民の為に我らは在る!」
神官と聖騎士の唱和にラファイアも心から神と民に忠誠を誓う。
すると食堂にキラキラと雪のような光の玉が溢れ出す。温かな光は淡くなって消えていく。
「ハーヴェ神の祝福だ」
神官達が感謝を捧げるように胸に手を当てて首を垂れる。
姿は見えないがハーヴェ神が日頃の彼らの忠誠を労っているのだとラファイアは胸が温かくなる。
光が落ち着き、しばらくして食事が始まるとそこからは静かだが時折話し声のする神殿で良くみられる食事風景になる。
ラファイアは耳を傾けると言うよりはその小さな喧騒を聞き流すように食事をしていたが隣に聖騎士がやって来たので顔を上げる。
「やあ、聖女殿」
「ルガード隊長」
ファーレ神殿の聖騎士であり、第一部隊長のルガード・エアンだ。ラファイアも顔だけは知っている。各神殿の聖騎士達が年に一度代表者を集めて会議を開く。その時にラファイアも連れられて参加したことがあるのだ。その時に自己紹介だけはした間柄なので忘れられていることもあるだろうと思っていたが。
「いきなりの質問ですまないが聖女殿のご実家のベルシルク家の騎士達がバーザワール領へ出兵したと言うのは本当かな」
肉料理を美味しそうに咀嚼してから彼はラファイアの目を見ながら問うた。
「ええ、本当です」
貴族の私兵である騎士団の情報は隠されることが多い。
領地戦と言うものはこの世界では起こり得ない。それは神がおわす場所で争いを生むような愚かなことを人間は選択しないからだ。しかし、どれだけの武力があるのか把握されて他領に支援を求められても人員を割けるとは限らない。無用なトラブルを防ぐ為にも兵力は秘密にされる。
「聖騎士の支援を要請したか?」
「マルカド神殿の聖女に協力を仰いだと聞いています」
「なるほど。それでは君のところの、いやすまない。適切な言い方ではなかったな。君は我らがハーヴェ神の聖女殿だ。ええとつまり、なんの話かと言うとヴァンニ神殿の聖騎士が調査をしているだろう。そのことだ」
「ええ。ルガード隊長の意見をお聞きしたいと思っていました」
ラファイアが聖騎士の顔で言うとルガードは大きく頷いた。
「だろう?ここでは何だから明日儀式の後で執務室に来てくれ。儀式の日は詰め所が静かになるんだ。好都合だろ?
それにしても良かった。都合よく君がここにいてくれて。実はハーヴェ神のガードが固くてずっと君に話しかけられなかったんだ。聖騎士の動きを理解して補佐してくれる聖女がいたらとずっと思っていた。ほら、聖女を最前線に持ってくるなんて恐ろしいことできないだろ?でも君なら理解してくれるんじゃないかと……」
ルガードが最後まで言い終わらずにラファイアの表情を見て言葉を止める。
ラファイアは微笑んでいただけだが、その顔は悲壮にも見える。鉄壁の無表情を貫いていたラファイア・ベルシルクしか知らない彼は驚いたのだ。
「どうかしたか」
「いいえ。ただ私も聖騎士でありたいと思ってしまいまして。ダメですね、せっかく聖女として迎えて頂いたのに」
「あー、なんだな。いきなりだったのは聞いている。攫うように連れてこらたってな。まあ、ハーヴェ神がそんな鬼畜な行為に及ぶなんて何か理由があるんだろう。俺たち人間には預かり知らぬな」
「そうですね」
ハーヴェ神との距離が近くなってしまって忘れかけていた常識だ。
神の考えなど人間には到底理解できない。
そんな当たり前のことを思い出してラファイアは無意識に胸に下げている印章を握った。




