聖女編15
「ねえ、ミューゼ。少しは私の言うことを聞き入れてくれないだろうか」
愛しい彼がそう言って、優しく私の右腕を取って引き止める。
「そうね、愛しいハーヴェ。大事なあなたのことを蔑ろにする気はないの。でも、ほら、分かるでしょう?」
「いや、分からない」
即答した彼がおかしくて私は笑う。
偉大な生の神ハーヴェ。生真面目で慈悲深くも冷徹な彼は私の前では少し幼く振る舞う。それは私が彼にとって最大限に信頼を置く相手だから。お互いを必要不可欠として生まれた私たちの絆はどんなことがあっても切れることはない。
その筈なのに、彼は心配性だ。
私が人間たちの世界に赴くことを良しとしない彼は私を天界に引き留めておきたいのだ。
「あなたも人間の世界で過ごせばいいのよ。そうしたらどんなに人間が愛しい存在か分かるわ。神殿もあるのだから、足を運んでみなさいよ」
「いや、私には天界の仕事がある。それを放りだしてまで行く訳にはいかない」
真面目腐った麗しい美貌が可愛すぎて私は彼の額にキスしたくなる。
「ハーヴェ、私の最愛」
近寄ると彼の腕の中にすっぽりおさめられてしまう。このまま彼は私を手放す気はなさそうだった。今日はもうお出かけは諦めねばならない。
残念ね。
そう思ったところで目が覚めた。
ラファイアは自分がどこにいるのか一瞬分からずに辺りを見回す。
柔らかな日差しが緑黄の草を照らし、淡い紫の小さな花や黄色いの可憐な花、白く大きな花びらを持った背の高い花など、様々な植物が風にそよいでいる。
穏やかな時間。
そして夢で見た優しい時間。
誰か聖女の記憶を垣間みたのだろうか、と考えながら彼女は立ち上がって馬を呼ぶ。夢にハーヴェ神が出てきたことに多少なりとも動揺してしまう。
時々力の強い聖女が他の人の記憶を垣間見ることができると聞く。ラファイアは自分が偽聖女だと分かっているが、魔力がない訳ではない。だからこんな夢を見たのかと思うのだが。
分からないことを考えていても仕方ない。
それに夢は夢。現実とは限らない。ハーヴェ神はチャラチャラしているのが通常運転だ。彼が真面目だなんて考えられない。もしかしてこれは願望だったりするのか、と変に動悸を感じて汗をかく。
チャラチャラしているなんて神に対して不遜な、と今更な考えをしているラファイアに馬が鼻先で乗馬を促す。
「考えても仕方ないよね」
彼女は再び走り出す。
景色が流れ、山間から街へ入る。ここからは大きな街道を抜けたらもう故郷に近い。かなり飛ばして来たから、と考えてみても到着が早すぎる。もしかしなくてもハーヴェ神が何かしたのだろうと予測がついた。だからあんなにいつも触れてくるのに出発前は手さえ握ってこなかったのだ。しばらく会えないと言うのにおかしいと思っていたのだ。
そうやって膨れっ面になってしまっているラファイアだったが首を振って意識を目の前に戻す。いつの間にか人通りも多くなっている。
知らぬうちに距離が進むのは有難いことだ。疲れの度合いが全く違う。
ラファイアは出店から流れてくる肉の焼けるいい匂いに釣られそうになりながら、速度を調整して進む。街道には徒歩の旅人も多い。馬で轢かないように気を付けなければならない。
活気のある通りを抜けると前に進むだけの道になる。つまり、道以外は何もない。時折警邏の騎士がいたりもするが次の街まではただ進むのみ。親子連れの旅人が道端の花を指さして語らっていたりするのを微笑ましく見ながらラファイアは自分の家族のことを想う。
両親、姉、兄たち。末っ子のラファイアは実はかなり甘やかされていたのだ。厳しい家訓の中にあっても愛情を惜しみなく注いでもらったラファイアは家族が大好きだ。できれば結婚せずに家族と暮らしていたい。聖騎士になっても帰る家があって大切な家族がいて、もうこれ以上の贅沢はないとすら思っている。
ハーヴェ神の聖女に指名されてから人生の方向が全く別の向きになってしまったが。
できれば聖騎士に戻して欲しい。
そんなことを考えていると無性にハーヴェ神の顔を思い出してしまう。
何の効果なんだ、と一人慌てながら、彼女は街道を抜けて大きな関所のある門の前に辿り着く。
ポケットから身分証と通行書である指輪を取り出して、まじまじとそれを見つめた。
「通らないんですか」
後ろから商隊の一団から声をかけられて、慌てて関所を通過するための列に並んで兵士に挨拶をすると相手が破顔して敬礼を捧げてくれる。
「聖騎士ラファイア・ベルシルク様!」
故郷の関所の兵士は王国の部隊も兼ねているものの、大半はベルシルク家の騎士が派遣されているから顔見知りも多いというもの。
ラファイアは微笑んで黙礼し、通行書を見せる間もなく通して貰えた。
後ろの商隊の人々が興味深そうにこちらを見ているが颯爽と馬をかって立ち去る。
関所から離れてすぐに休憩所がある。そこでラファイアは馬から降りて通行書をもう一度見てみる。
「ハーヴェ神の紋章だわ」
何回見ても同じだった。
今までは聖騎士の全国共通の身分証と所属神殿の神官長が発行するどこを通っても許される紙の通行書を持っていた。それが聖女になってからはその聖女の身分証だけでどこでも行くことができるらしい。通行書だと思っていた指輪はハーヴェ神の神紋。他人に見せていいものではないのだ。聖女が持つ神の神殿の紋章とは違い、神紋が刻まれたものはまさしく神の花嫁だという証。しかも指輪だ。そんな大事なものを持たされていたなんて知らなかったラファイアは沸々と怒りが湧いて出てくるのを止められない。