あなたが、想い出にかわっても。
今日のお昼は、ハンバーガーだ。
残業続きで、徹夜明けの、外回り中。
30代半ばを過ぎた身体には少し酷かもしれない。
せめてランチだけでも美容と健康に気を遣ったメニューを……と考えはするが、とにかく今は一刻も早く歩き疲れてパンパンにむくんだ脚を休めたい。という思いから、目についたファーストフード店に吸い込まれるように立ち寄った。
(それに……)
先程のクライアントとの打ち合わせを思い出して深いため息をつく。
たとえいま、素敵なランチを目の前にしても、素直に味わえないのは目に見えている。
美味しいものを食べて元気に! という人もいるが、今日はそういう事すら考えるのもめんどくさい。とにかくジャンクなものを食べたい気分なのだ。
要はやけ食いってこと。
しかも、まだ午後の予定もびっしり埋まっていて、手軽に手早く、しかもお安くやけ食いが出来る、もってこいのメニューと言えば、ね。
ぶすくれた顔をしながら、無造作にハンバーガーにかじりつく。
もそもそ口を動かしコーラで無理やり流し込んでは、大きなため息。
お店の人にとっては、嫌な客だろう。
心の中で散々仕事について愚痴りながら、何度目かのため息をついたところに、甲高い声が飛び込んできた。
「パパ! ボクここの席がいい」
「こら、裕太。店の中でそんな大きな声を出さない」
隣の席に子連れの客がやってきた。
「は〜い……」
父親らしき男性に怒られた男の子は声のトーンを落としながらも、ハンバーガーセットが待ちきれないのか、らんらんと目を輝かせて満面の笑顔で待機。
「パパ、早く早く!」
息子に急かされて、やれやれといった様子でハンバーガーの包みを開け「こぼすなよ」と注意しながら手渡す父親。
「うまいっ!!!」
猛然とかぶりついた息子の一言に「よかったな」と笑いを零したものの、
「さとし君やあきら君がすごくおいしかったってじまんしてて……。でも、ママはこういうモノは、まだ食べちゃだめって……」
その言葉に父親は、
「裕太。いいか、この事はママに内緒だからな」
言い聞かせるような口調に、口いっぱいに頬張っているので返事をする変わりに大きく頷く男の子。
(なるほど……。普段、我が子のためを思って健康に良い食事を作っている母親の苦労を無にするような、典型的な息子に甘い父親ね)
「でも、ママは裕太がいつも元気でいられるように、毎日一生懸命お料理してくれているんだよ。だから、ママの作るご飯は好き嫌いせずちゃんと食べるんだぞ」
(ふ〜ん……、意外にもフォローはちゃんとしてるんだ)
隣の席の親子の会話に、30代半ばを過ぎてもまだまだ独身の私だけど、偉そうにあれこれ意見を並べる。心の中で。
「じゃあ、パパは何で今日ここに連れてきてくれたの?」
息子の切り返しに、一瞬の間が空いたものの口を開く父親。
「男の子は、ちょっとくらい悪い事も知っとかないといけないんだ。これは好奇心と冒険心を引き出すための……」
(無理やり誤魔化した感じの答えだな〜)
でも……。
私は隣席の父親のその言葉に、胸の奥に仕舞い込んでいた一人の男性をうっかり思い出してしまった。
あの時、彼も似たような事を言っていたっけ……。
数年前。小さな偶然が重なって、知り合った男性。
社会人になって久しぶりに出来た新しい男友達。
物腰が柔らかいにも関わらず、堂々とした立ち振舞に頼りがいと落ち着きを感じるなかなか見どころのある青年といった印象で、私より8歳も年下だと知った時は驚きを隠せなかった。
当時の私はそんな彼との年齢差をいいことに、図々しくも姉を気取ったりして気軽に誘っては、色々なところへ飲みにいったりしていた。
だから、何の飲み会だったか今となってはもう忘れてしまったが、その帰り彼の部屋に連れ込まれて、ベッドに押し倒された時は心臓が止まるかと思った。
酔った勢いとは言え、年上の私に彼がそんな気分になるのだろうか。
からかわれているだけだ。
そう何度も自分に言い聞かせながら落ち着こうとしても、ちっとも言うことを聞かずに高鳴っていく自分の心臓に正直焦った。
でも、年下の男性の前で狼狽えている姿は死んでも見せたくない。
「ふふっ、飲み過ぎよ。藤宮君」
精一杯かき集めた平常心で、何とかやり過ごそうとした。
「お酒の力を借りているのは認めますが、僕は本気ですよ」
彼に見つめられそう囁かれると、背筋に震えが走った。
「あら、普段とても優秀な藤宮君らしからぬ台詞ね。明日の朝起きて慌てふためいても遅いのよ。年上の女性をからかうとあとが怖いわよ」
心臓はさっきからうるさいくらいけたたましく鳴り響いているくせに、くすりと余裕たっぷりに笑ってみせる。
上手く出来ている自信はこれっぽっちもなかったが、それでも今夜の私の女優っぷりに拍手を送りたい。
ここで何とか藤宮君には我に返って欲しいと願うも、今夜の彼は本当にいつもの物腰柔らかい穏やかな雰囲気とは違って攻めの一手だ。
「こう見えて僕は、チャレンジャーなんです」
「……。その発言は、どういう事かな?」
彼の言葉に思わず、むぅっとふくれっ面になった私に、動じる事なくクスクスと笑いを零すと、そっと顎に手を掛けた。
肌に感じる彼の指の熱に、息を呑む。
「そういう意味じゃないですよ。ただ、男は年齢関係なく好奇心旺盛で冒険心が強いものなんです。だから、興味があるものを探求せずにはいられない……」
情熱の炎を宿らせて、私の唇を強引に奪った。
普段の彼の印象からは想像もつかないほどの荒々しく噛みつくような口づけに、体中の血液が沸騰する。
お互い酔っているだけだ。
明日の朝、彼がどういった態度になるのか想像するとどうしようもなく怖い。
その時、私は年上の、大人の女性のように振る舞えるだろうか……。
もし、酔った勢いや冗談ではなく彼の言葉が本当だとしても、このまま付き合う事になるのだろうか。
もしそうなってもこの年齢差じゃ……きっと長くは続かない。
そんな事は痛いほど、分かっている。
私は混乱のあまり、先走った想像をしてしまう有様。
でも、体の奥から生み出される疼くような熱に浮かされて、徐々に本音が膨れあがってくる。
たとえ酔った弾みでも、いい。
魔が差しただけでも……。
あなたに触れられている今が、ただただ嬉しい。
だって、年齢差の前にずっと言えなかったけれど、私は初めて会った時から彼の事が好きだったのだ。
だから、今夜だけでもいいの。
瞬きほどの短さでもいいの。
私の人生に、一度くらいこんな恋があってもいいでしょう。
私は流されるようなキスを、すべて受け止めようと思い切って彼の背中に手を回すと、力強く抱きしめ返された。
心の中で、震えている事に気づかないでと必死に祈りながら、私も腕に力を込めた。
そうやって久しぶりに私のところへ巡ってきた恋。
交際を申し込まれ時は少なからず舞い上がった。
戸惑いやためらいは消えなかったが彼を知ってしまった以上、それを手放すほどの勇気はなかった。
だから、せめて少しでも長く続くように私は年上の女性として出来る限りの努力をした。
物分りが良いように装って、電話やメールも節度ある回数に抑えた。
彼が疲れている日は部屋にお邪魔して料理やマッサージを頑張ったり、でも一人になれる時間も必要だと思って、あえて静観したり。
わがままを言わないように。
鬱陶しがられないように。
少しでも長く側にいられるように。
彼と過ごした日々は、私にかけがえのない幸せをくれた。
けれど、そんな中でもいつも私の心には不安がつきまとっていた。
だから、あの日。
「きっと夏美さんは、僕がいなくても大丈夫なんですよね」
彼がぽつんと呟いた瞬間、とうとうこの時が来てしまったと悟った……。
瞳の奥が熱くなり込み上げてくるものを感じ、慌てて唇をぐっと噛みしめる。
何とか涙をこらえる事は出来たが、胸は張り裂けそうだった。
「何かあったの?」
「……」
平常を装って聞いてみたが返事はなかった。
ただ、彼の何かを堪えるような表情に、私は静かに頷いた。
「うん。分かった……」
本当は何ひとつ分からないままだった。
私の何がいけなかったのだろう?
他に好きな人が出来たのかな?
私はあなたが思っているより強くないのよ。
一人で大丈夫なわけないじゃない……。
あなたが側にいてくれないと、私はダメなの!
年上の余裕も何もかもかなぐり捨てて、縋ってしまいたい。
でも、それ以上にそんな痛々しい姿をあなたに晒したくないという思いが私を踏みとどまらせてくれた。
つまんないプライドかもしれない。けれど、今まで頑張って、年上の女性らしく振舞ってきたのに、最後にそんな惨めな私の姿があなたの記憶に残るのはどうしても嫌だった。
困らせたくなかった。だって、泣き縋ったりなんかしたら、きっと私の年齢なんかを思って責任を感じてしまうでしょう。
誰よりも優しい人だと知っているから。
そんなあなただから好きになったの。
愛している。
だから、私から言うね。
いつも幸せな日々の影で練習をしていた「さよなら」の言葉。
「今まで、ありがとう。すごく楽しかったわ。孝彦の部屋にある私の荷物は宅配で送ってね」
私は胸を引き裂かれるような痛みをこらえ、笑顔を貼り付けて彼にそう言い残すと、普段と変わりない足取りでその場から立ち去った。
彼は最後まで何も言わずにただ辛そうな表情のまま私を見送ってくれた。
私はその日、声を押し殺して一晩泣き明かした。
今までも失恋した事はあったけれどこんなに泣いたのは、生まれて初めてだった。いつかこんな別れが来ると覚悟していたはずなのに、あらためて私の中にいた彼の存在の大きさに気づかされた。
翌日私の顔はひどい状態で、有給はたっぷり残っているし会社を休もうかとも思ったが、私に残っているのは仕事しかないと思い、目の腫れが完全に引かないまま出社した。
皆一同に驚いていたが、面と向かって理由を聞きに来る猛者はいなかった。今となっては飲み会で鉄板の笑い話となっている。
それから、しばらくして私の荷物が入ったダンボールが送られてきた。
箱は開けることなく、押し入れの奥に閉まってある。
そのあと、一度だけ孝彦から着信があった。
けれど、私はそれをとらなかった。
それが、彼との最後だった。
気がつけば、あれから五年の歳月が流れていた。
いまはあの経験を乗り越え、仕事に邁進でき、昇進も果たし、おかげさまでこうやってハンバーガーを流し込むほどの忙しさだ。
この不況のなか何とありがたいことでしょう! なんてね。
仕事の隙間を縫って、疲れた脚を引きずり飛び込んだハンバーガー屋で隣の席の親子の会話から、過去の恋を思い出すなんて……。
何だか可笑しくなって思わず笑みを零したけれど、今も彼を思い出すとチクンと胸が痛むのは何でだろう。
そうやって私がうっかり感傷に浸っていると、隣の席でハンバーガーをたいらげた男の子が、今度はポテトに手を伸ばしながら、ふと口を開いた。
「ねぇ、パパ? ママにはないしょって言ってたけど、僕とパパのウソはママにはすぐバレちゃうよ?」
「……うん。あれだ、うん。ウソをつく必要はないんだよ。ただ、黙っていればいいだけなんだ」
ふふっ。ああは言っているけど、きっとママはすべてお見通しなんだろう。
ふたりとも怒られたりするのかな?
それとも、大目に見てもらえるのかな?
ねぇ?
もしもあの時、ほんの少しでも素直になっていたら、もっとお互い言葉を尽くして話し合っていたら、もしかしたらただの行き違いやすれ違いかなんかで、簡単に誤解がとけて、私とあなたにもこんな未来があったのかな……。
私は一瞬抱いたありえない想像にハッとする。
あの時どうだったかなんて、今考えても、もう遅すぎるのだ。
ふと時計を見て、ハンバーガーの最後の一口を放り込むと一気にコーラで流し込んだ。ほんの少し気の抜けた炭酸が優しく、胸の痛みも一緒に流してくれたような気がした。
二人の道は別れてしまったけれど、私はあなたに出逢えたこと、恋をしたこと、一緒にいられたことにとても感謝している。
短い間だったかもしれないけれど、そこには私にとってかけがえのない幸せが確かにあったのだから。
午後の仕事が始まる。
今日は頑張って、定時で帰るぞ!
Fin.