60
結婚しようか。
しれっと言う姉に自分も、言われた魔王も固まった。
姉を返してください。いいや断る。いいえ魔王陛下こんな女は早く手放すべきです。と、羽衣子と魔王と魔王の家来たちの騒ぎをぼんやり眺めていた姉はいつの間にかいい笑顔だった。
「おね、え?」
「よく考えたらイケメンだし、あたしの言う事何でも聞いてくれるし、お金持ってるし? 悪い話じゃない。ねえ、あたしが死ねって言ったら死んでくれる?」
はい喜んでと軽く言おうとする魔王の口を家来たちは大慌てで塞ぐ。王様が軽々しくそんなことを言ったら大変なことになるのはこちらの世界に来てから備わった感覚でだいたいわかる。
しかし姉はとりあえずイエスだと受け取り満足そうに頷いた。
「浮気したら死ねって言えば消えてくれるんでしょ? じゃいいわよ。結婚。してあげる」
お付き合いでなくいきなり結婚はどうなの、なんてつっこみでは足りないくらい問題は山積みだ。
「うちのお母さんに挨拶して許可はとってよね。それと魔王は引退して私たちの世界でちゃんと就職してね。この世界には済まないから。家は一戸建てで庭付きプール付きで白い犬を飼うから。それに見合う収入をちゃんと稼いでね。それが条件」
「すごいよお姉ちゃん。尊敬するよ」
なんという図々しさ。もちろんそんな条件を相手が納得するはずもない。げんなりとしたり、怒りで顔を真っ赤にさせる家来たちと違い魔王はこのまま押せばいける、と思っているのが伝わってくる。
「この世界に留まれば君にはそれ以上の贅沢をさせてやれる」
「別にあたし、贅沢がしたいんじゃないし」
「魔王妃だ。皆の憧れの的となる」
「別に憧れられたいわけじゃないし」
そうだよね。知ってる。我が強欲な姉はそんな人並みの欲に負けたりしない。そもそもそんな欲は姉の中にはない。
「自分の知らない人にどう思われようがどうでもいいの。あたしの気に入らない奴らに幸せ見せつけて妬まれるのが愉悦」
贅沢がしたいんじゃなくて贅沢をしていると思われて妬まれるのが好き。我が姉ながらこの年でかなり屈折している。
ちなみに贅沢が好きでも毛嫌いしているわけでもないので全体的に姉は庶民的な金銭感覚を保っている。好きな食べ物はカレーでバイトの時給は九百五十円。
「この世界で気に入らない人間を作ればいい!」
「今のところ当てはまるのはあんたくらいね」
「愛し愛されることに幸せはあるだろう?」
「そう思うの? じゃあ無理ね、あたしに愛されてないもんね、あんた。それじゃあ永遠にさようなら」
「ま、待て!」
姉の足にしがみ付いた魔王は嫌だ嫌だと首を横にふる。
「もし、もし仮に君の条件を俺が満たしたとして、君は俺に何をくれるんだ。フェアでない!」
「だからあたしをまるまるあげるって言ってるの。いわばあたしの全てをね? つまりあんたは世界の宝に匹敵する美貌と知性を兼ね備えたこのあたしを受け取るわけだから、死ぬまで尽くすくらいの気概を見せなきゃいけないの。わからない?」
基本学力は高くても、その発言はあまり頭が良くないな。きっと中心にいる二人以外羽衣子と同じことを思っているだろう。
「逆に言えば、条件さえ満たせば何でもしてあげるって言ってるの。無理? できない? じゃああんた、その程度しかあたしのこと好きじゃないのよ」
迷ってる迷ってる。だけど姉もここでしばらく生活をしていた。魔王が簡単にこの世界や責任を捨てられないとわかっているからこんなことを言う。
「わかった。いいだろう……。帰るがいい」
思ったより簡単に引き下がる魔王。それは姉も同じようで、最後には帰っていいと言われるのを狙っていたのだろうが、やや不服そうにしている。
本音はもう少し粘れよ、といったところ。こんな絶世の美女を簡単に手放すなんてあんたどうかしてるわ、といったところ。
が、帰っていいと言うわりに魔王は姉をはなさない。
「君が約束を違えられないのは脳を覗いて確認済みだ。せいぜい自らの発言を後悔するのだな」
「……え、何、ホントに一緒に来るの?」
「残念ながらそれはできない」
ふははははは、と魔王らしい笑い声をあげた魔王に家来たちは数歩後退していく。壊れたような様子に羽衣子も姉の後ろに隠れる。
「さあ、魔法は解いた。城から出て……、いや、送って行こう。義妹殿もついでだ」
まだ義妹ではないが。
姉が使っていた部屋で帰り支度を整えながら、暗い面持ちの姉が羽衣子の肩を指でつついた。
「軟禁状態だったけどね、一応お礼くらい最後に言おうと思ってたのよ。美味しいもの食べれたし、服とか、小物とかベッドとか、忙しいのに相手してくれたりね、したし」
「うん」
「お姉ちゃんは過去を悔やんだりしたくないのね? で、今お礼言ったら後で後悔しそうで躊躇われるんだけどどう思う?」
「う……うぅん……」
確かに何か企んでそう……、いや、確実に何か悪いことを企んでいる、ように見えた。
「一応、お世話になったし、うん。お礼は言った方がいいよ」
一応、念のため。
***
無事姉も確保し、明日までに城の魔術師たちが帰還の儀式のための準備を済ませてくれるという。兄はアリステアたちと寝ずにお別れ会、弟も稽古をつけてくれた兵士たちやレダと同じように寝ずのお別れ会、姉は送るついでに城に泊まると言う魔王に愛でられている。
私も何かあるかなー? と期待していたら、さっさと寝ないと普通以下の容姿に肌荒れという欠点が加わりますよとジョシュアに一言投げられただけ。いいですよ、せめてお疲れさまでしたくらい言ってくれても、と言えば綺麗に無視をされた。
カーティスもハロルドもジョシュアもジルもアーロンもあちこちに引っ張りだこで羽衣子にかまう余裕はない。この世界の知り合い皆に放置された。兄に混ざろうと考えなくもなかったが、さほど付き合いのなかった人が多い。気を遣わせるのは心苦しい。
明日、お別れ直前には皆ついででも羽衣子を送ってくれるだろう。よし寝よう、とベッドに潜って数分。どんちゃんさわぎがあちこちで行われているせいでなかなか落ち着けない。
寝返りをうつこと数回、動きをぴたりと止める。
部屋に誰か入って来た。
誰だか確認すればいいのだが、一端寝たふりをしてしまうと起きるタイミングがわからない。早く出て行ってくれないかなあと思いながら小さく唸ると、ベッドが傾いて体が落下する。
「馬鹿力……」
「普通だ」
普通じゃない。こんなご立派なベッドを乗っていられないほどの角度まで一人で傾けるのだから。
おっこちた羽衣子を抱えてベッドに放り投げたカーティスは自分もベッドの上に上がってあぐらをかいた。
「探させるな」
「え。ずっと部屋にいましたけど」
「一人でいると思わないだろう。夜になってもどこも騒がしい」
「うちの兄弟のためにありがたいです」
大したこともしておりませんのに。普通異世界に召喚されたら中心になって戦いそうなものを。
「カーティスさんも大忙しでしょう。王様になるんでしょう?」
「ああ」
ハロルドが何をしたのか、知っているのは騒ぎに関わった人間だけ。その他の国民は、これからどう訂正を入れたところでハロルドがそうなるよう仕向けたように宰相派だったにもかかわらず無能なため見限られた第二王子というイメージを綺麗には拭えない。それに宰相派だと思われていた彼が国王になってもすぐに納得するはずがない。
ハロルド本人も国王なんて自分にできるはずがないと。兄を称えた上で、ずっと兄上を支えるために頑張って来たのだと言われてカーティスも継承を決意した。
だから、大忙しで。羽衣子にかまう余裕が知人の中で一番ない。悲しいけれど、喜ばしいことだ。
「カーティスさん最近あんまり自信のない顔しませんね」
「するか。自信がないで通らないところまで来た」
「来たって言うか、最初から通らないところにいた気がしますけど」
「お前に言い負かされるのは未だに気分が悪いな」
私のこといつまでどこまで見下しているんですか。どこまでもですね。
軽く睨むと手の甲でぺしりと額を叩かれた。いつもより対応が優しい。最後だから気をつかっているのか。
「手加減できるなら普段から優しい対応をしてほしかったです。叩かれたり頭突きとか。おかげでここに来る前より少し馬鹿になったかも」
「もとから大した中身じゃないだろう」
「最後なんだから会話ももうちょっと優しい感じでお願いしたいのですが」
「最後か。……そうだな」
口に出した言葉は取り消しも修正もできない。それがこんなに後悔を招いたのは生まれて初めてだった。
「……明日の早朝には準備が整っているだろう」
「そうですか。ありがとうございます」
しばらくの沈黙が落ち、耐えかねてこちらから不自然に明るい声を出した。
「本当に、色々ありがとうございました。カーティスさんに見つけてもらえなかったら私は飢え死にしてました。まあ、ちょっと失礼なことを言ったり言われたりしましたけど、お互いさまですよね」
「俺はお前を見つけたことを後悔している」
本当はもう顔を合わせるつもりもなかった。そう言って、手をぎゅっと握って来る。
「なんですか、不細工の顔をこれ以上見たくなかったとか、最後にまで言わないでくださいね」
「言わない」
「え!? 言わないんですか?」
「言わない空気なのを感じ取れ。わざとらしい」
「はい……」
顔を上げられない。こういう空気の時、どうすればいいのかもわからない。というかこういう空気になった経験がないので、これが羽衣子の予想通り男女間のいい雰囲気なのかも自信がない。
「は……、はは、は……。まさか私がいなくなるのが寂しいんですか?」
「違う」
「あ……、そうですか」
違った。いい雰囲気なんじゃなかった。気のせいだった。もしくは何か違う雰囲気。今がどんな状況かわからなくなって恐る恐る顔を上げる。
ああ、これは多分、絶対に、いい雰囲気だ。
顔を見ればわかる。
「想像できなくなっている」
「何をですか?」
「お前がいない未来を」
明日から彼に会えなくなる。明日から、もう二度と会えなくなって、いつかはどんな顔をしていたのかも思い出せなくなる。どんな声で、どんな話をしたのかも。
手首につけた彼からの贈り物に視線を落とす。
「寂しいと思おうにも、想像がつかない。先のことを考えようとしても、どうしても、お前が傍にいる未来しか想像ができない」
羽衣子が手を握り返すと、びくりと揺れた彼かれ震えが移ってきた。
「今から言うことはすべて忘れていい。聞こえないふりをしてもいい。お前が、聞きたくないだろうことだ」
違う。きっと、聞きたかったことだ。聞きたくて、でも聞くのが怖かったことだ。
手をつないだまま近づいてきたカーティスに抱き付く勇気はなかった。彼も腕を回してはこなくて、羽衣子の頭に顎を置いただけ。羽衣子には彼の服の袖を掴むのがやっとだった。
「……帰るな」
はい、と言えない。いいえ、と言いたくない。
「傍にいろ。ずっとここにいろ。お前を手放したくない」
私もかなうなら、傍にいたい。
「お前を見つけるんじゃなかった。こんなにお前が大切になると思わなかった」
私も、こんなに離れがたくなると思わなかった。
「好きだ」
「わ……、私……も……っ」
目にためきれなかった涙がこぼれて来て、拭おうとしたら抱きしめられた。
「好きだ。……好きだ、ずっと。……愛してる」
「う……っ、あ……っ、わた、し、も……っ。カーティスさ……、うぅ……っ」
ほら。思っていた通りだった。確かめ合ったらいけなかった。聞きたかったけど怖かった。伝えたかったけどいけないとわかっていた。確かめ合ったらもっともっと、帰るのが苦しくなるから。
「……ックソ」
「ふ、ぅ、うぁああん……っ」
「泣くな、馬鹿。つられる……」
泣いているせいで汗をかいて、本当なら恥ずかしくて離れたいけれど。離れたらもうずっと触れられないからそのまま二人で泣き続けた。
明けない夜はない。知っている。
だけど今は、他に何もいらないから、明けない夜が欲しい。




