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太った。動かないで食べていれば当然だけど。下っ腹と顎にかなりヴォリュームがついた。不思議なもので胸には変化がない。
「気にしすぎだよウイコ。ウイコはずっと可愛いよ」
「可愛いって言われるのは嬉しいですし、散々喜んだのでこんなこと言いづらいですけど、貴方の『可愛い』には信憑性がありませんね」
「そんなことないよ。ウイコにしか言わないよ」
とか言いながら顎の肉を触るのはやめてほしい。確認のために、とお腹に伸びてきた手はなんとか払い落とした。
「ウイコはずーっと可愛いよ。太っても、お婆ちゃんになっても、ウイコがウイコである限り、君はずっと、僕のお姫様だよ」
「お婆ちゃんになるまで、貴方の傍にはいませんよ」
ベッドの中で、ぎゅっと抱きしめられる。
「死ぬまで、一緒にいよう、ウイコ……」
すがるような声。
でもできない。一刻も早く元の世界に、母のもとへ戻らないと。ここに死ぬまでいるわけにはいかない。
それに、この寂しそうな王子に対して、嫌悪感はないが、好意もない。ずっと一緒にいるためには、自分の感情は弱すぎる。きっと一緒にいても彼を傷つけてしまうだろう。
「どうして、私なんですか?」
はぐらかさないで、聞いてください。答えてください。もしかしたらもうすぐ、貴方の傍からいなくなるかもしれないから。
「話してくれないんじゃ、どうしたって一緒にはいられませんよ」
「話しても、僕と一緒にいてくれる気はないよね?」
うん。たとえどんな話をされても、もとの世界に戻るという意志は変わらない。
「話さないのは、話す必要のないことだからだよ。それに僕は、あの頃の自分が嫌いだった」
「私が話してほしいって言っていても?」
クスクス笑ったハロルドは、いいよ、と囁く。
「帰りたいってお願い以外なら、何でもきいてあげる。見返りは求めるけど、ウイコがそれでいいならね」
「求められる見返りの内容にもよりますが」
「寝ているときにお互いの服が邪魔だと思わない?」
「思わないです。よくないです」
じゃ、駄目だ、と言ってハロルドは笑って羽衣子の頬をつついた。
やっぱり、そんなうまい話ないですよねえ。無条件で何でもお願いきいてくれるなら、国をぶっつぶせなんて馬鹿げたお願いだって叶えられちゃうわけですものね。
それに気づかず下手なお願いをしないでよかった。
「私は貴方のことを悪い人だと思えません。宰相さんに洗脳されているとも思えません。なら、貴方は何をしようとしているんですか? 本当に、戦争をすることが正しいと思っているんですか?」
「ウイコは質問ばかりだね。そんなこと、心配しなくていいんだよ? 全部、ウイコの望んだとおりになるよ。最後にはウイコは幸せだよ」
「私が来る前から、貴方の動向は変わっていないでしょう? 貴方は何のために、何をしているんですか?」
国のため? 平和のため? 家族のため? どれも、該当しない。だって、国のためを思うなら、宰相の暴挙を許しておかないだろう。平和のためを思うなら、戦争を目指したりしないだろう。家族のためを思うなら、何故、兄をそこまで拒むのか。
「自分のために、自分勝手をしているだけだよ」
鬱陶しい兄上はもういないから、とても楽だ。意地悪く笑ったハロルドは羽衣子の頭にキスをする。
「僕は兄上みたいにご立派な人間じゃないからね。王族に生まれるべきじゃなかったんだろうな……」
ウイコの世界に生まれて、ウイコと出会って、恋人になって結婚したかったなあ。頬をかいて、ありもしない別の世界の自分を想像する彼。
「どこに生まれるかなんて選べませんよ。どう生きていくかしか、決められません」
ハロルドよりも、カーティスの方が、人の上に立つのは、本来の人柄からでは向いていない。あんなにも自信がない人が、あんなにも大きな責任を背負わなくてはいけないのは残酷だ。
けれど彼は、そう生きていくことを選んで、精一杯に歩いている。
「そうだね。……だけど、そんな目で見ないで」
泣きそうな笑顔。この顔を見ると自分まで悲しくなる。
「どっちなんだろうね。僕と兄上を比べているの? 僕を通して兄上を見ているの?」
どちらにも心当たりがある。
その考え方は、その笑い方は、カーティスと違うと思う時も。その所作は、その癖は、まるでカーティスを見ているようだと思う時もある。
「訊いてばかりいないで、僕にも教えてよ。どうして君は兄上の傍にいたがるんだい? 先にウイコを見つけたのは僕だ。どうして……? 僕は君だけでいいのに、兄上は全部持っているのに、どうして君まで、兄上のところに行こうとするの?」
今までで一番、嫌悪の気持ちを表に出したハロルドは声を震わせ、羽衣子を見下ろす体勢になって涙を流した。
「僕は今、兄上に殺意を抱いてる。ウイコのせいだよ。ウイコがいなければ、兄上がいなければ。どちらか一人がいなければよかったんだ。そうしたら、何も考えないですんだ」
笑おうとして、口の端をひくひくさせながら、嗚咽がこぼれる。痛々しい王子の頬に触れると、もっと大粒の涙が落ちてくる。
「馬鹿な奴らは、僕をマーティスの人形だと言うんだ。本当にそうなれたらよかったのに。全部、ウイコが悪いんだ。ウイコのせいで、僕は……」
「私が、何をしたの」
突き放したんじゃない。近づきたい。何かしてしまったのが自分なら、なおさら。
「言ってくれないと、わからない。貴方がどうして泣いてるのかも、私の何が悪かったのかも」
濡れた頬が、自分の頬に重なる。キスの代わりみたく。
「わからなくていいよ。わかってほしくない。君の知らなくていいことだ」
頬が離れて、唇が近づく。触れない、ギリギリのところで止まって、彼は囁く。
「僕が君を愛してるってことだけ、わかってくれればいい」
「私は貴方を、嫌いじゃないけど、愛してません」
愛してる、なんて、これまでの人生で一度も言ったことはない。だけど気づき始めている、あの、自信がなくて孤独で、孤高の人に抱く特別な感情は、それをあてると丁度ぴったりと落ち着く。
言葉にしたらもう誤魔化せない。いつか二度と会えなくなる人に対して抱くには、果てしなく虚しい感情だ。
けれどもう逃げきれない。ハロルドをはっきりと拒絶するには、それを自分の口から言わないといけない。
「私は、カーティスさんのことを」
触れないで、ギリギリの場所にあった唇が落ちてきて重なった。本当に、幽かに触れるだけのキスだ。それなのに、手で押し返しても離れない。
数秒して離れたハロルドは表情を消していた。
「殴ってもいいよ」
「……そんな、すぐに壊れちゃいそうな人に言われてもできません」
よく、考えれば、こんなことで怒れるはずがない。地位も力も、はるかに羽衣子より優れているのに、彼は羽衣子に何もしないでいた。どんなことでも、無理やりできるのに、彼は尽くしてくれるばかりだった。羽衣子は何も返せない。嘘でも、好きとか愛しているとか、彼の喜ぶ言葉を返していない。
「眠っても、君が夢に出てくるんだ。夢の中の君は、僕に好きだって言ってくれる」
「……」
「すごく、幸せだけどね。それでも僕は、現実の君がいい」
触れることができて、僕が予想もできない返事や反応をしてくれる。笑うだけじゃなくて、怒ったり、拗ねたり、寂しそうにする。
涙を流したまま、羽衣子を抱きしめて眠りについたハロルドの腕はいつもより苦しくしがみ付いてきていた。
涙を拭いてやって、恐る恐る、寂しい王子の頭を撫でているうちに、夜はどんどん深くなっていく。
久しぶりに聞く声をかけられたのは、ようやくうとうとしてきた時だった。
「ウイコ」
王子の部屋で聞こえるはずのない、別の王子の声だった。




