プロローグ
多元宇宙論という説をご存知だろうか。
ぼくらの住んでいるこの世界は唯一ではなく、平行、あるいは異なった次元が並列して存在し、ぼくらはその宇宙の一つに住んでいるにすぎないという、SFで御馴染みの理論だ。
いわゆる、異世界の存在の肯定である。
現代の、地球の、日本の片隅に住んでいる、ありふれた市民の一人であるぼくは――
ある日、小さな親切から、その多元宇宙を渡り歩く力を譲り受けた。
*******
ある朝、出勤途中に立ち寄った公園で、ぼくはそのおじいさんと出会った。
そのおじいさんは、ぼろぼろだった。
ぶかぶかのシンプルな意匠の服は擦り切れ、白髪はくすみ、肌は垢にまみれていたんだろう、薄い斑に汚れている。見るからに薄汚れていたその老人は、地面に伏せたまま身じろぎもせず、倒れていた。
行き倒れだ。
見てみぬふりをすればよかったのかもしれない。公園でホームレスの行き倒れなんて、こんな地方都市でもそんなに珍しくはない。
けれども――
「見過ごせ……ないよなぁ」
ぼくは、足を止めた。
スマホを取り出し、時間を確認する。出勤時間まで余裕はあるが、あくまでこの行き倒れた老人を見捨てていけば、の話だ。
介抱に時間を食えば、仕事に遅刻する。いくら正社員じゃなく、バイトじみた高校生の非常勤職員だって、遅刻すれば他の人に迷惑がかかる。それがぼくを含めて社員三人の零細古物商でも当然のことだ。
でも、そこで見てみぬふりをするような人生を、ぼくは生きてきていない。
他人の縁と状況に流されて十七年間を過ごしてきたのが、ぼく――
高町繋句の人生だ。
「大丈夫ですか? ――意識はありますか?」
おじいさんに駆け寄り、身体をゆする。
下手に抱え起こすと、病因が脳障害だったりした場合、病状を悪化させかねないからだ。
幸いにしてそこまで深刻な状態ではなかったらしく、老人はうめき声を上げた。
「う……、み……ず……」
「飲み物ですね? 買ってきます。待っていてください」
すぐさま公園の自販機でスポーツドリンクを買い、老人の下に戻る。
今度こそ老人の身体を抱え起こし、ペットボトルのふたを開けて口を付けさせた。
「飲めますか? ゆっくり、飲み下してくださいね」
「……きみは……?」
「通りすがりの者です。顔色が良くないですけど――何か持病をお持ちですか?」
老人は、ゆっくりと頭を振った。
「いや……私は、病気にはかからない。空腹なだけだ……心配いらない」
「わかりました。でも、このままじゃ良くないです。あそこにベンチがあるんで、そこでこのドリンクを飲んで少し横になってください」
老人に肩を貸し、近場にあったベンチまで肩を貸す。老人は異臭を放っていたが、大柄で、立派な体躯をしていた。
おかげで小柄なぼくは押しつぶされそうになったが、よろめきながらも何とか老人をベンチまで運びきった。
「ごめんなさい。ちょっと待っててもらえますか?」
「きみは……なぜ、私に構う……?」
「何ででしょうね? ――性分なんです」
苦笑しながら堪えると、スマホを取り出して職場の番号を呼び出した。
「もしもし? 角田兄さん――じゃなかった、角田社長ですか? すみませんけど、今日、出勤は昼からと言うことにしてもらえませんか」
『あん? なに寝言ほざいてんだ、繋句』
電話の向こうからは、辛らつな口調が返ってきた。
まぁ、当然か。ぼくが息を呑んでいると、電話口からはため息が続く。
『……またあれか、病人か妊婦とでも出くわしたか』
「はは……行き倒れのおじいさんなんですけどね」
『まぁ……しゃぁねーか。お前の人柄が町の噂になって、うちの会社の信用にも役立ってるってのは認めてやる』
社長の言葉に、内心で、ほっと一息つく。善意は人のためならず、とはよく言ったものだ。巡り巡って、日頃の行いを見てくれている人はいるのだ。
『だがな、それが許されんのはお前がまだ学生の非常勤職員だからだ! 正職員になって社会に出たらそんな社会常識に欠けること、絶対認めねーぞ! わかってんのか!』
「そ、それは重々承知してます。兄さ――社長や販売の里中さんには度々ご迷惑をおかけします!」
電話に向かってぺこぺこと頭を下げるぼく。
兄さんの叱責もごもっともだ。仕事を放棄して他人に関わっても、今度は仕事の関係者や取引先に不義理を働きかねない。それでは本末転倒だ。
『お前が良い人やってられんのは、尻拭いする里中のおかげだってことは覚えとけよ! ……ああ、あと、良い人やって犯罪には巻き込まれんなよ。食い詰めた奴は何するかわかんねぇんだからな、気をつけろ!! わかったら昼には遅れんな、以上!』
ぷつり、とまくしたてて通話が切れる。
仕事の尻拭いをしてくれているのは、里中さんだけでなく角田社長も同じだ。それに、ぼくがお節介で犯罪に巻き込まれることを心配してくれてもいる。
基本的に、角田社長も口調はキツいけど良い人なのだ。
「その……良かったのかい。大事な用事が、あったんだろう……?」
「ああ。気にしないでください、おじいさん。ぼくはまだ学生だから、週に三日しか出勤してないんです。大事な仕事も、そんなには任されていないんですよ」
「学生?」
「通信制の高校なんです。自宅で勉強ができるっていう。その……なるべく早く、働きに出たかったもので」
「この国の学生は、もっと裕福で怠惰だと思っていたが……勤労なのだな」
この国?
よくよく見ると、老人の瞳は青かった。外国人なのだろうか。
「勤勉で真面目な学生もたくさんいますよ。おじいさん、日本語上手ですね」
「そういう恩恵を受けているからな。どこの世界でも、言語は通じる」
はて。
そんなに言語が堪能なら、職には困らないと思うんだけど。
なんで行き倒れるほど生活に困ってるんだろう。
首をかしげていると、ふと、老人の腹が鳴った。
空腹だって言ってたっけ。老人は、気恥ずかしそうに自分の腹を押さえる。
「飲み物を入れたので、胃が動いたようだ。申し訳ない」
「大丈夫ですよ。じゃあ、行きましょうか、おじいさん。ご馳走します。――あ、お金の心配はいりませんよ」
ぼくは朗らかに笑って、おじいさんの手を取った。
********
「この店は……?」
「ぼくの実家です。ぼくの両親、定食屋やってるんですよ」
連れてきたのは、定食屋『たかまち食堂』。
町内でも評判の定食屋だ。和・洋・中、一通りのものが出てくるメニューの豊富さが売りで、味も値段もお客さんからは好評を頂いている。大きな店ではないけど、常連も多く、情報誌にも何度か紹介されたことがある人気店だ。
ぼくは社長の紹介で会社の近くに一人暮らしをしているけど、出勤していない四日のうち三日はこの店で手伝いをしている。
中学の頃から厨房と給仕を手伝っていて、その頃に顔を覚えてくれた町の常連さんたちは、今の会社の営業でも良くしてくれる。社長がぼくの身勝手を許してくれているのは、実は常連である町の皆さんの支えによるところが大きいのだ。人の縁は、ありがたいものだとしみじみ思う。
「きみはここに住んでいるのかい?」
「いえ、実は妹が三人いて、部屋が足りなかったんですよ。女の子は物入りだし、家計も助けたかったんで、ぼくは実家を出て、勉強の傍らに働いてるんです」
「なるほど」
きみは家族思いだな、と老人は優しく微笑んだ。
ぼくは気恥ずかしくなり、照れを振り切るように老人の手を引く。
「行きましょうか、おじいさん。今は準備中だから、裏口から入りましょう。何が食べたいですか?」
「きみが薦めてくれるものなら、何でも構わないさ」
裏口から厨房に入り、両親を呼ぶ。
両親は休憩中だったらしく、手伝い日でもないのにやってきたぼくに目を丸めていた。
「ごめん、この人に何か食べさせてあげてくれないかな。お金はぼくが払うから」
「またか、繋句? ……いいけど、お前、いい加減にしないとそのうちに痛い目見るんじゃないか?」
「あはは。それ、社長にも心配されたよ」
父さんは呆れたように肩をすくめると、老人に椅子を勧めた。
厨房の真ん中にある調理台に、椅子を置き、老人と向かい合って座る。
「ずいぶんガタイのいいじいさんだな。格闘技か何か、やってたのかい?」
父さんの質問に、ぽつり、と老人が答える。
「……武術の心得はある。が、本業は……研究者、かな」
「おじいさん、学者さんだったの? わざわざ日本に来て?」
「うむ。研究に、長い年月を費やした……地位も、名声も、財産も手に入れた……それ以上のものも。だが……そんなものに、意味はなかった……」
独白のように、老人はつぶやく。
このおじいさん、実は偉い人だったんだろうか。
でも、その語り方には寂しさがにじんでいて、とても人生に幸福を感じていたようには思えない。
「あんた……昔は、一廉の人物だったってことか。人生、色々ってこったな」
「と、父さん。おじいさんに、シャワー使ってもらってもいいかな。――熱いお湯でも浴びたら、きっと気分もすっきりするよ!」
何となく、触れるべきではなさそうな話題を変えるべく、沈んだ空気の老人に気分転換を勧めた。
妹たちは学校に行っていてニアミスすることもない時間だし、風呂場を使っても問題ないだろう。
「ったく、お前は……まぁ、いいや。おぅい、母さん! このじいさん、風呂場まで連れてってやってくれ! その間に、メシを作っといてやる。日替わり定食でいいな?」
「あらあら、また繋句のお節介? しょうがないわねぇ。――さ、こちらにいらして?」
奥から出てきた母が、おっとりと母屋の中へ案内する。
我ながら、見知らぬ人物を家の中まで上げるのはどうかとも思うが、父は、むすりとしかめ面で、
「ま、身なりが汚れちゃいるが、性根はいやしくなさそうだ。倒れてたってのも事情があっただけで、真っ当なお人だろうよ。俺の息子の人を見る目を信じてやらぁ」
と、調理に取り掛かった。
*******
「あいよ、日替わり定食だ。――ハシはあるが、一応、ナイフとフォークとスプーンくらい置いてあるぜ。好きなもんを使って食ってくんな」
「かたじけない、ご主人、少年。……馳走になる」
身奇麗になった老人の前に、定食の乗った盆が置かれる。
今日の日替わりは、タラのフリット南蛮風甘酢タルタルかけ、葉野菜とポテトのサラダ、ミニグラタン、それに味噌汁とご飯がついて、ご飯のお代わりは無料。
ボリュームがあって、値段は六百八十円というお手ごろ価格だ。揚げ物の香ばしい香りと甘酢とタルタルの甘ずっぱい匂いが食欲をそそる。
老人は、しばし無言で膳を見つめた後、おもむろに手を合わせ、お辞儀した。
「……いただきます」
「揚げ物ですから、胃に重たかったら残しても構いませんからね。ゆっくり召し上がってください」
「いや、とても美味しそうだ。……本当に、ありがとう」
「じゃ、繋句。俺と母さんは、食堂の掃除してるからな。後は任せた」
出て行く父さんに礼を言う。
老人は、湯気の立つ味噌汁に、ゆっくりと口をつけた。
やや置いて、老人の頬に涙が伝う。
「ど、どうしたんですか、おじいさん?」
「いや……美味いんだ。……温かい食事が、こんなに胸に染み入るだなんて……」
「……お腹いっぱい、食べてくださいね」
涙を流して食事を口に運ぶ老人の姿を、じっと見守る。
温かい食事に感動するこの人が、悪い人にはどうしても見えなかった。
やがて、噛み締めるように味わい、皿の上を空にして老人は息をつく。
「……ご馳走様、少年。こんなに心のこもった食事は、ついぞ味わったことがない」
「大げさですよ、おじいさん。あ、お茶入れますね」
「きみは、なぜこの老体をここまで慈しんでくれる?」
「はは、昔からの、性分なんです。――人に助けられて生きてきたから、困った人を、どうしても見捨てられなくて」
「損をしたことは?」
「たくさんあります。……でも、喜んでもらえたことも、嬉しかったことも、同じくらいたくさんありますから」
老人は、しばし考え込むように顔を伏せた。
「きみのような優しさがあれば、多くの世界の多くの人が、救われるかもしれない」
「……おじいさん?」
「――少年、きみに託したいものがある」
老人は、ぼくを見据え、真摯な瞳でこう告げた。
「我が名は異界の大魔術士、サルトルージ・バイロン。世界を渡るものだ」
「……大……魔術士……?」
「数多の世界の権力者の欲深さに心から絶望し、命潰えるとも厭わずこの身を投げ出していた。――だが、放浪の果てに辿り着いたこの『日本』なる世界にて、我欲を凌ぐ温かさに出会った。感謝する。私は、余生を、きみを育んだこの世界にて生きていこうと思う」
「は、はぁ……」
「ついては、世界を渡る我が『魔法』と恩恵の全てを、きみに託したい」
「ま、魔法?」
「終の棲家を定めた私には、もはや不要な力だ。我が生涯の研究の成果、どうか受け取って欲しい」
ぼくは、戸惑っていた。
老人の話は、にわかに理解できない突飛な話だ。
でも、それを語る瞳は真摯で、老人が冗談を言っているとも、ましてや、妄想を口にしているとも思えなかった。
そして、伝わってくる気持ちが一つだけ。
このおじいさんは、自分の人生を伝えられる『誰か』を、心から求めている。
ぼくに、老人が真心を込めた願いを、断れるはずがなかった。
「わかりました。おじいさんの学んできたことを、どうかぼくに教えてください」
「本当か! 今日は良き日だ……心配はいらない。受け渡しは、一瞬で終わる」
「一瞬で?」
そうとも、と老人は頷いた。
老人は机越しにぼくに向き直り、呼吸を整えて両手を胸の前にかざした。
途端に、周囲が暗くなった気がした。
老人の身体が淡く青い光に包まれ、その光がかざした両手の間に集まる。
まるで炎のように揺らめく青い光を前に、ぼくは息を呑んだ。
「きみに託そう。この、世界を渡る者の灯火を!」
炎に包まれ――
ぼくは、老人が生涯をかけて極めた魔術と、世界を渡る力を手に入れた。
この日、ぼくは駆け出しの大魔術士になった。