先輩はいつも学ランの上に白衣を着ていて、放課後は理科室でビーカーやフラスコで飲み物を飲んでいる
ある高校の教室で、春宮葵と三浦雪子、二人の女子高生が雑談に花を咲かせていた。
「えー、ウッソー! 葵、今彼氏いるの?」
「うん」
「どんな人?」
「一つ上の先輩なんだけどね……とっても素敵な人なの」
身を乗り出す雪子。
「いいなぁ、会ってみたいなぁ」
「だったら今日の放課後にでも会いに行く?」
「行く行く!」
葵も快諾し、雪子を先輩と会わせてくれることになった。
雪子はいったいどんな人なんだろうと楽しみにしながらその後の授業を受けるのだった。
***
午後の授業も全て終わり、雪子はさっそく葵の席に向かう。
「じゃあ先輩に会わせてよ!」
「うん、そうだね」
教室を出る二人。
「先輩のいる教室に行くの?」
「ううん、きっと先輩は……理科室にいると思う」
「理科室?」
この高校には物理や化学に関するクラブのようなものはなかったはずである。
「先輩、理科室が好きでね。放課後はあそこで過ごすのが日課なんだ」
「過ごすって……そんなことして先生に怒られないの?」
「最初は言われたみたいだけど、先輩成績もいいし、そのうち何も言われなくなったんだって」
「それでいいのか先生方……」
若干呆れる雪子。二人は先輩が根城にしているという理科室に向かう。
***
理科室に入る葵と雪子。
すでに一人の男子生徒が席に座っていた。
さらさらの黒髪に眼鏡をかけており、整った顔立ちをしている。そして、学ランの上に白衣を着ている。
彼こそが葵の恋人である東堂貴司である。
葵が声をかける。
「先輩!」
「やぁ、春宮君」
雪子も挨拶する。
「初めまして」
「君は……? 生物学的には女性のようだが……?」
妙な言い回しをしてくる貴司。
雪子はボーイッシュな見た目であるが、彼女を男だと思う人間は一人もいないだろう。
「三浦雪子って言います。葵の友達です」
「春宮君の友達か。僕は東堂貴司、歓迎するよ」
微笑む貴司。
よく見ると、薄い手袋をつけている。
これから何か実験でもするのかな、と雪子は思った。
「何か飲むかい」
「いただきます」
葵が答える。雪子も首肯する。
すると――
「ジュースでいいかな」
なんと貴司はビーカーにペットボトルからオレンジジュースを注ぎ始めた。
葵は平然としているが、雪子は唖然とする。
「え、それで飲むんですか!?」
「ああ、ビーカーで飲むジュースはまた格別だよ」
確かに格別だろう、悪い意味で、などと雪子が思っていると、
「もしかしたらフラスコの方がいいかい?」
「い、いえっ! ビーカーで! ビーカーでいいです!」
ビーカーに入った橙色の液体が差し出される。怪しい薬品にしか見えず、雪子はおそるおそる手に取る
「それじゃ、乾杯」
三つのビーカーがカチンと鳴った。
貴司は当然として、葵もジュースをおいしそうに飲む。最初はためらっていた雪子も、ついにジュースを口にしてしまう。
当たり前だがオレンジジュースの味がした。ホッとする雪子。
「なんならおやつもどうぞ」
今度はシャーレに入ったポテトチップスを差し出してくる。
「ありがとうございます、先輩!」
「ありがとうございます……」
ポテトチップスを頬張る三人。
ちなみに貴司はピンセットを使ってポテトチップスを食べていた。
しかも、
「少々僕の味覚には合わないな。もう少し塩化ナトリウムをかけよう」
と食塩をかける始末。
普通に「塩」って言えばいいのに、と雪子は心の中で突っ込む。
理科室を私物化、妙な言い回し、実験道具で飲み食い。ちょっと変わってるどころではない。雪子は貴司を「変人」だと判断した。いかに顔や成績がよくても、こんな人間は変人であることに間違いない。
しかし、同時に周囲の目を気にせず我が道を行く貴司にある種の尊敬の念も抱いていた。
きっと何か大きな夢を持っているに違いないと――
雪子が尋ねる。
「あの……東堂先輩って何か夢みたいなものはあるんですか?」
「夢、将来的な目的のことだね。もちろんあるとも」
「先輩はね、なんとノーベル賞を狙ってるの!」
「ノーベル賞……!」
驚く雪子。
頭の中にぼんやりとLEDやiPS細胞といった単語が浮かぶ。
これらと同等の成果を上げるためには、放課後理科室に閉じこもるぐらいの情熱や覚悟がいるのかもしれないと合点がいく。
「我ながら大それた目標だとは思っているけどね」
「いえ……先輩ならやれるんじゃとも思います」
雪子はお世辞でなく、心からの本音でこう言った。ノーベル賞を狙うなら周囲からは変人に見えるぐらいでちょうどいい。
「雪子もこう言ってくれてるし、先輩頑張らなくちゃ!」
「ああ、ありがとう。君たちのおかげでドーパミンの分泌が活性化したよ」
ドーパミンとはやる気を起こさせる神経伝達物質である。つまり貴司も嬉しそうであった。
そこからさらに雑談は進み、雪子は二人の馴れ初めを聞く。
「葵と東堂先輩はどうやって知り合ったんです?」
まず、葵が答える。
「えーと、ある日の放課後、私がつい校内をふらふらしてたらたまたま理科室の前を通りがかって……理科室の中で何かしてる先輩を見つけて、中に入っちゃったの」
「葵も思い切ったことするねえ」
「話しかけたら……先輩も気さくに応じてくれて。そのまま意気投合しちゃって……って感じ」
かなり突発的に始まった恋だったようだ。
雪子は貴司にも聞いてみる。
「先輩は葵が来た時、どう思ったんです?」
「僕の視神経が彼女の姿を捉えた時、アドレナリン、ノルエピネフリン、ドーパミン等の脳内物質が激しく分泌されるのを実感したね」
相変わらず妙な言い回しだが、ようするに一目惚れしたのだろう。
葵もちょっと変わったところがあるしお似合いカップルだな、と雪子は思った。
この頃になると雪子もすっかり場の空気に馴染み、ビーカーのオレンジジュースをおかわりしてしまうほどになっていた。
貴司はノートパソコンを取り出して、タイピングを始めた。これまでの印象に恥じないスピードである。もしかして論文を書いてるのかな、と雪子は推測する。
パソコンで文章を打つ貴司を見て、テストを思い出した葵。
「今度の中間テスト、自信ないなぁ」
「私も」
「そうだ先輩、今度勉強を教えてくれませんか?」
貴司が成績優秀だと聞いている雪子も、
「私もお願いしたんですけど……」と便乗する。
貴司はうなずいた。
「いいとも。問題を解読し、答案用紙に解答を記入する作業は得意だからね」
やはり妙な言い回しだが、テスト勉強の手伝いを引き受けてくれた。
頼もしい味方ができたと雪子は喜ぶ。
「ありがとうございます!」
「特に現代文、日本史は任せてくれ」
「……ん?」
貴司の得意教科に雪子はきょとんとしてしまう。
「あ、あの……」
「なんだい?」
「あなたが目指してるノーベル賞ってもしかして……」
「ノーベル文学賞さ」
「今書いてる新作小説が出来上がったら、私たちにも見せて下さいね!」
葵の言葉に貴司も「もちろんだとも」とうなずく。
雪子は貴司に向かって思わずこう叫んでいた。
「あんた文系だったん!?」
おわり
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