聖女編17
体をたっぷりの石鹸で洗浄し、程よい温度の湯の中で体を伸ばしたらラファイアの心にゆとりが生まれる。実家の石鹸の香りも既に懐かしくて安心する。
普段は神殿で神官の目があり、攻撃的な聖女見習いが約一名いる上、ハーヴェ神のアピールが素晴らしいくらいなので気が抜けない。
けれど。
あんなに慈愛以上の熱い瞳で見つめてくれる存在から離れてしまうと心許ない気分になってくるのだから不思議だ。
慣れって恐ろしい。
ラファイアは胸に下げている認識票とハーヴェ神の神紋の入った指輪を指で弄いながらぶくぶくと湯に埋もれる。
「お嬢様、お背中お流ししましょうか」
意気揚々といった響きでフィーランが黒いシャツに黒いズボンというこれまた漆黒の出立で風呂場に現れる。
「フィーラン、私は一人でお風呂に入れるって言わなかったっけ?」
聖騎士人なってからは食事の支度も着替えも侍女にも手伝わせたことはない。それなのにこのフィーランはラファイアを甘やかしたくて仕方がないらしく、自分が騎士の仕事で側にいない時以外は必ず世話を焼こうとする。
「私の生きがいを奪うおつもりで?」
「私に忠誠を捧げてくれるのは嬉しいけれど、あなた他に構うべき人はいないの?」
世間様から見ればこのフィーランの容姿はすこぶる美しい部類に入る。恋人の一人や二人、いるだろうに。
ラファイアは呆れた顔をフィーランに向ける。流石に湯の中まで覗くような失礼なことを彼はしないが、愛情が行きすぎているきらいはある。
フィーランの漆黒の長い滑らかな髪は艶があり、後ろで無造作にひとまとめに括られているが、肩に垂れた一房を払う様が艶かしく色香をほとぼらせる。彼の憂いを含んだ切れ長の瞳に見つめられれば呪縛を受けたように彼の虜になるだろう。男らしいキリッとした眉、すっと伸びた鼻筋、そして大らかな言葉を紡ぐ大きな口。職業柄なのか持って生まれたものなのかは分からないが、圧のある、ともすれば冷酷そうにも見える美貌はラファイアに対してだけは確かな温度を保って接してくれる。
「私にはお嬢様以外に大切なものなんて有り得ないですがね」
「ふうん。私が聖騎士になった時も散々反対してくれたものね」
「当たり前です。お嬢様がわざわざ危険な任務を背負うことなどないのですよ。まさかそのまま聖女になってしまうなんて想像してませんでしたが」
「それは私も。まさかハーヴェ神に見染められるなんてね」
今でも信じられないし、信じてはいけない気がする。
「まあ、あの人も色々あるんでしょうけど」
フィーランの言葉にラファイアは笑った。
「ハーヴェ神は人じゃないし、フィーランは会ったこともないでしょ?」
「私にとったら神も人もみんな同じですよ」
彼のその言葉は不思議にラファイアの心に響く。
神の価値観は人間とは大きく違うけれど、人間を生み出したのは神々だ。似ているようで違い、違うようで似ている。
「フィーランは神様相手でも変わらなそうね」
「当たり前です。私の特別はお嬢様だけです。それじゃ、のぼせないうちに風呂から上がってきて下さいよ」
念押しするように言って彼は風呂場から消えていく。
幼い頃から自分を気遣って無条件に甘やかしてくれる相手にはラファイアも素直になれる。ところがハーヴェ神相手だと素直になれない。もちろん、相手が持っている感情が大きく違うことが前提なのだろうが。
フィーランは愛情を与えてくれるが、それは恋愛感情ではない。けれどハーヴェ神は欲望を向けてくるのだ。警戒して当たり前かもしれない。
彼女は風呂から上がるとベルシルク家騎士団の訓練着に着替える。兄や姉もこれを常日頃から着ており、ドレスやワンピースなどよりもよっぽど着慣れている。
ラファイアが食堂に向かうと執事長が待ち構えていた。
「ラファイアお嬢様、閣下よりご伝言でございます」
恭しく一礼してから彼はこう告げる。
「帰還の挨拶は後ほどでも構わない。まずはしっかり腹ごしらえせよ、とのことでございます」
言われてから、しまったと顔に出る。何よりも先にベルシルク伯爵である父に挨拶をするべきだった。フィーランに会って気が緩んでしまったらしい。
「父上に伝えて。お気遣いに感謝します、と」
「かしこまりました」
執事長は一礼して去り、次に給仕たちが食卓に食事を並べてくれる。
道中は簡素な携帯食しか口にしていなかったラファイアも実家の食事となると急に空腹を覚えてしまう。
神殿や一般貴族の食事とは全く違うガッツリ系の料理だ。体を資本とするベルシルク家騎士団名物だ。
舌に慣れた味を堪能し、ラファイアは久しぶりにお腹も心も満タンになった。