寒い日のこと
初めて人を殺したのも、人が殺されるのを見たのも、あの冬だった。身を切るような冷たい冬だった。
僕らは薄く震えながら街を歩いていた。行き交う誰もかれも僕らと同じように襟を立てて震えているようだった。今年の冬はひどい寒さで、東京では珍しい氷点下。地方の知り合いはこっちに来ると、東京はあったかいなあ、なんていうけれど、その年の東京は僕らにはつらいものだった。手袋の上からでも指はかじかんでいたし、ドアを開けた時に思わず漏らしてしまうため息はやっぱり白く、震えていた。
どんなに手がかじかんでも僕らは手をつながない。隣を歩いている少女、千代は幼馴染でもなければ兄弟でもなく、ましてや恋人でもない。知り合ったのは今年の春だった。四月、僕らはいま通っている学校に入学して同じクラスになった。彼女の苗字は山岸で僕は湯崎。出席番号が隣同士で、やっぱり席も隣同士だった。シャッフルされてるはずの歓迎会のテーブルでもなぜかやっぱり同じ席で、話してみたら気が合って、友達になった。他愛のない話をしながら僕らはこの十二月までを過ごした。付き合ってるじゃないか、とかそんな噂や冷やかしがなかったわけじゃない。でも、僕らはそれでも友達だった。僕らはお互いに、何人もいる友達の中の一人だった。
その日、僕らは千代の家に向かっていた。彼女の家に行くのは初めてだった。学校があるのと同じ街に住む彼女の家はそう遠くない。十数分で僕らはその建物に着いた。どこにでもあるような一軒家だった。
「ここ?」
「うん」
ここで、千代が暮らしてるのか、と思った。突っ立っていると、千代が寒いでしょ、速く入ろう、と言う。彼女が鍵を開けて、ドアノブを捻ると、がちゃりと音を立ててドアが開き、向こうから冷たい外の空気とは違う、温かい温度が流れてくる。玄関の先に奥行きのある廊下があり、その突き当りにリビングに続いているのであろう扉があった。
「さ、上がって」
頷いて、敷居をまたいで靴紐を解く。そして、立ち上がって廊下に踏み入る。
その時に見たものを、奇妙に感じた。
無造作に伸びた髪をぼさぼさに乱した男がくたびれた表情をして、リビング扉から出てきた。男は緩慢な歩みで階段に向かい、足音主立てずに階段を上っていく。歳はそんなにとっていないように見えたが、若々しさとは程遠い雰囲気だった。
「あの……」
「なに?」
千代が靴を脱ぎ、隣に立つ。
「千代ってお兄さん?いたんだ?」
「いないよ?」
「そっか」
千代は靴を脱いでいて玄関を向いていたので、あの男の姿を見なかった。千代のお母さんの客だろうか?
千代がリビングの扉を開き、僕も部屋に入る。
きれいな部屋だった。中心に大きな四角いテーブルがあって、そこに三つ、椅子が入っていた。こぎれいに片付いた、シンプルな部屋。
「そんなじろじろ見ないの。座ってて」
僕はテーブルについていた椅子の一つに腰掛け、また部屋を見まわした。人の家のってどうしてだかわからないけれどよく見てしまう。千代が台所に入り、蛇口が水を吐き出す音が聞こえてきた。紅茶でも入れてくれるのだろうか、と期待してみる。あれ、ほんとに入れてくれるっぽい。ガスコンロに火が付く音が聞こえて、彼女はリビングに戻ってきて棚からティーポットと茶葉の缶を取り出し、また台所に戻る。暖簾の隙間から彼女の髪が揺れるのが見えた。ありがとうね、と言おうとしてやめる。それだったらお茶を出されてからのほうがいい。
ねえ、と彼女の声が聞こえた。
「うん?」
僕たちはまた他愛のない話を始める。あいつら付き合ってんのかな、今度あそこの喫茶店行ってみない?とか。
冬は日が沈むのが早くて、そうしてるうちに夜になった。部屋は少しずつ肌寒くなってきた。
がちゃり、と音が聞こえた。玄関の扉から風が入ってきてリビングの戸に当たった。ただいま、と声がして、リビングに女性が入ってくる。千代の母だった。彼女は僕が座って紅茶を飲んでいるのを見るとあら、と言った。
「えーっと」
「湯崎中也です。千代さんのクラスメイトの」
「ああ、千代のお友達……」
疲れてるのだろうか、顔が青白く見えた。あたりをきょろきょろと見まわす。
「おかえり、お母さん。どうしたの?」
「ああいや……。千代、お友達呼ぶときは言ってよ。散らかってるの恥ずかしいじゃない」
「あ、ごめんね。でも、そんなに散らかってるかなあ」
薄く眉を寄せて、千代も部屋を見まわす。
「それより、湯崎くん?だよね。お時間大丈夫?ご両親心配するんじゃない?」
「ああ、うちは割とそういうの適当なんです」
「そう……?でもこの頃は物騒だしね……?」
「お母さん……?」
居てはいけないみたいだ、と感じた。千代も首をかしげている。少し残っていた紅茶を一気に流し込む。
「じゃあ、すみません。失礼します」
「そこまで送るよ」
「そんな遠くないし大丈夫だよ。えっと、山岸さん。お邪魔しました」
「はい。また遊びに来てね」
「はい」
僕はそそくさとリビングを去った。窓を振り返ると、はらはらと雪が舞っていた。粉雪だった。ブレザーに袖を通し、もう一度、お邪魔しました、と言って部屋を出た。
千代のお母さんはうつむいてぼんやりとしていた。玄関先まで千代がついて来てくれて、じゃあね、と手を振ってくれた。僕もじゃあね、と言って家路についた。
この辺りは街灯が少ない。住宅地だけあって、家々の窓から漏れる明かりはたくさんあるが、それでも暗い。雪を地面に払い落とす厚い雲に、薄い月明かりが映っている。
きれいな夜だった。かすかな明かりが、ゆっくりと風に舞いながら落ちていく雪を照らしている。肩にふりかかったそれを払おうとはしなかった。寒いし、体は震えているけれど気分は悪くない。
いい夜だ。
きっと、今日はいい日だったと思う。