第二話 私的仲裁裁判所(Private Schiedsgerichte)
前書き
この作品は現実世界の現代ドイツを舞台にした物語です。
作中に登場する法律は全て実在する現行のドイツ法です。
俺はミヒャエルの家の一階フロアを眺めていた。
壁一面に棚が作られヤツのオタクコレクションが並んでいる。
まあ、金に物を言わせた壮大なコレクションなわけだが、フロアの正面真ん中に何も置かれていない空間があった。
アイツが世界一の最高のコレクションを見つけた時の置き場所にするって言っていたスペースだ。
結局、そこには何も置かれないままアイツは逝っちまった。
もう13年ぐらい前になるかな、この家に始めて来て浮かれたっけ。
ふと13年前のことを思い出した俺は庭の花を摘むと花瓶を探した、洗面所を見ると花瓶だけでなく花器や剣山まであってドイツとは思えない道具がそろっていた。
こう見えても俺は母親が華道教室の先生をやっているので華道の心得がある。
花をいける時は「体」「相」「用」「右相」「左相」の5つバランスが重要で、これが調和した「五居の構え」こそ基本にして奥義
ありあわせの花ながら5本の枝が絶妙なバランスで調和して俺としては満足のいく作品ができた。
13年前、暫定的な飾りのつもりでここに花を生けた。
そして、今は供養のつもりで花を生けた。
ついでに横にあったアイツのお気に入りの人形のポーズも直してやった、人形のポージングにも華道の心得は役に立つ。
無可動人形でも並べ方のバランスを調和させるだけで見栄えが違う。
そうそう、コレクションの管理も遺言執行者の仕事だってマーサが言ってた、これは俺の仕事なんだと自分の遊びを正当化した。
数時間後、自分で生けた花を中心にしたオタクコレクションのポージングと並びに満足した俺はドイツの遺産相続の本でも読んどこうと思って部屋に戻った。
本をめくりながら昔を思い出した、そういえば、来るたびに誰かがあそこに花を生けていたような気がしたような…
夕方にマーサが来て学校から帰って来たヒルダと3人で話し合う予定だからそれまで一休みと思い眠りこけてしまった。
「アンナ、マリア、ちょっと来て、誰がこれやったの」
俺はヒルダの大声で目が覚めた、ヒルダが一階フロアで大声を出してメイドを呼びつけていた。
フロアに出てみると花屋で買ってきたらしい生花を手に持ったヒルダがいた。
ちょうど高等学校から帰って来たみたいだ。
ドイツの女子高生って制服とか無いんだよな、普通にジーパンとかで萌えが無いなと思いながら二階からフロアに下りて行った。
ヒルダは俺が生けた生け花の前で鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしていたので、
さらっと「あっ、ソレ、俺が生けた」と事実を述べた。
俺の一言になぜかヒルダはブチ切れた。
「嘘をつくなキモオタ!」
「華道はカイザー・サガが始めた伝統芸能よキモオタなんかに出来るはずがない!」
「キモオタなんかにtai、sou、you、usou、sasouの五本の枝が調和した完璧な生け花ができるわけない!」
「その言い方、俺と同じ流派だ、他の流派だと天地人とか呼び方が違うんだよね」
ヒルダは信じられないモノを見る目で俺を見ていた。
俺はなんでヒルダが怒っているのかわからず「なんでオタクが華道できないと思うの?」と余計な事を言ってしまった。
困惑したヒルダは「なによ、日本人なら全員出来て当たり前なの」と聞き返してきた。
「いや、日本人でも出来る人は少数派だよ、俺はたまたま、母親が華道の先生やってたから出来るだけ」と正直に答えた。
ヒルダはなにか自分で自分の大切な物を汚してしまったような罪悪感とか羞恥心みたいなものが入り混じった複雑な顔をしていた。
俺は「ヒルダちゃんも華道やるの?」と聞いてみた。
ヒルダは気を取り直して「私は日本の美が好きなの、お父さんが大好きな気持ち悪い絵とか人形なんか日本文化を穢す汚物よ」と言い放った。
俺は残念な顔で「そんなこと言わないでよ」となだめるように言った。
「ほら、この人形とか俺が「五居の構え」になるようにポーズを付けてみたんだ」
「華道の美もオタクの萌えも本質的には同じ日本の文化だよ」
ヒルダは俺がポージングした人形を見て、何か感じるところがあったのか、ちょっとだけ目を輝かせた。
「ヒルダちゃん、もしかして、萌えた?」
今まで気持ち悪いと思っていた人形に何か感じてしまったヒルダは謎の羞恥心で顔を真っ赤にしてうつむいた。
「何も恥ずかしくないよ、それがオタクの萌えなんだよ」と俺は助け舟を出したつもりだったが、
ヒルダは「キモオタしねえ」と大声を上げて手に持っていた生花で俺を殴打した。
まあ、花で殴られてもちっとも痛くないんだけど、フロアに花が散らばって俺は花まみれになった。
ヒルダは部屋に引きこもってしまった。
俺は花まみれになったのでシャワーを浴びて着替えることにした。
服の洗濯はメイドがやってくれると言うので頼んだ。
メイドのアンナとマリアから聞いた話だとヒルダは幼いころに家に飾ってあった生け花をみて華道に目覚めて、ずっと、あの場所に花を生けていたらしい。
ここのところ、ミヒャエルの死で落ち込んでいて手つかずになっていたそうだ。
あれっ、ヒルダが幼い時に見た生け花って…
あの場所って…
俺は疑問を感じたが、とりあえず棚上げしてマーサと二人で打ち合わせをすることにした。
マーサはヒルダの代理人としてアドルフの代理人であるハンスと交渉に行っていた。
まず、俺がやるべきことは大会準備委員会の審査委員集めだが、
俺は苦悩していた、当たり前だがイベントなんて仕切ったことが無い。
オタク審査委員会を開こうにも、どうやって集めたらいいのか、なんもわからん?
俺は何から手を付けていいのかわからず、のたうち回っていると、
マーサはきっぱりと「法で定める手続きに従って進めます」と言い切った。
俺は「ドイツにはオタク大会開催法とかあるんですか?」と答えがあるわけない質問をぶつけた。
俺の質問に動揺することなく、マーサは馴れたように説明を初めた。
「ドイツで一番のオタクを決める審査委員会は法的には個人間の紛争解決のために設置される私的仲裁裁判所になります」
「基本的な手続きは民事訴訟法の仲裁手続きに従って行われます」
ちょっとまって、俺は法律用語をググってみた。
難しすぎてなんもわからん…
マーサは俺がググるのを諦めてスマホから手を放したのを見計らって説明を続けた。
「ドイツでは中世時代から私的仲裁裁判所が存在していました」
「17世紀には法制度化され貿易、証券取引、事故保険、年金保険、労働者保険、投資家保護、遺産相続まで幅広く行われてきた歴史があります」
「オタクを争うのはドイツの歴史上でも初めての出来事でしょう」
「日本でオタクの私的仲裁の判例が無いか調べてみたのですが」
「自力救済を禁じる日本の法制度では私的仲裁裁判所の存在自体が認められていませんでした」
「ドイツどころか欧州でも初めての事例となりますが、適用される法律は他の私的仲裁裁と同じです」
「最初に行う事は民事訴訟法第1044条、仲裁手続の開始に従って三つあります」
マーサは書斎のホワイトボードに書きだした。
1.当事者の決定
2.審査内容の主題を決める
3.当事者が私的仲裁裁判所の決定に従う合意を作る
俺は上から順番に聞いていく事にした「1番目の当事者ってヒルダちゃんとアドルフの2人ってこと?」
「ミヒャエル様の直系の血縁はは2人しかいないのでそうなります」
「2番目の審査内容の主題ってなんですか?」
「遺言書の条件はミヒャエル様のオタクコレクションを継承するのに相応しいオタクであることです。
つまり、ミヒャエル様のコレクションを出題範囲としたオタクを競う大会になります」
それって、オタクが集まってやりだしたら地獄絵図になるヤツじゃ…と思ったが口には出さなかった。
「3番目は?」
「当事者であるヒルダ様とアドルフが仲裁人の決定に従う同意が必要です」
「その為には両者が合意した仲裁人で構成された委員会の設置が必要です」
「審査委員会は民事訴訟法第1034条仲裁廷の構成に従って結成されます」
「仲裁人の人数は参加者全員の合意によって決めますが、
お互いに自分に有利な仲裁人を入れようとすれば無制限に人数が増えてしまい合意は不可能になるので、
合意が得られない場合は民事訴訟法第1034条の規定によって3人になります」
「俺の他に2人ってこと?」
「その通りです、ヘル・オタクはすでに裁判所から証書を受けているので外せません」
「通常は各当事者が仲裁人を任命するので、当事者が2人しかいないのであればヒルダ様とアドルフが1人ずつ任命して終わりです」
「しかし、その場合はヘル・オタクがヒルダ様に味方することが確実なので、ハンスは公正中立な第三者2人を要求しています」
「俺はヒルダちゃんに味方するからもう1人の審査員を味方にすれば勝ちってことだよね」
「そうです、だからエヴァとハンスはどんな手を使っても2人の審査員を自分の味方にしようとするでしょう」
「公正中立な第三者ってどうやって決めるの?」
「仲裁人の審査会を開いて民事訴訟法第1062条に基づいて高等地方裁判所が審査に合格した人物を任命することになります」
「それって、つまり」
「審査員を決める大会を開催します」
「第三者の中から欧州で1番と2番のオタクを決めなければなりません」
「審査員がドイツ人である必要はありません、EU法が適用される欧州連合加盟国すべてが対象になります」
なぜか話がどんどん大きくなり、欧州で1番と2番のオタクを決める大会が開催されることになってしまった。
そして、審査委員長は俺である…
自分が貰えない遺産なんかどうでもいいから、欧州で1番のオタクになる名誉を求めた強者が集まるだろう。
マーサの狙いはそこにあった。
金より名誉を求めるオタクならハンスの買収にも脅迫にも屈しない、俺が味方であることを考慮すれば、残り2人が味方でなくても公正中立であれば十分に勝てると見込んでいるのだ。
そして、その考えはハンスも同じだと思う。
ヒルダはお世辞にもオタクと言えるだけの知識も経験も萌えも持ち合わせていない。
だからこそ、この条件で合意できたと言える。
嫌な予感がしていた、マーサは俺にとんでもない試練を与えた。
「ヘル・オタク、審査委員長として”欧州一オタク大会”の一次試験問題を作成してください」
「正当な出題と採点がされなければ欧州全土から試験内容を争う訴訟を起こされます」
俺はのけぞった。
問題に少しでも不備があれば、俺は欧州全土のオタクからフルボッコに叩かれる。
SNSで叩かれるのとはわけが違う。
俺は人生で試験問題を作ったことは一度もない。