頑張る君が、愛しくて。
「片桐さん、プロジェクトチームのサポートを願いできませんか?」
入社以来、密かに憧れ続けていた梶原先輩からの要請。
この時を心の底から待ちわびていた。
一生懸命働いてきた頑張りを、先輩に少しは認められたのかもしれないと思うと、平静を装いながらも心の中で心臓が飛び跳ねていた。
「私が……でしょうか?」
けれど、そのチームの目指すコンペまであと5日に迫った状況下での誘いに戸惑いは隠せなかった。
「うん、実は岡野が急性胃腸炎で入院しちゃって、今の状況で変わりを頼めるとしたら片桐さんしかいないと思って……」
正直に言ってしまえば、普通は無理だ。
今私自身が抱えている仕事だけで、すでにキャパオーバーしている。
しかも、5日後にコンペを控えている企画に、途中から参加するなんてことはあまりにも無謀すぎる……。
でも、無理だといえるわけがないのがお仕事だ。
それに、先輩からそう言われてしまえば、断るという選択肢は私の中には存在しないのである。
憧れの気持ちも少なからず影響してはいるけれど、何より尊敬している先輩に認められたい。肩を並べて働きたい。
動機は不純かもしれないけれど、この会社に入って新人指導でお世話になった時から、いつかこんな日が来るのを夢見て頑張ってきたのは事実だ。
「精一杯努めますので、よろしくお願いします」
少しは先輩と一緒に働ける第一歩を踏み出せたような気がして、その時の私は張り切って返事をしたのだったが……。
怒涛の5日間をなんとか乗り切り、プレゼンも無事に終わったその日。
ヨロヨロしながらも充実感と安堵に包まれていた私は、社内の喫煙室の角を曲がろうとした瞬間、聞こえてきた会話に足を止めた。
「いや〜、一時はどうなるかと思ったけど、片桐に頼んで正解だったわ」
「梶原……、お前も悪い奴だな〜。片桐が自身の仕事も相当持っているの知ってて、更に仕事増やすなんて……ピンチ・ヒッターなら香里ちゃんでも良かったんじゃね?」
先輩の声に、私の心臓はドクリと嫌な音を立てた。
「ばか、お前。香里ちゃんをそんな大変な目に合わせてどうすんだよ?」
「片桐ならいいっていうのか?」
「ちょっと仕事が出来るからって、あんなにガツガツ働かれると上からこっちがサボってるように見られて、いい迷惑なんだよな〜。だったら、やりたがりの片桐に思う存分役に立ってもらったほうが効率的だろ?」
その言葉に、ズキンと胸が痛んだ。
立ち止まった足が、いつの間にか震えているのに気がつく。
「はぁ……お前って奴は。だけど、片桐がいたおかげで助かったのは事実なんだから、せめて打ち上げでは労いの一つでも掛けてやれよ」
「何で俺が……」
「何でって、片桐の気持ちくらい知ってるくせに」
「……分かってるよ。でも、打ち上げは香里ちゃんと仲良くなれるせっかくのチャンスだし、片桐普段付き合い良いほうじゃないから、今回欠席してくんないかな」
何とか込み上げてくる嗚咽は堪えたものの、涙はとめどなく溢れてしまった。
私は気づかれないようにその場を離れ、トイレに駆け込むと声を殺して泣いた。
ただ、先輩と一緒に働きたくて頑張っていただけなのに、それをそんなふうに思われていたなんて……。私はしばらく立ち上がることも出来なかった。
何とか仕事に戻り、その日の定時を迎えると何食わぬ顔で梶原先輩が打ち上げの誘いに来た。
「すみません。体調が優れなくて、せっかくのお誘いですが……」
「ええっ! 一番忙しい時期に手伝ってくれて片桐さんが一番の功労者なのに残念だな」
私が辞退を申し出ると、先輩はわざとらしく驚いてみせた。
「水を差すようで申し訳ありません」
「ま、仕方ない。でも、社会人なんだから体調管理も仕事のうちだぞ! お疲れさん」
しかし、もう一度謝るとたいして引き止めもせずそんな言葉を残して、本命の『香里ちゃん』を誘いにそそくさとその場を離れる先輩。
私は何も言い返すこともなく、逃げるように会社を出た。
心も体もボロボロの状態で、それでもその帰りいつものお店に立ち寄ったのは、ここのお弁当が、いつも仕事で疲れた私を優しい味で癒やしてくれるような、そして元気を与えてくれるように感じていたからかもしれない。
けれど……。
いつものメニューを頼むと、レジカウンターにいたアルバイトの女の子が奥のキッチンへ入り注文を告げたあと小声で囁いたつもりの言葉を私は聞き漏らさなかった。
「……店長。『ふうちゃん』が来てますよ」
くすくすという笑い声までしっかりと。
ああ……。やっぱり、あだ名がついていた。
私はこのお店で、密かにそう呼ばれているのか。
半年前、会社帰りに偶然見つけた開店したばかりのお弁当屋さん。
その頃の私も今と変わらず忙しい毎日で、仕事には適正があったが家事までは手が回らず、もっぱらコンビニにお世話になっていた。
カロリーには気をつけたいところだが、疲れていると欲望にも忠実になりつい余計な物まで買い足されていた。
そんな時、ここのお弁当に出会った。
女性をターゲットにしているのかやたらヘルシーなメニューばかり。
しかし、おかずのひとつひとつがとても丁寧に工夫されていて、満足感はなかなかのものだった。
そして何より助かっていたのは、営業時間が割りと遅くまでやってくれているので残業の日でも買って帰れることだった。
おかげでここ半年は仕事の帰りは、ほぼここに寄って飽きもせず同じメニューを頼んでいたので、そりゃ店員さんに何らかのあだ名をつけられていてもおかしくない。
けれど、今日ばかりはほんの些細な事でも、胸の内がざらついて仕方なかった。
「おまたせしました。豆腐ハンバーグ弁当です」
いつもにこにこと穏やかそうな笑顔で出来上がったお弁当を袋詰にしてくれるのはこのお弁当屋のキッチン担当兼の店長さん。
とうふだから「ふうちゃん」なのだろうか……。
ふと、そんな事を考えてみた。
由来は分からないが、今はもうそんな事はどうでもいい。
会計をしようと財布を開けて、思わず眉をひそめる。
大きいお金しかない。
こういう個人店で、大きいお金を出してしまうのに一瞬気が引けた。
きっとお釣りで迷惑をかけてしまうから。
でも今日くらい良いでしょ? だって、お客様にあだ名をつけて呼んでるんだから……おあいこだ。
「すみません。大きいお金しかなくて……」
台詞とは裏腹にぶっきらぼうな言い方にも、店長はその笑顔をますます深めて「全然大丈夫ですよ」と言ってくれた。
「ですが……、5千円札をきらしていて少し細かくなりますが、ご確認お願いします。1・2・3……」
目の前でゆっくりとお札を数えてくれる、店長の声と一緒に確認していく。
「7・8・9、ふふっ……」
数え終わったと同時に、くすりと笑われた気配がして思わず顔を上げて店長を見る。すると、咄嗟に自分の手で口を覆っていた。
その仕草でやっぱり笑われたのだと確信する。
仕事の疲れと、先輩の心ない言葉が私を苛立たせていた。
毎日、疲れた顔をしてお弁当を買っていく女性客。
きっと、これまでお店の中であだ名をつけて、色々噂でもしていたのだろう。
別に陰でどう言われようとかまわないけれど、客商売だからもっと気をつけたほうがいいんじゃないかな。
私は思わず頭にカーっと血が上り、勝手にそう思い込むと少し乱暴にお釣りとお弁当を受け取り、いつも「どうも」と掛けていた一言もなく店を後にした。
「お客様っ!」
お店を出てずんずんと歩く私を、後ろから大きな声が呼び止めた。
けれど構わず、歩き続ける。
「先ほどっ、は……、も、申し訳ありまっ、ゲホッゲホ……」
息を切らしながら謝罪の言葉を口にして、店長がむせてしまったところで仕方なく立ち止まった。そこへ駆け寄ってくるやいなや彼が頭を下げた。
「すみません。あの、ちがうんです。さっきの……あれ、は」
「別にそこまで気にしてませんから」
そう、ただ苛立って勝手に思い込んで、八つ当たりしてるだけなのだ。こんな事くらい笑って受け流せない私が……悪いだけ。
「私が何か勘違いして、嫌な態度をとっただけで……」
もう何もかも面倒くさい。さっさと謝って家に帰ろう。
「あの……笑ったのは、そういうのではなくて……。そうではなく、貴女がとても可愛くて……思わず。でもとても失礼な態度だったと思います。申し訳ありませんでした」
「は?」
いきなり何? どういう事?
ははっ、ヒステリックな女性客だからってそんな言い訳……。
「あ、あああ……! 僕はまたなんて事を……、あの違うんです。可愛いというのは、そういう事ではなくて」
「……」
今の私に可愛いなどと形容されても余計に神経を逆なでされているようにしか思えない。
それでも久しぶりに男性からそんな事を、面と向かって言われたせいで情けないが、私もすくなからず動揺していたのかもしれない。前のめりになりながら言い募る店長さんから、無言のまま後ずさってしまった。
そんな私を必死で引き止める。
「あの、本当に違うんです! 実は、お札を数える時、僕の掛け声に合わせて、お客様が……その都度うなづかれる仕草が、僕の飼っているペットに似てて、何かすごく可愛いな〜って、それで思わずニコニコしてしまって」
一生懸命弁明を続けるその姿に、本当に少なくとも私が考えていたような嘲たりするような感じではない事が伝わってきた。
「いえ、こちらも少し仕事で疲れてて……、悪い方に受け取って嫌な態度をとってごめんなさい」
少し冷静を取り戻すと、あらためて謝った。
「そ、そんな……。お客様は何も悪くありません。ここ数日お見えになっていなかったので、お忙しかったり、体調でも崩されたんじゃないかと、心配していたのに、僕がものすごく悪いタイミングで笑ったりなんか……」
「あの、大丈夫ですか?」
「え?」
「いえ、何だか顔色が悪いみたいですし、お仕事大変だったみたいですし、本当に大丈夫なのかなって?」
心の底から気遣ってくれているような店長のその温かな声音は、今度はタイミングが良すぎて、胸をつかれてしまった。
(どうして、この人が……)
気づいてくれたのだろう……。
残業続きで、本当にずっと体調が悪かったのだ。
でも、会社の誰も気付かず、少しふらついても「大丈夫?」の一言すらかけてくれなかった。
先輩だけじゃない。ほんの少し仕事が出来るようになって、いつも何かしらみんなからの頼みをきいていくうちに、本当はどこか良いように使われているのも薄々気がついていた。けれど、頼りにされるようになったと思いこもうとしていた。
何より仕事は好きだったからいつか本当に認めて貰えるまで頑張ろうって……。
でも、自分でも分らなくなるくらい疲れ切ってしまっていたのだ。
だから、店長の優しい言葉に、私の涙腺は思わず崩壊してしまった。
「お、お客様?」
急に泣き出した私に、大いにあわてふためく様子の店長さん。
「ご、ごめんなさい。急にこんな……ご、ごめん、なさい」
こんなの情緒不安定な変な女性だと思われても仕方ない。
顔なじみというだけの店長さんの前で泣き出すなんて、みっともない姿に自分がどうしようもなく惨めに思えてしかたなかった。
だけど、彼だけが気遣ってくれたのだ「大丈夫?」と……。
その一言にどうしようもなく胸が締めつけられた。
単純に、その優しさが嬉しかった。
「あ、あの……、だい、じょうぶ……ですから、もうお店に戻って……」
次々に頬を伝う生温かい感触を必死で拭いながら、これ以上店長さんに迷惑は掛けられないと、そう言い掛けた瞬間。
強い力で抱き寄せられた。
「す、す、す、すみません。あ、あの……でも、全然、大丈夫には見えなくて」
引き寄せた本人が一番動揺していた。
けれど、それでもぎこちなく抱きしめられ、ぽんぽんと頭を撫でられ、あやされているような仕草に胸が熱くなると同時に、どこか安心していた。
「いつも遅くに来るお姿を見て、とても頑張り屋さんなんだと思っていました。そんな貴女が嬉しそうにお弁当を買って帰る姿に、この仕事始めて良かったって強くそう思えたんです。でも逆にそれが心配な時もあって、来なかった日はお仕事で何かあったんじゃないかと、もしかしたら病気や怪我かと、気が気でなくて……」
お弁当を買うほんの数分だけの私を、それでもちゃんとこの人は見ていてくれていたのだ。一緒に働いている会社の誰よりもだ。
それは私が思っているよりも、嬉しくて心をじんわりと暖かくさせてくれた。
私は店長さんの紡ぐ優しい言葉に包まれ、そのまましばらく胸の中で泣いてしまった。
どれくらいそうしていたのか、徐々に落ち着きを取り戻すと、当たり前だが、急に恥ずかしさが込み上げてしまった。
どんな顔をすれば良いのか分らずそれでも、いつまでもこうしているわけにもいかないと、そっと体を離して目の前の彼を見上げると……。
「て、店長さん?」
そこには負けず劣らず号泣している店長さんがいた。
「ど、どうなさったのですか?」
「うゔっ……僕、弱っている貴女につけ込む形でこんな……。貴女が大変な時に心のどこかでチャンスだと思ったりして……。でもそんなふうに考えてしまう、自分が情けなくて……」
涙ながらの告白に近い言葉に、さっきまでささくれていた心が今度は別の意味で熱を帯びるのを感じた。
それから、一ヶ月後。
「片桐さん、今日ちょっと予定が入ってしまってすみませんが変わりに……」
「ごめんなさい。私も今日は予定がありまして、これで失礼します」
定時を少し過ぎた頃、梶原先輩に声を掛けられたが、今日のために一生懸命仕事を片付けた私はきっぱりとそう言った。断られる事を想定していなかった先輩は、口ごもりながらも諦めきれずチラチラとこちらを見てきた。
「あ、えっと……予定って」
私は「彼氏とデートなんです」と満面の笑みを浮かべてそう言ってのけると颯爽と会社を出た。
私のここ数日の仕事ぶりに文句を言う人はいない。
これが私の働き方改革の第一歩だ! なんちゃって。
でも正直に言うと「彼氏とデート」というのは嘘だった。
いや、予定があるのは本当で、その相手は店長さんなのだけれど……。デートというのもある意味間違いではないが、まだ恋人にはなっていない状態だった。
何というか……店長さん曰く、弱っている時につけ込んでしまった事を相当気に病んでいた。だから、私の元気が戻って、それからお互いの事を徐々に知ったうえで、あらためて返事を聞かせてほしいとのことだった。
私も突然の事で少しは戸惑いやためらいがあったものの、あの日店長さんの気遣いや人の良さに既にほだされていた私は、そういう気持ちに傾きかけていたので、返事をしようとするも、店長さんの方が心の準備が……とか何とかで聞いてもらえないでいる。
「新さん、お待たせしました」
「いいえ、ちっとも待ってなんか……。綾さん、今日もお仕事お疲れ様です」
待ち合わせ場所にすでに来ていた店長さんこと新さんに駆け寄ると、ほんわかとした笑顔で出迎えてくれた。
今日は新しいお弁当の試食をして欲しいとの事で、定休日だがお店に伺うことになっていた。
うん……。私にとってはこれもデートのうちなのだ。
並んで歩いていると、やっぱり手を繋ぎたいなんて思ってしまう。
けれど、まだまだ新さんからは言い出してくれそうにない。寂しさがほんの少し胸ににじむ。
「あの、前から聞きたかったのですが、何で私が『ふうちゃん』なのですか?」
「っ! グフッ……」
気を紛らわそうとずっと気になっていた話題を振ってみたが、店長さんの反応を見るとNG質問だったのだろうか……。
「す、すみません。お客様にあだ名なんて、ごめんなさい」
「いえ、ただ何でかなと気になっていただけで……、いつも豆腐ハンバーグ買っていたからお豆腐の「ふ」なのかなって」
私の質問に逡巡したあと、やがてぽつりぽつりとわけを話してくれた。
「その、綾さんがウチの飼っている猫に似ていて、名前が「ふう」と言って何かの拍子で、ついポロッと口に出してしまったらアルバイトの子に広まって……ごめんなさい」
「全然大丈夫です。逆に今度そのふうちゃんに会ってみたいです」
「ええ、かまいませんよ。綾さんに似てとても可愛いんです。ぜひ、見に来て……ハッ!」
「じゃあ今度の日曜日に、約束ですよ」
飼猫のふうちゃんの事になると、喜々として話し始めたが、勢い余ってしまったという顔をした新さんだけど、もう遅い。
ちゃっかり約束をとりつける事に成功した。
「いや、でもその……、女性を……部屋に呼ぶなんて」
「猫を見に行くだけなので、大丈夫なんじゃ……」
「でも、僕の部屋に綾さんがいたらと思うと、猫を見るだけじゃ済まなく……」
「!」
思わぬ台詞に、不覚にもときめいてしまった。
「あぁぁぁぁあっ! いえ、そんな、えっと……」
真っ赤な顔をして口ごもる彼。
じれったい……。
でも、良かった。私にあまり魅力がないのかなって、ちょっと不安になっていたりもしたけれど、そんなふうに思っていてくれている事が分かって、嬉しい。
ふふっ、たぶんとても私の事を大事に思ってくれているのだ。
そういう新さんだから好きになったんだと思う。
人生に一度くらい、こうやってゆっくり進む恋もあっていいでしょ?
たぶん、私にはこういう恋がぴったりなんだ。
隣を歩く新さんを見るたび暖かくなる心に、そう信じる事が出来た。
Fin.