虎を拾ってくれたあなたに
私の好きなことは、虎を眺めることと人形を作ること。そして、憧れのあの人に会いに行くこと。
…会いに行くというより見に行く、といったほうが正しいかもしれないけれど。
「優奈ー、今日どっか寄って帰らない?」
友達の佳枝に声をかけられる。ちょっと考えたけど、でもやっぱり。
「あー、ごめん!今日はちょっと…」
そういうと、佳枝はああ、と納得したように頷いてくれる。
私、立原優奈は文学部所属の大学2年生。今日はバイトもないし、この後の予定もない。ないのだけれど──
「ああ、虎の王子様ね」
「お、王子様は恥ずかしいからやめてってば!」
一途だねえ、と笑う佳枝と別れると、少し早足で大学を後にする。
友達からはからかわれて王子様、なんて呼ばれている彼。
いつも会えるとは限らない、会えたらラッキーなあの人会うために、私は今日も駅へ急ぐ。
4時限目が終わってから真っ直ぐ駅に向かうと乗れる、16時45分発の電車。
今日は急いで来たせいか、少し余裕を持って乗れそうだった。
ホームの階段近くに一旦隠れるようにしながら、息を整える。
10分ほどしか歩いていないのに額から流れ出る汗をハンカチで丁寧に拭いてから、髪も手櫛で梳かす。
よし、と自分にGOサインを出してから、ホームの端に向かって歩いた。
並んで待っている人達を横目に、先頭車両が到着する予定の乗り口まで向かうと、
(いた…!)
スマホを見ながら、少し気だるげに片足に重心を乗せるように立つ彼。
少しドキドキしながら彼の横の列の後ろに並び、盗み見る。
グレーのサマーニットに黒のスラックスがすらっとしたスタイルのいい彼によく似合っている。
耳にかからない程度のゴールドアッシュに少し鋭い目つき。
すっと通った鼻筋と顔は整っているが、一見近寄り難い雰囲気を感じて。
…そんなところがちょっと虎っぽいかも、と勝手に思っていたりする。
(今日こそ、話しかける…!頑張れ私!)
バクバクと胸が高鳴っているのが自分でわかる。
それでも、私は彼に伝えたいことがある。だから勇気をだして声をかけて、もう彼はあの日のことなんて覚えてないかもしれないけど。
でも改めてお礼を言って、それから──。
ぷーっ。突然、大きな音とともに風が吹いて、髪がふわりと揺れる。
電車が到着したようで、人の列は乗車口に合わせて左右に動き出していた。慌てて前の人に合わせて左に寄る。
また声を掛けられなかった…。
少し落ち込みながら車内に乗り込むと、今日はなぜかいつもより人が多いようだった。
帰宅時間と被るため常時人はいるが、満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めになることは無い時間帯。
それでも人の波に押されるがまま、入ってきた方と反対側のドア付近まで来てしまう。
(こ、ここだとつり革に手が届かない…)
身長が150cm程の私は、場所によってはつり革が届かないか、届いてもつま先立ちに近く体勢が安定しない。
だからいつも手すりの近くに移動していたというのにまたこんな所まで来てしまった。
そう、あの日もこんな感じで人に押されて。
更に自分が作った中でも1番の出来でお気に入りだった虎のストラップがリュックから外れて落ちて、でも人でいっぱいの車内で上手く探せなくて。
涙目だった私に彼が声をかけてくれたのが、初めての出会いだった。
「…大丈夫か?」
足を踏ん張りながらも思考を飛ばしていたから、聞こえた声に一瞬反応が遅れた。
低めの声。ちょっとぶっきらぼうな話し方。
聞き覚えのある声に一拍遅れてから勢いよく振り向くと、ストラップを拾ってくれた彼がいて。
「っ?!!!??!」
声にならない声を発しながらも、思わず逃げ出そうとすると前にいたおじさんに体重をかけてしまい、一瞬睨まれる。
でもそんなこと気にならない位、後ろの存在に全神経が集中していた。
体温が上がり毛穴からぶわっと汗が吹き出すのがわかる。
だって、憧れの彼が、後ろにいて、しかも身体が密着してる…?
むり!!!!
理解が追いつかず硬直してしまう。
とその時、カーブに差し掛かったのか電車がガクン、と大きく揺れた。
衝撃に対して何の準備もしていなかった身体は、重力に逆らえないまま後ろへ倒れ──そうになった所を
ぎゅ、と誰かの腕に支えられる。
「うお、あぶね」
「っ、」
ちょっと焦ったような掠れた声。耳の近くで囁かれて身体がぴく、と反応してしまう。
めっちゃくちゃいい声…!!
じゃなくて!!
「ご、ごめんなさい…っ!ありがとうございますっ」
お礼を言って急いで離れようと体をよじる。
だが私の腕を優しく掴んでいた彼の手は、離れるどころか後ろから抱きしめるように私の体に柔らかく巻きついてしまった。
「…っ、」
なんで、どうして。そう思うのに、言葉が出てこない。
でも、抱きしめられていても全然嫌じゃなかった。
むしろ──
「…そのストラップ、直ったんだな」
ポツリと呟かれた言葉に、はっとする。
彼の視線の先には、私の黒のリュックのそばで揺れる、可愛くデフォルメされた虎の人形のストラップ。
「…はい。あの、あの時はありがとうございました」
私が彼に助けてもらったあの日。
お気に入りの虎の人形。ストラップ部分を繋ぐ紐の縫い目が取れかかっているのには気付いていたけれど、週末に直せばいいか、と楽観的に考えてしまった。
けれど人が密集している車内で、人混みからストラップを探せなくて泣きかけていた私にわざわざに声をかけ、そして私のつっかえながらの要領を得ない説明を黙って聞いた後、周りの乗客に
「虎の人形のストラップ落ちてないですか」
と聞いてくれた。
そのおかげで高校生の女の子が足元に転がっていたストラップを拾ってくれ、無事に私の手元に戻ってきた。
その後改めて彼にお礼を言うと、切れ長の目がふっと和らいで。
よかったな、と少し笑って言ってくれたこの人に──私は恋をした。
「…なあ」
「……はい」
「…抵抗、しないのか?」
きっと、抱きしめられるようなこの体勢に対して、ということだろう。
確かに私の事を覚えててくれたのか、とかどうして抱きしめられているのか、とか疑問に思うことは沢山ある。
でもそれ以上に、バクバクという心臓の音が彼にも聞こえたらどうしようとか、走ってきたから汗臭いとか思われてないかなとか、そんなことばかり考えてしまう。
だから。
「抵抗は、しません。」
だって。
「助けてもらったあの日から…ずっと、見てました。もう1回、話したいなって…けど、勇気が出なくて」
「だから、こうして話せてるのが夢みたいで、」
嬉しいんです──と言おうとしたけど、その言葉は彼の手に口を塞がれてしまって、言えなかった。
はあ、というため息と共に右肩に重みを感じて後ろを見ると、彼が私の肩に頭を乗せていた。
「それは…反則だろ」
と肩から顔を上げて睨むような目線を向けてきた。
なぜか少し顔が赤い。
元々の目付きが鋭いのもあって、睨まれると怖いはずなのに──なぜかちょっとだけ、可愛いと感じてしまった。
言われた意味は分からなかったけど、なんだか少し嬉しくなってへら、と笑うと、彼の目が驚いたように丸くなって、それからグゥっという動物の唸り声みたいな音が聞こえた。
え、なに今の音。
そう思った次の瞬間、ぐっと肩を掴まれて抱きしめられるようにしながら電車から降ろされる。
いつの間にか自分が降りる予定の駅を通り越していたようで、知らない名前の駅に到着していた。
肩を抱いていた手はいつの間にか私の手首を掴んでいた。歩くスピードが早い。
小走りになりながらも、無言のまま歩く彼になんとか着いていく。
「あの…」
と途中で声をかけてみるも返答はなく、なにがなんだかよく分からないまま着いていく。
憧れの彼に抱きしめられて、そして今は一緒に歩いているなんてありえないシチュエーションに思考も心臓も追いつかない。
とりあえず掴まれているのと逆の手でほっぺたをつねってみたけど、普通に痛かった。
…うん、やっぱり夢じゃない。
5分程歩いただろうか、まだ新しそうな白い二階建てアパート。
彼がカチャン、と鍵を開けた音を聞いて、どこかぼんやりしていた思考がすっと戻る。
ここは彼の家…?のこのこ着いてきちゃったけど、
私も入る、てことだよね?
あれ?もしかして───なんかやばい?
今更ながらの危機感に思わず足が止まる。
けれども私の迷いなど全く気にする様子もなく、むしろ腕をグイッと引っ張られ、玄関へ足を踏み入れてしまった。
そしてそのまま閉まった玄関にとん、と身体を押し付けられる。
「え、」
なに、と彼を見ようと顔を上げると、彼の長いまつげが近づいてくるのが見えて。
私の唇に少しカサついた何かがふに、と触れる感触がした。
(…えっ?)
呆然とする私に、少し名残惜しそうにしながら唇が離される。
ゆっくりと離れていく唇を無意識に目で追うと、真剣な顔をしてこちらを見る彼がいてーー少し頬は赤いけど。
ーーーうん。
とりあえず落ち着こう。そうしよう。
…落ち着けるか!!!
(まってまって、どうしてこうなった??えーと確か、虎のキーホルダー拾ってもらって助けてもらったお礼を言おうと思ってたけどいつの間にか彼に抱きしめられてて手を繋いで歩いちゃって彼の家?に来たらキスされて、で、今に至ると…え?え!?!?キッ、キキキキキキキス?キスしちゃったよねあれはキスだったよねどどどどうしよう!!!あれでも彼はどういうつもりでキスしたんだろうもしかしてわ、私の事をすっ、すき、とか?でも話したの1回だけだし私チビだし童顔だしこんな素敵な人がすきになってくれるとかそんなことある??あ、待って自分で言って落ち込んできた…)
「…おい。」
(そもそも私の事覚えててくれたのかな私はしっかりばっちり覚えてたしなんなら出会ったその日に好きになったし同じ駅から乗るって知ってから同じ車両に乗ってみたり眺めてみたりそんなことしてる間になんとなく彼がよく乗る時間とか分かってきちゃって今日も走って来たけどまって、これもしかしてストーカーみたいなのでは…!?)
「おい、」
(でででもさすがに毎日じゃないしいつもは私の方が先に電車から降りるし欠伸してる姿とかちょっと寝癖ついてる姿とか見てかわいいなとか思ったりニマニマしてるだけだしこれはセーフでは?セーフとは!?)
「…」
(もももしやバレてる…?私がニヤニヤしながら見てるのがバレてて耐えかねて一言言おうと思って連れてきた的な!?!?いやまってそれならショックすぎる私の癒しと幸せな時間が…!せめて遠くから眺めるのだけは許して欲しい…あわよくば隣の車両とか…でもやっぱり同じ車両に乗るの許してくださいぃ…)
むにっ。
「!」
頬に衝撃を感じ、驚いて彼を見る。
両頬に手を添えられて俯いていた顔を上げさせられると、少し困ったような、怒っているような。
なんとも言えない顔をした彼がいて。
「…やっとこっち向いたな」
そう言いながらふっ、と少し緩められた口元。久しぶりに見た彼の柔らかい笑み。
「~~~!!!」
そんな嬉しそうな顔されると、こっちはもうノックアウトなんですけど!!!
顔が熱い。
でもその笑顔から目を離せないでいると、ふと彼の表情が真剣なものに変わった。
そして、
「…悪かった」
「……えっ?」
「いや、急に家連れて来て手、出すようなことして…嫌だっただろ」
「…」
「…とりあえず、駅まで送る…!?おい、」
私に背を向けて玄関の扉を開けようとする彼の背中にぶつかるようにして縋り付く。
ちがう、違うんです。そう言いたいのになかなか言葉が出てこなくて、縋り付いたままブンブンと顔を横に振る。
彼に勘違いさせたままなんて、ダメだ。
今、言うんだ。ちゃんと私の気持ち、伝えなきゃ。
「わたし、ずっとあなたに伝えたかったことがあって!」
彼の背中がピク、と動く。そんな反応すら怖くて一瞬怯む。
だけど、私に勇気をくれたこの人に、私もちゃんと伝えたい。
「…あの、虎のキーホルダー、昔私が作ったものなんです」
「…そうだったのか」
「はい。…人形とか作るの昔から好きだったんですけど、女の子なのに虎ばっかり好きなのおかしい、人形なんて子供っぽい、ってからかわれてから怖くなっちゃって。大学入ってから、やっぱり好きだからつけようって…昔の気持ちの供養、みたいな感じもあってつけてて。そしたらあの日、」
ストラップが無事に手元に戻ってきた後。
改めてお礼を言おうと彼を見ると、じっと人形を見ているのに気がついた。
───優奈ちゃん、虎の人形なんて好きなの?おかしいよ。
クスクス、クスクス…
ふと誰かの声と笑い声が、頭の中で聞こえる。
違う。これは…過去の記憶だ。そう分かっているのに、気づいたら彼に声をかけていた。
「すいません、ストラップ1つで大騒ぎしちゃって…色んな人に、迷惑もかけてしまって」
彼の顔をそれ以上見れなくて、足元を見ながら話す。
「必死に探してたのがこれだったなんて、びっくりしちゃいましたよね。あの…ご迷惑、おかけしました。ありがとうございました…」
ー情けなかった。
いつまでも過去の記憶に囚われている私も
好きなものを好きと言えない私も、
こんな風な言い方しかできない私も。
だけど彼は。
「…大事なものだったんだろ」
「…え?」
「別に、迷惑じゃない。…そんなに大事だと思えるものあるなんて、すげえだろ。…見つかって、よかったな」
そう、私に言ってくれたのだ。
「それが嬉しくて。私自分の作ったもの大事にしていいんだなって、好きだって堂々と言おうって思えたんです」
「…いや、別に大したことじゃ──」
「いえ!私もう嬉しくて!しかもあの後かわいい、って言ってくれましたよね!」
「…!」
「男の人にもかわいい、って言って貰えると思わなくて、虎の人形!だから私、それも嬉しくて!改めてお礼を言いたかったんです!ありがとうございました!」
一気に言って頭を下げる。ずっと伝えたかった気持ちを言えて、清々しい気持ちで顔を上げた私の目に飛び込んできたのは
───真っ赤な顔をした彼だった。
「え、あの、顔真っ赤…?」
「…なんでもない。」
(そんなこと言われましても。)
なんで顔が赤いのかは分からないけど、何やら動揺しているらしい。
そんな顔はすごく新鮮でじっと見てしまう。
私の視線に気がついた彼に軽く睨まれるが、その顔で睨まれても怖さ半減…というかむしろちょっと可愛さすら感じる。
自然と笑顔が出てしまいそうになるが、口をもごもごさせて必死に耐える。
しかし表情に出てしまっていたのだろう、彼の目付きがより鋭くなった気がする。
「…それで?」
「え?」
「俺に言いたいことは、それだけか?」
「…!あの、もうひとつ、ありまして…。」
今まで彼を見て笑っていたのが嘘みたいだ。
心臓がバクバクして、さっきまでの余裕なんてもうない。
伝えたい言葉は頭の中をグルグルしているのに、口に出せない。
怖い。
折角ちょっとお話できたのに、今までより距離が遠くなったらどうしよう。
面倒な奴とか、ストーカーだとか思われないかな。
…言ったら、後戻り出来ない。こうやって話すことももう、ないかもしれない。
「あの、す、す、す…す…」
「…!」
「す、すっ、すずめが沢山飛んでますね!」
「…」
「す、す、…するめいかとか好きですかっ?」
「わ、わたしはちょっと苦手で~あは、は…」
…わたしのばか。
泣きそう。
今度こそ完全に俯いて涙目を隠す。
泣いちゃダメだ。いま、勇気をだして言わないと。
がんばれ。泣くな。泣くな優奈。
だって、だってもう、好きなことは好きって言うって決めたでしょう?
覚悟を決めて勢いよく顔を上げる。
ゆらゆらする視界の向こうにちょっと驚いたような彼の顔が見えた。
「好きですっ!」
「助けてもらった時から、ずっと…ずっと好きでした!…よかったら、付き合ってもらえませんか!」
言い切り、ぎゅっと目をつぶる。
自分の心臓のどきん、どきんという音がやけに大きく聞こえた。
ふっ、と空気が動く。
手首をくん、と引かれ体勢が崩れそうになる──前になにか暖かいものに包まれて、
「──好きだ。」
抱き寄せられた暖かい胸の中。耳元で彼の声がした。
「おれも、お前のことが好きだ。」
(…っ!)
「つり革に手が届かないのに席を譲るところも、リュックの中身ぶちまけて恥ずかしそうに拾う姿も、泣いてる子どもを変顔してあやしてる所も…見てた」
(え!?そ、そんな所まで…っ!?)
しかも恥ずかしい姿多めである。
見られてないと思って安心してたのに!
途端にアワアワし始める私と、そんな私を目を細めてみる彼。
「気づいたら目、離せなくなってた。…俺と、付き合ってください」
──ぽたり。
水滴が手に落ちた感覚がした。
あれ?と思って顔を手で触って、それが初めて自分の涙だと気がつく。
(おかしいなあ。泣くつもりなんてなかったのに)
そう頭の片隅で思いながらも、次から次へと溢れてくる涙を止められない。
(さっき、泣かないって決めたばっかりだったのに。…でも、まあ、いっか)
これは嬉し涙だから。
ひとしきり泣いて、泣いて…そしてだんだん恥ずかしくなってきた。
なぜなら、あれから彼にぎゅっと抱きしめられたままだから。
もう泣いてませんよ、ということを伝えたくて、腕の中でモゾモゾ動いてみる。
すぐに彼は気がついて、そっと身体を離してくれた。
ちら、と彼を伺うと本日2回目の、ふっと笑うような優しい笑顔を向けられる。
ちょっと!そんなに笑顔を大盤振る舞いしていいんですか!!心臓もちません…!!
(笑顔一つでこんなにドキドキするなんて。しかも彼は余裕そうだし。なんだかちょっと悔しい…)
「あっ、あの、そういえば、さっきなんであんなに顔が赤かったんですか?」
何か話題を変えようと、さっき引っかかったことを聞いてみる。
一瞬何のことだ?という顔をした彼だったが、すぐに思い当たったのだろう、少し嫌そうな顔をしてそっぽを向いてしまった。
(…あれれ?これはもしかして、何か隠したいことがある感じ?)
むっつり黙り込んでしまった彼に少し戸惑いつつも、なにやら彼の余裕のなさげな様子に好奇心がムクムクと湧いてくる。
「あの、もしよかったら教えてほしいな~、なんて…」
「…」
「わっ、わたしだけこんなにドキドキしてるのずるいっていうか!もうちょっとあなたのこともしりたいっていうか!名前だって知らないし、ちょっと寂しいな、とか…」
…いやいや。勢いに乗って何わがままなこといってんの私。
今、たった今付き合おうって話したばっかりだし、彼も絶対困ってるって。
これからちょっとずつ、知っていけばいいんだし、ね。
自分ばかり余裕がなさそうに感じて少し焦ってしまったみたいだ。
やっぱり言わなくて大丈夫です、と言おうと口を開く。
「あの、」
「さくや」
「……?」
「朔弥。俺の名前。…そっちは?」
「…ゆうな。立原優奈、です。」
「ん」
…私が名前も知らないっていったから、教えてくれたんだ。
優しいなあ。
さくやくん、と胸の中で呟く。
途端に嬉しいようなすごく恥ずかしいような、胸の奥がムズムズするような感覚に襲われる。
「あと、」
名前の余韻に浸っていると、腕を引っ張られその勢いのままとん、と頭を彼の胸に軽く押し付けられる。
「…俺も、ドキドキは、してる」
「…!!!!」
さっき抱きしめられた時には気が付けなかった、少し早い鼓動。
それが彼の余裕のなさを何より示している気がして。
「ふふ」
「…笑うな」
だって、あんなに余裕そうに見えたのに。実はすごいドキドキしてたんだね。
勇気をだして好きだ、って言ってくれたんだね。
心臓の鼓動、私と同じくらい早くて嬉しい、って言ったらどんな反応するのかな?
クスクスと笑う私に一瞬むっとした表情を浮かべた彼だったが、そのうち真顔でこちらをじっと見始める。
(…怒っちゃった?)
「あの、ごめんね笑っちゃって。嬉しくて…」
「…虎じゃない」
「え?」
「…笑った顔を、可愛いと思っただけだ」
ちょっと考えて───それから虎のストラップを拾ってくれた時の話だと分かった時、私の顔はすごく赤かったと思う。
同じくらい、彼の顔も赤かったけど。
お互いの真っ赤な顔を見て、おかしくて2人で笑って。
今度こそしっかり目を閉じる。そして、唇に優しいキスが落とされたのだった。