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四月は生活がガラッと変わるので忙しくて目が回りますね。なんて先週更新をさぼった言い訳をしてみたり……。
床に額をこすりつけて謝罪を繰り返すジルをどうすべきか途方にくれてしまう。ハロルドは放っておけばいいと言うが、かれこれ一時間この調子だ。
寝坊くらい、羽衣子もハロルドも起こさないことを選択したのであまり気にしなくてもいいのに。
「謝りたいなら謝らせとけばいいよ。そのうち飽きるでしょ。それより針がうまく通らないんだけど」
「こんがらがっちゃったんですね」
ボタンつけをしてみたいと言うからやらせたが、よく考えたら王子に針を持たせるのはよくなかっただろうか。訊こうにも、ジルはあの調子だ。
からまった糸を解きながら、頭を下げられたままの方が困ると伝えればようやく顔をあげ背筋を伸ばした。そしてそのまま、ジルはハロルドをじっと見つめる。
「殿下、お嬢さんのご迷惑になります。もうそう軽くもないのですし」
羽衣子の膝に座っていたハロルドは不機嫌そうにため息をついて背中を倒してよりかかってくる。
「迷惑じゃないよねウイコ。光栄だよね?」
「はいはい」
大変光栄でございますよ。そう言わないとまた罵倒するんでしょうよ。
八歳の男の子ってこんなに軽いのかと思うくらい負担ではないのでかまわないが、ジルのブランチとハロルドの昼食を出さなければいけないからと、抱えて小さな体を横に下ろす。が、羽衣子が立ち上がる前にまたのぼって座る王子。
見かねたジルはよければ自分が食事を作ると言う。本来ここに住んでいる二人の青年を思い出し、果たしてそんな器用なことができるのか心配になる。いいですけど、と、けど、の続きを羽衣子が言う前に支度を始めたジルの手つきは随分手馴れている。
この世界はろくな男がいないなという概念は、主に同居人二人のせいであって常識は通常あって然るべきスキルを持つ人もいるらしい。
「ウイコ。指、刺しちゃった。痛い……」
ジルの方を見ていてハロルドからすっかり目を離していた。いけない、と思って膝に座る少年を見ると、目を潤ませて切なげにこちらを見上げている。
なんて可哀想なの! なんて可愛いの!
胸をおさえてハロルドの指を見るが傷は見当たらない。
「嘘」
「ああ、そうですか……」
僕を膝に乗せるという幸運に恵まれながらよそ見するなんてありえない、というめちゃくちゃな文句に苦笑する。相手をしてほしいんですね。
「顔が可愛いと得ですね」
ちょっと目を潤ませただけでこんなに心をわしづかみにしちゃって。
「僕もそう思う。あ、ホントに刺しちゃった」
しれっとした顔で指をぺろっと舐めている。本当に刺したときの方がリアクションは薄いんですね。
「やっぱりせめて、ジルさんのお手伝いをしますから、一人で待っていられませんか?」
「駄目。僕が帰るまでウイコは僕と一緒にいないと駄目」
「同じ室内じゃないですか……」
「時間が限られていることを考慮してよ。ちょっとくらい我儘言ってもいいでしょ。何も永遠にくっついていろって言うんじゃないんだから」
「そう……ですけど……」
……時間が、限られている……?
帰るまで。『まで』。
永遠じゃない。
「帰るまでって譲歩してあげてるんだよ。無理やり連れて帰れるのに僕は優しいよね」
「譲歩、ですか……?」
「僕が帰ったら、それ以降はもういいよってこと。嫌だけど」
『まで』と限定したなら、それ以降は好きにしていいと譲歩している。それが、彼の考え方らしい。
嫌だけど、と言って少し泣きそうな顔で羽衣子をみあげ、服を掴んでくるハロルド少年の顔が、十八歳の彼に重なった。
吐き気が押し寄せてくる。ぽっと浮かんだ、とても残酷な考えが、心を真っ暗にする。
まさか。そんな。考えすぎに決まっている。
でももし、『まで』と限ることが彼の譲歩するという意志を表しているなら。十八歳になってもそれが変わっていないなら。
――僕が死ぬまででいいから僕の奥さんになってくれないかな。
――死ぬまで、一緒にいよう、ウイコ……。
「ウイコ? どうしたの? ぐあいが悪いの?」
眩暈と吐き気で倒れそうになりながら口元をおさえる羽衣子を、膝の上のハロルドは心配そうに見つめている。
この子は、宰相に感化されたりしそうにない。兄を王にしたがっている。カーティスへのこの執着は果たして十八歳の彼の中でさっぱり消えているのだろうか?
考えれば考えるほど、辻褄があっていく。
死ぬまででいいから。
死ぬまで、一緒に。
十八歳の彼の言葉。それは途方もなく長い時間の話だと思っていた。けれどそれは羽衣子の勝手な思い込みだったかもしれない。死ぬまでの時間が彼にとって残りわずかだったなら。彼が羽衣子に求めていたものはほんのわずかだったのかもしれない。
まだ決まったわけではない。羽衣子が受け取った通り、長い時間傍にいようという意味で、これは深読みかもしれない。
でも。でも。
最後には羽衣子の望んだとおりになる。そんなようなことをハロルドは言った。羽衣子が望む結末は、兄弟みんなで元の世界、自分たちの家に帰ること。ハロルドもそれをわかっていたはずだ。だとすれば、羽衣子が死ぬまでこの世界に留めさせようとは考えていなかったのではないか。死ぬまで一緒に、かつ、羽衣子のいいように。
ハロルドはすぐにその限られた時間を終え、羽衣子はすぐに帰れる。そういうことだったとしたら?
「ウイコ!」
「ぶっ」
顔が強制的に横を向かせられるような強いビンタをくらって我に返る。平手なのは最後の良心か、ハロルドは自分の手と羽衣子の頬を見てあせあせして謝る。
「ごめん、あの、目がいっちゃってたから……」
「いえ……、大丈夫です。すみません……」
「汗かいてるよ」
「いや、えっと……その……」
この、最悪の考えがあたっていたとしたら、どういうことだろう。病気? 違うと思う。いつ死ぬかわからないほど病状が悪い人には見えなかった。顔色もよかったし、毎日よく動いていたし、食欲だってあった。
なら、自分から選んで、何らかの形で……。
どうして? どんな形で?
カーティスに関係あるのは間違いないと思う。問題は、十八歳のハロルドが、カーティスをどう思っているか。
仲直りなんて冗談じゃないという様子が本心だったか、それとも今の崇拝するような思いを隠した強がりだったのか。
「わ、わわわわっ! 正気ですから!」
再び平手の構えをするハロルドの手を慌てて抑える。
「じゃ、ぼーっとしないでよ」
「はい……」
「いつもそんなにぼんやりしてるの? 一人でいるとそうなっちゃうのかな。家族は? ニサカなんて名前聞いたことないよ」
「しっかりしてる方だと思うんですけどね」
「あははは」
平淡な笑い声にむっとする。
「ウイコがしっかりしてるって言うなら世の中の大半はできる人って扱いになるよ」
「やっだ、泣きそう」
この悶々とした気持ちはほぼ貴方が原因なんですからね。
可愛い顔で嘲笑している顔が未来の彼の面影を読み取らせて憎たらしく思えた。
「貴方はろくな大人になりません」
大事にするのは兄上だけ? 自分の命も大切にできない大人になんてなって。子供のころの貴方は自分に素直だったくせに、本心を兄上にも、私にも隠していたなんて。
挑戦的な目のハロルドは口角を上げて首を傾げる。
「根拠は?」
「根拠は私の女の勘です」
「それ、根拠って言えないよ」
可笑しそうに笑って、つけ終わったボタンを指先で遊んでいる。
ろくな大人にはならない、けど。
「ついでに女の勘は、貴方が優しい人になるって」
「ふうん」
ちょっとだけ嬉しそうに、まあるい目が羽衣子を見上げる。
早く帰らないと。
もとの世界じゃなくて、とりあえずはもとの時間に。
できるかどうか、できるわけない、そんなことを考えている暇はない。どこかへ閉じ込めてでも、何を考えているかわからない十八歳の彼を死なせない。でないと、後悔するから。




