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明日の明け方出発する。道は確保済み。馬で走らせ城には夜に到着。比較すれば勿論昼の方が攻めやすい。不要な被害も出さずに済む。離れている仲間たちとの合流点はここと、ここと、ここ。
城についたら、ジョシュアの父および城内に潜入している協力者たちに魔術を解かせ、一斉に押し入る。そして、すべてを終わらせる。
……いよいよ、明日。
なのに、いつも通り三人しかいない小屋で夕食を作っていることに拍子抜けしてしまう。
「結構な距離ですけど……。かなり馬をとばしますよね」
「そうだな」
「落っことさないでくださいね」
「……はあ?」
夕食をテーブルに並べて、邪魔ですよー、と地図をどかす。明日は早いので早く眠れるように、夕食も早めに作った。
「何かを落とすほど大荷物で出かけないぞ」
「いや、私を落とさないでくださいねってことです」
「お前は連れて行かない」
落ちそうになったサラダの器をジョシュアがキャッチする。
「だってずっと、私も一緒に行く予定でしたよねっ?」
カーティスの襟を両手でつかむと、決まり悪そうに目を逸らされた。
「勇者が宰相に洗脳されていないとなれば、邪魔立てされることもない。お前を連れて行く必要はなくなった」
「でも……!」
長くなりそうなら先に食べていますね、と、ジョシュアは手を合わせて食事を勝手に始める。
「でも、私はハロルド王子に」
「会わせる必要もない」
すっと目を細め、こちらを見つめる彼からは表情を読み取れない。
「カーティスさんに言われることじゃありません。会わなきゃいけないんです!」
「俺の知ったことではない!」
手首を掴まれて、ぐっと顔をが近づけられる。無表情から一転、怒気をあらわにしたカーティスは力の加減など気にしていない。
怖くなって小さな悲鳴をあげると、はっとした表情でゆっくり離れていく。
「予想よりも更に長くなりそうなので、外で静かに食事をしましょう。ごゆっくりどうぞ」
複数の皿を器用に持って本当に表へ逃げて行ったジョシュアをぼうっと見送って、ドアの閉まる音で我に返った。頭を横にぶんぶん振る。
「邪魔にならないようにしますから」
「駄目だ」
掴まれたままの手首は親指で撫でられている。
「ハロルド王子と会って、きちんとお話したいんです」
「……嫌だ」
引っ張られて、躊躇いがちに抱きしめられる。
「駄目、なんじゃない。嫌、なんだ」
背中に回された腕はきつく抱きしめようとしない。迷っているようにふんわりと。
「必要がないならお前を危険な場所に連れて行きたくない。それも本心だ」
「……今更じゃないですか」
魔王の城にだって行ったのに。『鴉』の屋敷だって初めは危険な場所だった。
「そうだ。今更……。今更気づいて、今更お前を大事にしたいと思っている」
耳元で囁く声は震えている。抱きしめてくるカーティスの体も。
「もう時間はないのに……今更……。お前をさらわれて、お前が他の誰かを気にかけてようやく……」
駄目、なんじゃない。嫌、なんだ。ただ、会わせたくない。それだけ。
そういう解釈で、間違っていないだろうか。
「もとの世界に帰るまででいい。誰よりも、俺の傍にいろ。いてくれ」
「なら、お城に一緒に行った方が一緒にいる時間は増えますよ?」
「奪われる可能性のある場所に連れて行くくらいなら、帰るまでに俺以上に誰かの記憶を残されるくらいなら、置いて行った方がマシだ」
わかってる。見たら後悔する。
それでも、欲求には勝てずに、少しだけ体を引いてカーティスの顔を見た。
言葉では表現のしようのない表情。
泣きそう。苦しそう。怒っているよう。笑っているよう。
どれも当てはまるし、当てはまらない。ただ一つ確かなのは、自惚れでもなく、恋に戸惑っている人の顔。
息が止まりそうになる。やっぱり見なければよかった。全部言ってしまいたくなる。私は貴方に負けないくらい貴方が大好きです。貴方のことで頭がいっぱいで、貴方のことを考えるだけで苦しくなって、貴方の傍に、ずっといたい。
絶対に言ってはいけないことだ。特に、最後のは。言ったら、残る覚悟もないのに、帰る勇気も失ってしまう。
「俺はお前が」
「あの!」
自惚れでないことくらいわかっている。もうほとんど確信している。だけどおどけないと、抱きしめて帰りたくないと言ってしまいそうだから。
頭が悪そうに、へらりと笑ってカーティスを見上げる。
「私が帰ること、わかってますよね」
まさか忘れてませんよね? と。
カーティスの顔はみるみる曇っていく。
それ以上言わないでください、というメッセージを彼は汲み取ってくれただろうか。
「……わかっている」
ためらっていた腕は、緩むのではなく、きつくなった。
「わかっている……」
骨がみしみしいうくらい強い力で抱きしめられて、本当はすごく痛いけれど何か文句を言う気にはならなかった。
嬉しい。嬉しい。嬉しい!
でも、寂しい。
抱きしめ返したら、帰りたくないと言ってしまいそうだから、できない。
「この世界にいる間、私は望んで貴方の傍にいました。貴方の傍にいることを選んだのは私自身です」
言えるのは、そこまでだ。
誰かに強要されたからじゃない。そうせざるを得なかったから、そういう運命だったからじゃない。最初はそうでも。途中からは違った。
羽衣子は自分で誰の傍にいるのかを選んだ。
泣いたら駄目だ。泣く時じゃない。まだ何も始まっていないし、まだ何も終わっていない。始まりも終わりも明日だ。
「……もとの世界に帰る前にハロルドと話す時間くらい設けてやる。俺の目的は当初から変わっていない。それくらい容易い。帰る前までにはお前の望むことをいくらでも、何でも叶えてやる。だから明日は、少しでも安全な場所で俺を待っていろ」
首に埋められたカーティスは熱い溜息をこぼす。泣いている? 兄弟そろって、男の子なのに。
「ここで、お前が待っていてくれると思うと、俺はどんな困難にも打ち勝てる。……気がする」
「気がするって。……わかりました。ここにいることで力になれるって言うなら。……不本意ですけど」
「わざわざ本音を付足すなアホ女」
「はいはい。ごーはーんーにしましょう」
早くこの熱から離れないと、くらくらして、倒れてしまいそう。
誰かのせいで、私もつられて泣いちゃいそう。
***
貴方はろくな大人になりません。根拠は私の女の勘です。
「女の勘というのは、馬鹿にできないんだよ」
明日のため、城内図の書き込みを確認しながらハロルドは愛想のない騎士団長に話したが返事はない。
「僕はろくな大人になれなかった」
羽衣子の言った通りだ。ろくな大人どころか、大人になれたかどうかもわからない。信念なんてない。志もない。ハロルドは自分の我儘を通すことしか考えていない。
「大人って、なんなんだろうね」
羽衣子より背が高くなって、羽衣子より力が強くなった。大人になったら約束を守ってまた会いに来てくれる羽衣子をお嫁さんにして、彼女に手を握ってもらって死ぬのが夢だった。大人になったら僕が彼女を守ろう。そう思っていたはずなのに、そもそも、大人にもなれていなかったかもしれない。
ただ、年をくっただけのガキ、だったのかもしれない。それは父であったり、宰相のように。
欲張ったのがいけなかったのだろうか。
だけど少しくらい、いいじゃないか。たった、二つだけだ。ハロルドが望んだのは。他は全部捨てて、両親を見限り、兄を遠ざけ、大嫌いな宰相に媚びへつらい、自分の本心も奥深くにしまい込んだ。
宝箱は、昨夜燃やした。
羽衣子はもう、いらないから。もう、十分、彼女に与えてもらったから。これ以上彼女に縋って、彼女を傷つけてしまうくらいなら、彼女ももう遠ざけてしまおうと思った。
「貴方は立派で気高い」
しかめっ面の騎士団長は、窓の外を睨みつけている。
「誰が何と言おうと」
「……あんまり嬉しくないなあ。褒めてくれるのがウイコだったら嬉しかっただろうなあ」
鼻の奥が、つんとした。
「嬉しくないけど、……嬉しくないけどさ……」
僕はきっと、後世に愚か者として名を残すだろう。
「嬉しく、ないけど……」
彼はきっと、僕を立派で気高いと言ってくれる最初で最後の人だ。
「誰か一人にでも、そんなことを言ってもらえるなら、悪い気はしないよね」
迫ってきた涙をなんとか我慢した。
「明日は君の働きにも期待してるよ、ジル。これで最後だよ。父上の時代も、マーティス卿との騙し合いも」
兄上の思惑を徹底的に台無しにする僕らの思惑も。




