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ベッドのすぐそこに立ってこちらを見下ろして来る彼は酷い顔をしている。部屋が暗いせいかもわからないが、顔色も悪い。
「風邪、ぶりかえしたんですか?」
「……第一声がそれか」
思っていたよりも早かった。それに、本人が来るとも思っていなかった。それどころか、来るか来ないかもわからなかった。来なければ来なかったで、そう判断されたなら大人しく革命が終わるのを待てばいいと思っていた。
しかめっ面で羽衣子とハロルドを見比べると、小さな声で問いかけて来る。
「服は着ているか」
「当たり前でしょう。何を想像してるんですか」
「何を当然のように同じベッドで寝ているんだ。救いようのない阿呆か」
今はそんな話をしている場合ではないのに、くだらないことを訊かないでほしい。
「カーティスさん一人なんですか?」
「ここに他の誰かが見えるか?」
「ねえ本当に、そんな嫌み言ってる場合じゃないんですってば」
ハロルドが起きたり、誰かがここへ来てしまえば万事休すだ。
「オルフェさんはちゃんと手紙を届けたんですね」
「本人はさっさと逃げて行ったがな」
カーティスがここにいるということは、オルフェはきちんと勝手な開封もしなかったということだ。
手紙の内容はほとんど意味のないものだった。何を書いたのかもほとんど覚えていない。ハロルドの部屋にいる、と書いたことは覚えている。自分の居場所がわからなければどうしようもできないとそこだけ筆圧を濃くして書いた。
あとは弟と会ったとか、そんなことを書いたような書かなかったような。
そしてもし、羽衣子が城で情報をもらしてしまわないか不安だということがあれば、これを使ってほしいと、魔法陣の描かれた紙を行き帰り用に二枚、同封しておいた。
レダに頼んで守りの薄いジョシュアの父親の部屋に案内してもらい、こっそり拝借したものだ。一枚で魔法の恩恵にあずかれるのはほんの数人だけと聞いたので、それを使って城に押し入ることはしないだろうと思ったが、まさかカーティス一人で来るのは予想外だった。ジョシュアさんには後でお父さんに誤ってもらおう。知らずに盗みに加担させてしまったレダさんには、この人生きてますよー、とカーティスを見せて喜んでいるときにどさくさに紛れてちらっとその話をして……誤魔化せなかったらその時はその時で……。ちょっとだけ良心が痛むけど。
「早く出て来い。もう行くぞ」
「抱きしめられてて出られないんです」
ベッドの中ではがっちり腕に捕まえられている。
「……ここに残るか?」
「いいえ。貴方のところに戻るつもりでいます」
戻りたくないから嘘をついているのではなくて、本当に中で抱きしめられているんです。
戻って来るなと言われない限り、羽衣子はあのボロ小屋に戻る。戦争についての考え方を理解できるのも共感できるのもカーティスの方だから。それに、ただ単に、カーティスのところにいたいという願望もある。
カーティスは小さく微笑んで、羽衣子の頭をそっと撫でる。その仕草に、胸のつっかえが取れて、くらりとした。その微笑みも、大きな手も、嫌でも実感させてくる。この人の傍にいたい。きっと、この人は羽衣子の“唯一”の人になってしまった。二度と会えなくなることがわかっているのに。
ふっと溜息をついたカーティスは、掛布団をめくって、腕をどけようとハロルドに触れようとして、止まった。
「……狸寝入りか。いつから起きていた」
顔が、ぎゅぅっと胸に押し付けられた。
頭を抱え込むように羽衣子を抱きなおしたハロルドは冷たい声で、さあ、ととぼける。顔は見えないけれど、穏やかな雰囲気でないのは間違いなかった。
「随分、可愛げがなくなったものだな」
「他人の物を欲しがるなんて、兄上こそ卑しくなったものですね」
呼吸が苦しくなるくらい、胸に押し当てられる。
「他人の物、だと? その女は俺が拾った。お前の物ではない」
「ウイコを先に見つけたのは……、ウイコに見つけてもらったのは、僕だ」
静かな声で、威嚇し合っている。だけど二人とも声をあげたりしない。見つかって不利な立場になるのはお互いさまだ。けれどカーティスの方がはるかに危うい。
「ん……っ! んうっ!」
命の危機ではないのでさすがに火事場の馬鹿力は出せないが、血管が切れてもいい、くらいの気持ちで全力でハロルドから離れようとする。
やはりびくともしない。
「カーティスさん、いいです、もう行ってください。人が来たら、今までしてきたこと全部水の泡です……」
「ほら、ウイコも言ってる。早く巣へ帰ってはどうです、兄上」
情報流したりしないから。ちょっとだけ信用してくれればこのお城で、貴方の味方のまま待っているから。
ぜえはあ息を整えながら、ハロルドにかけていた力を抜いていく。自力でここから出るのはどう考えても無理。
「馬鹿を言え。この俺自ら迎えに来てやったのに無駄にする気か。それとも俺とジョシュアを飢え死にさせる気か。お前がいないと困る」
肩を、カーティスに掴まれる。
私がいないと困る? 何の役にもたたないし、こうして足手まといになっているのに。
「お前が必要だ」
自分がいなくても、彼には何も問題ないことくらい、わかってる。
「俺は、お前に傍にいてほしい」
不細工って言うくせに。脚見て不愉快とか言うし。ただの食事係で、役に立つどころかさらわれたりしてるのに。迷惑の塊なのに。
「……っ、わ、私、も、カーティスさんに、わっ!?」
「ウイコ!?」
突然の浮遊感。そして、床に落下。
ベッドから落ちただけでもこんなに痛いのだから、もしこの世界に来た時木にひっかからず落下していたら命はなかっただろう。
強打した腰をさすりながら、カーティスに支えられて起き上がる。
ベッドの上に膝をついて座ったハロルドに落とされたらしい。
髪を耳にかけ、つまらなさそうに笑ったハロルドは羽衣子とカーティスを交互に見て、深い溜息をついた。
「もういいよ、連れて帰って」
カーティスを見て、そう言って。
「もう君、いらないから、いいよ」
ウイコを見てそう言って。
目を閉じて、ベッドに眠りなおす。
「こんなに優しくしても懐かなくて、全然可愛くないからうんざりだったんだ。せめて愛想でもあればよかったのに。で、僕に懐かないくせに兄上にそんなに懐いてるんじゃ興ざめだよ」
飄々と喋るハロルドは、寝返りをうち、向こうを向いてしまってどんな顔をしているかわからない。声は、つとめて明るい。
「凶暴なのを手なずけるのが楽しいってよく言うけど、君はずっと態度が悪いから我慢の限界だよ。飽きちゃったんだ。僕はあまり根気強い方ではないんだよ。だからもう、いらない」
本当に? そうだ。私は優しい彼に酷い態度だった。だけど、それなら、どうしてこちらを見ようとしないの? どうして、嘘っぽい、いつもより明るい声で話すの?
カーティスに手を引かれ、紙から床に移って広がった魔法陣の上に立つ。
なんて、声をかければいいのかわからない。
ごめんなさいと言うべき?
貴方が私とどこで会ったのか、私が何をしてしまったのか、結局わからないままで。
それとも、ありがとうございました、と言うべき?
優しくしてくれて。嫌がることをしないと、言葉通り尊重してくれて。
どちらも、違う気がした。
羽衣子が、彼なら、そんな言葉よりも欲しい言葉がある。
「またね」
また、会いましょうね。
また、きちんと話しましょうね。
「また、は、もうないよ、ウイコ」
さよなら、ウイコ。
最後に聞こえたハロルドの声は、明るさを消して、掠れて、震えて、小さかった。




