聖女編16
怒っていても仕方がない。
ラファイアは実家へ向けて馬を進めることにした。
問題の指輪は無くしたら困るので聖騎士時代の身分証であるプラチナの認識票と同じように胸から吊るしておく。
聖騎士時代の癖が抜けずに、未だに金鎖の首輪に認識票を通して身に付けていることはハーヴェ神も知っている。あれだけベタベタ触ってくるのだから首から下がった鎖に何がぶら下がっているのかは承知しているだろう。
「お嬢様」
馬を進めて行くと懐かしい声が彼女を呼び止めた。
「フィーラン」
彼女は懐かしい顔に破顔して馬を降りて近づいて行く。
漆黒の髪に漆黒の瞳。元々白い肌は日に焼けている。傷ひとつない黒の甲冑に珍しい黒い鞘に抜けばやはり黒色の剣。
黒ずくめの美貌の騎士が微笑みを浮かべて立っている。普段は鋭い眼光が今は柔らかに彼女へ向けられ、逞しい体躯が彼女を抱きしめようと待ち構えている。
「お嬢様?」
一向に胸に飛び込んでこないラファイアに催促するように腕を広げたまま上下させている。
「もう、フィーラン。私は小さな子供じゃないのよ。淑女はみだりに男性の腕の中に飛び込んだりしません」
「本当に?俺のこと、世界一大好きだって言ってませんでしたか」
屈託ない物言いにラファイアの方が恥ずかしくなってくる。
「子供の頃の話でしょ!」
ニヤニヤとフィーランが開いていた腕を組んで彼女を見つめてくる。彼女より少し年上なだけなのに、昔から大きな愛情をもってして彼女を甘やかしてくれる存在だ。
フィーランは小さな頃から体が大きくて、ラファイアにとって安心できる父親のような存在だと言ったら彼に怒られるだろうか。そんな彼はベルシルク家に仕える家門の筆頭でベルシルク家騎士団の団長の嫡子である。そして彼女に絶対の忠誠を捧げてくれている珍しい存在だ。
「それはそうと、お嬢様。俺の記憶が確かなら、あなたは最高神の聖女になられたのではなかったですか」
迫力ある美貌に見下ろされながらラファイアは「あー」と呟いたまま目を逸らす。
「ふむ。追い出された訳ではなさそうですね。最高神の匂いがぷんぷんしているから、里帰りか何か、ですかね」
「分かるの!?」
驚いて彼を見上げれば、フィーランの良い笑顔が待っていた。
「お嬢様のことで俺が分からないことがあるわけないじゃないですか」
「そうなの?」
「とりあえず、お疲れでしょう。屋敷に戻って湯浴みでもなさって下さい」
フィーランが彼女の馬を引いて行く。
彼らは近況を話しながら大きな門扉にたどり着く。
ベルシルク伯爵家の持つ屋敷だ。
広大な敷地、森か山かと言った方が正しいのだが、そこをぐるりと背の高い鉄柵と頑丈な石壁が覆い要塞のような趣だ。所々に監視台が置かれ、門には剣帯した衛兵が立っている。彼らもラファイアに気が付くと口元に笑みを浮かべて迎えてくれる。
華々しさはないけれど堅牢で実直な家風のベルシルクのことをラファイアは誇りに思っている。だからこの厳かな雰囲気に帰ってきたという感慨が胸を震わせる。
そんなベルシルクの屋敷から海に面した港待までが王都の繁栄している部分にあたる。王城が遠くに見える位置だが、ベルシルク家が重んじているのはヘルーシュ神の神殿だ。屋敷から神殿に一直線に伸びている広い街道が示す通り、ベルシルク家から神殿はそう遠くない。
港から真逆の方向の岩山に位置しているヴァンニ神殿。岩山と表現されるものの、ここは緑も豊かで神の山らしく動植物が豊富に存在している。なだらかな丘の上に人々が参拝する為の神殿が建ち、その背後の高い山に神であるヘルーシュ神の真の神殿があるのだ。
ラファイアはふと丘の上に聳え立つ石造りの神殿を見上げる。
夜でもないのに篝火が揺らめいているのはヘルーシュ神が神殿におわす証。
ハーヴェ神の神殿からもうお戻りになったのか、と神がいかに人間と違うのかと思って吐息をつく。
屋敷の使用人たちに迎え入れられながら、フィーランと別れて自室に戻る。
聖女に選ばれてしまってから戻れていないが、部屋はそのままにしてくれている上に清潔が保たれていてありがたい。
彼女は一旦旅の服から部屋着に着替えてホッと息をつく。
「お嬢様、岩風呂を用意しておきましたのでゆっくり浸かって下さい」
ベテラン侍女のベラが気遣うように言ってくれるので久しぶりにベルシルク自慢の温泉に浸かろうと着替えを持って移動する。部屋にある風呂は小さく、温泉ではない。
屋敷にある大浴場はわざわざ地下を掘って冷泉を汲み上げ、魔法で温めて使用する。岩風呂の名の通り、その広さは天然の岩場に造られただけにかなりの大きさだ。温泉特有の匂いはなく、無色透明のまろやかな肌あたりの湯は騎士たちの傷を癒してくれる。
他家の貴族に比べると随分質素なベルシルクだが、この岩風呂だけはかなり贅沢な代物だとラファイアは思っている。
すみません、投稿の順番間違えて慌てて直してました。
読んでくださっている途中の方、邪魔して申し訳ない。