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子供らしい子供ではなかったと思う。我慢が得意だったのではなく、欲があまりなかった。無い物ねだりをしてもどうにもならないなら体力が勿体ない。割と賢かったのだ。
父は仕事人間でさっさと妻に逃げられ、置いて行かれた息子が悲しむでもなく淡々と生きるのを心配しているようだった。
母は社交辞令や建前を大事にする人で、いまいち母親になりきれていないのが息子であるジョシュアにも伝わっていた。母性が芽生えないことに対する母の戸惑いも。
勿論母のことは愛していたし、母も決してジョシュアのことを嫌っているわけではなかった。けれど彼女が出て行ったときどこかで安心しているのも確かだった。これで母は母になれない葛藤から抜け出せ、自分も無知な子供のふりをせずに済む。悲しいけれど正しい結果だと受け入れた。
地下への階段を一つ下りるたび、思い出されるのはそんな可愛げのない子供に愛情を分け与えてくれた女性のことだった。
子供のような人だった。無邪気で、素直で、愛情深い人だった。
『いいこと? 子供は我儘を言うのがお仕事です。無理難題を押し付けて、どうにかして大人を使って我儘を通すの。聞き分けのいいあなたはお仕事をしない悪い子です』
聞き分けのいいジョシュアに逆に我儘を言う。だからジョシュアは考えて考えて彼女を論破する。思い返せば、あの時ばかりは屁理屈や言い訳のようなことを言っていて肩の力が抜けていた。普段だったら言わないような子供の屁理屈を言って彼女を困らせるのが楽しかった。
あの瞬間だけは年相応の子供だった。それはきっと、彼女が狙った通りのことだった。
結婚してください。
ジョシュアから言った我儘は一つだけ。
大慌てして断る彼女にジョシュアはずっととっておいた言い訳を使った。
子供は我儘を言うのが仕事です。あなたは良い子がお好きとおっしゃいました。僕は良い子になるためにどうにかこの我儘を通さなくてはいけません。ロゼッタ様と結婚します。
「あなたのお気持ちがわからないでもないのですよ、閣下」
しかし何せ、あの方は家族と平和を愛していた。
ジョシュアだって、国や王族が消えてしまえばいいという気持ちが今でもある。それでも第一王子は憎たらしいし大嫌いだがなかなかに面白い悪友で、何より、自分を理由にジョシュアが悪事を働くことを彼女は悲しむだろうから。
こけた頬の宰相は目をぎらつかせてジョシュアを睨んだ。見栄を張っているだけなのはよくわかった。
「しかし自らの娘に八つ当たりするのはいかがなものでしょうかね」
「私の娘ではない」
「しかし彼女にとって父親は貴方だ。私も、レダ様には複雑ですがね。それでもロゼッタ様の娘であることに違いない」
ここへ来る途中、勇者に付き添われ、とぼとぼと部屋へ戻っていくレダとすれ違った。泣いてはいなかった。しかしあの様子では、全てを、おそらくここで聞かされたのだろう。他に事情を知る人間はジョシュアに真実を教えた人である父とハロルド、騎士団長に、今頃は聞かされただろうカーティスと、もしかしたら彼の傍にいる羽衣子だけ。しかしジョシュアの父を除き彼らが勢ぞろいしている部屋は逆方向なのだ。
父と慕っていた男に、まだ幼さの抜けない無垢な少女は真実を聞かされた。
「私には関係のないことですがね。私が生きていく上で必要なのは綺麗な思い出ですので」
娘を憎み、娘に八つ当たりをし、しかし宰相が時々見せる優し気な目は、娘と妻を重ねているようだった。ジョシュアには理解しがたい。
「私は貴方に一つ訊きたかっただけです。ロゼッタ様を愛しているのか」
愛していたのか、ではなく、愛しているのか。
「あんな、不貞を働く安い女を……」
そうか。わかった。
口元を覆って、ジョシュアはくっと笑った。
「やはりあんたは死ぬべきだ」
肯定したら、悼んでやれたかもしれない。彼がジョシュアに悼んでほしいはずがないが。
ああ、よかった。あんたがクソ野郎で。あんたが処刑されることに微塵も心を痛めずに済む。どころか、愉快でならない。
「ロゼッタ様は貴方のことをお許しくださっているでしょうね。お優しい方だ。だが他の誰も貴方を許さない。私も、神も。もっとも神なんていればあの女神のような人を貴方に殺させたりしなかったでしょうが」
***
レダが動揺したのは、悲しみより先に安堵を覚えたことだった。どうして父の愛情に違和感を感じていたのかわかって、レダの勘違いでないのだとわかって。
黙って自分の手を握り続ける勇者になんとか笑いかける。
「少し痛いです」
「ああ……。ごめん」
自分よりも傷ついたような顔の彼が、どうにか自分を慰めようとしているのがわかった。手をはなそうとするので、はなせとは言っていませんと、両手で彼の手を包んだ。
一人で出歩くのは危険だ。それに宰相の娘を父親に簡単に会わせるはずがないと付き添ってくれたのに。悪いことをしてしまった。
牢の父に声をかけると、父は憎々し気にレダを睨みつけ、お父様と呼ぶレダを否定した。私の子供なものかと。誤って生まれた娘だと。
鏡を見るとレダはよく泣きたくなった。
お母様にそっくりの顔。ハロルド殿下ほどではなくても、カーティス殿下に似ている気がした。亡き二人を思い出させた。
母に似ているのは当然。けれど何故王子に似ていると思ったのか。赤の他人なのに。そして実の父とは一度も似ていると思ったことがなかった。
「きっとずっと許せませんわ。お父様のことも、国王陛下のことも」
どちらも許されない。レダも許せない。
父を裏切り母を辱めた王も、どうすることもできず苦しんでいた母をわかろうとせず毒を飲ました父も。
「許せなくて、お父様が私を愛していなくても、それでも私はお父様を愛しています」
レダの存在を盾に、王を操り、母が亡くなっても、気が済まず、王を殺すだけでは納得できなかった父。イカレていた。おかしくなっていた。こんな国は滅んでしまえ。こんな世界は滅んでしまえと、それだけで戦争戦争と声をあげていた。人間の未来なんて父は微塵も望んでいなかった。衝動だけで生きていた。
「エイ様のおっしゃる通りでした。私はお父様と向き合えていませんでした。だって、どこかでは気づいていたんです」
愛されていないこと。
だから向き合うのが怖かった。
「レダ、違う。そんなことを言ったつもりじゃなかったんだ」
「いいえ。ここまで悲惨な秘密があるなんて、エイ様がご存じなかったのはわかっています。それでもこれは、私が向き合わなかった結果なのに変わりありません」
レダがいなければ王が父に操られここまで国を悪くさせることもなかった。レダが気づいていれば。
尊敬していた王に、血縁上の父に対してレダにはもう憎しみしかない。レダという秘密を保身のため隠し、王太子にまで傷をつけた。
「もし、誤って生まれた子供がいなければこんな」
「間違いなんかじゃない」
私を選んでくださらない勇者様。
彼の優しさはかえって毒のようだった。レダもう何も考えたくないと思わせる優しい声は頼りたくさせながらもうじき二度と聞けなくなると決まっている。
「レダがいてくれてよかった。レダのことが大好きだって奴が沢山いる。少ししかここにいない俺でも見てたらわかる。間違えて生まれたんじゃない。愛されてるし、望まれてる」
「でも私がいて苦しんだ人はいても私がいて救われた人がいますか? 私が初めからいなくてもきっと誰も困りませんでした」
「俺がいるだろ! 俺はレダに救われてた! こんな何も知らない場所で、苦しい時何度も」
抱きしめてくる彼の胸を押して怒鳴った。
「それだって私がいなければ貴方はそもそも何も知らない場所に呼びつけられることなんてありませんでした! それに貴方は私を選んでくださらないのでしょう? この世界からいなくなってしまうのでしょう? この世界で私を必要とする人は結局いません」
酷い八つ当たりなのはわかっていた。彼は理不尽にこんな世界へ呼び出されてしまった被害者で、もとの世界に帰るのは彼の持つ当然の権利だ。
自分が関わったことで呼び出されたのに、自分を置いて行く貴方は薄情な人だと自分勝手なことを言っているのが恥ずかしくて、でもどうしようもできなかった。
「寂しいです。悲しいのよりも、とっても寂しい」
貴方と過ごす時間が楽しかった。幸せだった。薄々感じていた父にすら愛されない孤独を忘れられるくらい。
こんな想いが彼の重荷になることがわかっていても、願わずにいられないくらい、寂しい。一人にしないで。傍にいて。
「エイ様。勇者様。どうか私を愛してください」
彼が絶対に首を盾にふらないとわかっていても。




