異世界さん、こんにちは
自称大魔術士のおじいさんは、元気に店を出て行った。
おじいさんから受け渡されたあの炎が手の込んだ手品でない限り、ぼくも魔法使いになったらしい。
おじいさんの話によると、恩恵といわれる、様々な便利な能力も一緒にくれたそうだ。
いわく、異世界に行っても会話の通じる能力。
異世界に行っても病気にかからず、また、この世界の病気も異世界に持ち込まない能力。
異世界とこちらの世界を繋ぐ門を作る能力。
異世界に行ったとき、ぼくと良い関係を結べる存在のところへ辿り着く能力。
他に護身用として、極めた各種の攻撃魔法ももらったようだけど、できればそれを使う必要がなければいいな、と思う。
そんな便利な力、ぼくにあげてしまっておじいさんは困らないんですか、と尋ねたら、「世界を渡る力」以外は複製品みたいなもので、おじいさんも持ったままらしい。
おじいさんは日本に住み続けるようで、
「私の知識と技術があれば、この国でも財を築くことができるだろう。今度会ったときには、きみにこの食事の大恩を返せるようになっていてみせるさ」
と、初対面とはうって変わった、たくましい笑顔を浮かべて去っていった。
とりあえず、元気になってくれたなら良かった。
「――角田社長、里中さん。お疲れ様でしたー」
「おう、またな繋句。もう変な浮浪者拾ってくんなよー」
今日の分の仕事を終え、角田古物商の社屋を出る。
小さなビルながら、これは昔からお世話になっている角田社長の持ちビルだ。一階が店舗になっていて、アンティークの直売も行っている。
ぼくの仕事は営業や書類整理のお手伝いだけど、たまに店頭で接客をすることもある。
仕事も終わり、ぼくは自分のマンションに帰ってきた。
築四十年、古いけど部屋は広い。2DKで家賃は月々三万八千円。
しかも、家賃の半分は住居手当として会社が負担してくれている。
角田社長はいいところの三男坊らしくて、このマンションも親戚の所有物件なんだそうだ。
五階建てだけど、エレベーターはある。
こんな好条件で文句を言ったらバチが当たるってもんだ。
ありがたいよ、本当。
「さて、どうしようかな」
部屋で一息つき、考える。
明日は休みだ。通信制高校の課題テキストも、当面の分は解いてある。
取り立ててやることは、今のところない。
「となれば――行ってみるかな、異世界」
これは、おじいさんからもらった魔法を試してみるべきだろう。
幸い、日もまだ落ちてない。
ちょっと行ってみて、最悪の場合は明日まで泊まりでも大丈夫だ。
うん。行こう、異世界!
いかにもファンタジーでわくわくするね。
よくある小説のように、魔法の使用に呪文の詠唱は必要ないようだ。ただ、代わりに宣言がいる。『何』を使用するかの宣言を行うと、頭の中の回路じみた思考が勝手に魔法を組み上げてくれるようだ。
「えっと――『門』作成!」
開け、世界の門!
気圧が高まるように空間が軋みをあげる感覚に襲われ、ぼくの部屋に星空を映す渦のような抜け穴が現れた。これをくぐれば、そこは異世界なんだろう。
ぼくはどきどきしながら、微かに流動するその『門』に足を踏み入れた。
*******
門をくぐると、そこは緑の深い森の中だった。
視界一面の木立の中、微かに色づいた日光が木漏れ日となって射している。
時間は出発と同じ夕暮れ前だ。朝露の湿った感じもなく、乾いた涼しい風が吹いているからおそらく夕方だ。異世界と言っても、時間の流れは元の世界と平行しているらしい。
周囲を見回す。
右も左も、木、木、木。小鳥のさえずりに混じって、遠く野太い鳥の鳴き声も聞こえる。ただし、人気はない。
はて、どういうことだろう。
おじいさんの説明によると、見知らぬ世界に初めて行くときは、ぼくと友好的な関係を結べる可能性のある人のところに辿り着ける、と聞いていたのだけれど。
待てよ。存在と言っていただけで、人とは限らないのかもしれない。野生動物の可能性もある。
「……でも、動物ってたいてい警戒してるし、肉食だと襲われるよね?」
そも、言葉も話せないのに友好的になれるのだろうか。
さすがにおじいさんの恩恵でも、言語を持たない動物とは話せないだろう。現に、近所の野良猫には通じなかったし。
「これは……出会いはあるが、いつ出会えるかは保証しない、って奴かな」
脳裏に、客船の中で黒服を引き連れたおじさんの顔が思い浮かぶ。
まぁ、いいか。
人の縁はねだって求めるものじゃなし。
人の慈悲は天から降り注ぐ雨のようであるべきだ、という一節も古典にある。縁も同じだろう。出会えたなら、わかりあえるよう努力すればいいだけだ。
そんなことを考えていると、背後の茂みで何かが動く音がした。
「何だ? ……ウサギ?」
ウサギのお尻が見えている。
ずいぶん大きく、中型犬くらいはありそうだ。ずんぐりむっくり、ふわふわした茶色の毛皮がかわいい。
「おいで、おいでー」
茂みに近寄り、ちょいちょいと手招きをする。
逃げられるだろうか、と思ったが、予想に反してウサギは茂みから顔を出した。
その愛らしい顔の口元には、鋭く長い凶悪な牙がのぞいていた。
「シャ――ッ!」
「うわぁぁぁぁっ! 何このサーベルタイガーみたいなウサギッ!?」
ぼくは即座に、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
ウサギに追われてるのに脱兎とはこれいかに。あべこべじゃないですかやだー!
なんて言ってる場合じゃない。
逃げないと、あんな大きな牙で噛まれたら怪我どころでは済まない。
いや、待てよ。ぼくには護身用の魔法が!?
森の中を走りながら、振り返る。
凶悪な牙の上にある、ウサギのつぶらな瞳がぼくを見つめていた。
やぁ。
じゃないよ!
そもそも、魔法って撃つのにちょっと時間かかるし! 避けられたらそれまでだ、次の魔法を撃つ前に襲い掛かられて噛まれてしまう。
このまま、振り切って逃げるしかない!
ウサギの攻撃を避けながら、心なし明るい方に向かって走る。気のせいかもしれないけど、向こうから水音のようなものが微かに聞こえていた。
開けた場所みたいだし、もしかしたら川が流れているのかもしれない。
水の中に逃げ込むか、川を渡れば逃げ切れるかも!
そう思っていると――
遠目に、女の子の裸が飛び込んできた。
「――っ!?」
道の先は、確かに開けていた。水場もあった。
だが、川ではなく泉のようで、そこで少女が水浴びをしていたのだ。
どうしよう。
この女の子を巻き込むわけにはいかない。別の方向に行かないと!
慌てて足を止め、背後を振り返ろうとする。
すると、その瞬間、女の子はぼくを追いかけるウサギを目にすると、瞬く間に泉から上がり、機敏な動作で陸地に置いてあった弓を手に取った。
振り返ったぼくの頬をかすめ、一条の矢が風を切り裂く。
ぼくを追いかけていたウサギの額に、泉から放たれた矢が突き立った。
「た……助かった……?」
息絶えて横たわるウサギを前に、へたり込むぼく。
すると、水音とともに女の子が泉から上がり、裸身にマントだけをまとって、ぼくに歩み寄ってきた。
「サーベルラビットなんかに追われているだなんて……あなた、大丈夫?」
ぼくは、彼女の姿を前に、思わず目を見張った。
素肌をマントだけで隠した、水も滴る濡れた肢体に見入ったんじゃない。
その容貌にだ。
女の子は、ぼくと同じくらいの年格好で――見たこともないほどに美しかった。
淡い月光色の金髪に、翡翠色の大きな瞳。
顔は小さく、鼻筋も整っており――
人間より微かに長い、水滴型の耳をしていた。
これは、もしかして、
「え、エル……フ……?」
「――っ!?」
女の子は、弾かれたようにマントのフードを被り、その顔を覆い隠した。
手を離した顔を覆ったせいで、はらり、とマントの前がはだけてしまう。
ぼくは慌てて回れ右をした。
「ご――ごめん! のぞくつもりじゃなかったんだ!」
「あなた……人族ね? なぜ、街から離れたこの森にいるの? 一人?」
えっと、質問に答えようとは思うんだけど、
「待って。その前に、服を着て! 見えちゃうから!」
「……そうね。ちょっと待ってて」
背後に彼女の足音が遠ざかり、衣擦れの音が微かに聞こえてくる。
やや置いて、彼女はぼくに声をかけた。
「……もういいわよ。悪かったわね、見たくもないものを見せて」
恐る恐る、ぼくは背後の彼女を振り向く。
ウサギに追われたせいではなく、心臓がどきどきしていた。
顔が赤くなっている自覚に申し訳なく思いながら振り返ると、彼女はちゃんと服を着込んでいた。異世界らしい、中世時代のような簡素な布の服だ。
なぜだか、フードのすそを口元で結び、うつむいて顔を覆い隠している。怪訝に思いながらも、ぼくは居住まいを正して向き直った。
「あ、あの。助けてくれて、ありがとう!」
「……気にしなくていいわ。忘れなさい」
彼女はフードで顔を隠したまま、そっぽを向いた。
やっぱり、怒ってるんだろうか。まぁ、そりゃ、そうだよね。
「……ごめんなさい、怒るのは当たり前だよね。でも、もう一度言うけど、のぞくつもりは無かったんだ。本当に、許してほしい」
「別に……怒ってるわけじゃないわよ」
「……? じゃあ、何で、こっちを向いてくれないの?」
「顔を、見せたくないの。わかるでしょ」
ぼくは、思わず首をかしげた。
続けて彼女は、不思議なことをつぶやく。
「――私の、こんなに醜い顔なんて……」
「……そんなに、綺麗なのに?」
ぼくの疑問に、彼女の動きが止まる。
彼女はぼくの方を向き、うろたえた声を出した。
「き……きれい?」
「うん」
うなずく。
なぜ、彼女は戸惑ってるんだろう?
さっき見ただけじゃ気づかなかったけど、何かコンプレックスでもあるのかな。大きなしみやほくろがあるとか。
火傷の痕とかだったら、確かに触れるのはまずいかもしれない。でも、それを差し引いても彼女は充分に美人だったと思う。
彼女は意を決したように、フードの口元を結んだ紐を解く。
「……これでも? 綺麗だって言えるの?」
ぼくは、まじまじと彼女の顔を見た。
しみやほくろなんてどこにもない。白く透き通った肌に、濡れたような桜色の唇が可愛らしい。まつげも長く、不安げにひそめられた目元は、瞳の色も相まって幻想的な儚さを感じさせるほどだ。心配した、火傷の痕なんかも見つけられなかった。
本当に、綺麗な美少女だ。
彼女が、何を確認させようとしてるのか、ぼくにはわからなかった。
「うん。……とても、綺麗だよ? 今まで生きてきた中で、一番可愛い」
にっこりと、ぼくは思ったままを口にした。
同い年くらいの女の子を褒めるなんて経験無かったから、口にするのは気恥ずかしかったけれど、嘘をつくよりは相手に失礼じゃないと思ったから。
すると、彼女の翡翠色の瞳に、涙が溢れた。
「そんな……そんなこと……言われたことない……嘘よ……」
「え、ええ!? 何で泣くの? ごめん、ぼく何か悪いこと言った!?」
慌てて立ち上がり、顔を抑えて泣きむせぶ彼女に駆け寄る。
どうしよう!? 何が悪かったの!?
「嘘なんてついてないよ、信じてよ!」
「……私を見て、吐き気を覚えたりしないの……?」
「するもんか!」
「じゃ、じゃあ――」
彼女は泣きじゃくりながらも、顔を上げた。
そして、美しい顔を涙でくしゃくしゃにしながら、ぼくに顔を寄せた。
「……証明してくれる?」
「へっ? むぐっ――」
涙に濡れた、彼女の桜色の唇が、ぼくの唇に重なった。