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テーブルに広げた紙を見つめて、ジョシュアは大仰な溜息をついた。
朝食の食器をかたし終えた羽衣子は手を拭きながらそれをのぞき込み、外へ出かける身支度を整えたカーティスも同じようにそれを見る。
日本語でないことは確かだが、そこに並ぶ文字の羅列はスラスラと読めた。これも勇者召喚の時のおまけ魔術のおかげだろう。
内容は、勇者一行が魔王討伐へ向かうのは半年後、それまでに国中から戦士を募るというものだった。
「勇者など気休めに過ぎないというのに、随分と大がかりに呼びかけていますね。こんな取り柄もない小娘の弟に何ができるわけでもないでしょう。無作為に選ばれた人材を勇者と名乗らせ国民に裏切ることを前提の期待を持たせるなど、国王陛下は何をお考えなのか……」
こんな小娘、というのは間違いなく羽衣子のことだ。取り柄のない小娘の作る食事をついさっきまで美味しそうに頬張っていたのはどこの誰だったか。
言うとまた身の丈を弁えろときゃんきゃんうるさいので黙っておく。
「魔王なんてものがいるんですね」
「お前の世界にはいないのか? なら誰が魔族を統轄する?」
「魔族なんていないので……」
不思議そうにするカーティスに、何でもない様に答えると更に不思議そうにされた。
「人間と魔族の諍いはないのか?」
「だから魔族がそもそもいないから」
諍いも何もない。存在しないものとどうやってもめろと。
「というか半年も勇者は働かないってことですか?」
羽衣子は家政婦のようなことをしているのに生意気な弟はお城で快適に過ごしているのだとしたら悔しい。
ハン、とカーティスが鼻で笑った。
「お前の弟なら勇者の役目をまっとうできるよう鍛えられているだろう。なんせお前の弟だ」
「ひっかかる言い方なんですけど」
「見るからに鈍くさいお前の弟なら鍛えなければ使い物にならない鈍くささだろう」
この人は知り合ってたった一日の人間にどうしてここまで失礼なことを言えるのだろうか。親の顔が見てみたい。
羽衣子は運動は得意ではないが鈍くさいと言われるほど鈍くさくない。
「弟は私よりは鋭いです。それに、私と私の家族を見下しているみたいですけど私の兄の方が貴方より何もかも優秀だと思います。そして姉は貴方より間違いなく強いですよ」
兄は女性からの人気もある。礼儀正しい。運動神経が抜群で成績もいい文武両道。姉は魅惑のボディと巧みな話術を操る。口で勝てる男なんて見たことがない。
「女に負けるほど落ちぶれていない」
「ジョシュアさんよりカーティスさんの方が感情的になりやすいみたいですし、なおさらうちの姉には勝てませんよ」
眉間に皺を寄せたカーティスはジョシュアを見てうんざりとした顔をした。
「こいつと比べるな。顔で笑って腹の中は取り返しのつかないような黒さだ。感情に左右されにくいのは性格が悪いから他人を見下して相手にしていないというだけだ」
「それは何となくそんな気もしていました」
絶対に、性格が悪いだろうなって。
笑顔でにやけ茶髪が振り返ったので咄嗟に目を逸らす。
「あ、消えた」
ジョシュアが広げていた紙から文字がじわりじわりと白いインクが染みていくように消えていく。
この紙はこの世界の新聞らしい。一家に一枚あれば、毎日新しい生地が更新され、持ち主が読み終えれば勝手に消えていくとのこと。それでは新聞記者は商売にならないのではと尋ねると、税金から給料が出るそうだ。
「お前も早く支度をしろ、ジョシュア。時間がない」
ジョシュアに声をかけながら、カーティスは羽衣子に黒い布を投げつけて来た。文化祭のお化け屋敷で使う暗幕のようななかなかの重量だった。首から上にもろに当たっていたら首が折れていたかもしれない。
「何ですか、これ」
「見ればわかるだろう。マントだ。それで顔も隠せよ。俺たちといる以上お前の存在もあまり周囲に認識させたくない。うっかり勇者に遭遇しても厄介だしな」
「いや、弟と遭遇したら多分反射的に声をかけると思います」
異世界に一人で放り出されている状態は精神的にかなりダメージが与えられる。生意気でも可愛いしそこそこ頼りになる弟を見つければ心配と安心で駆け寄ってしまう気がする。
「そうなったら多少手荒なことをしてでもお前を捕獲する」
「我慢できそうだったら我慢します」
マントを羽織るのに手こずっていると、見下すような目をしたカーティスが寄って来てマントを取り上げ羽衣子の後ろに腕を回し、そこから広げて着せてくれた。ぐっ、と体を強張らせて羽衣子は必死に俯く。
整っているので近くに顔があってしかも少女漫画のように上着を着せられるとうっかりときめきそうになる。
嫌味な人なのはわかっているのでそれを悟られるのは悔しかった。見ず知らずの羽衣子を助けてくれたからには悪い人ではなさそうだが、失礼なことに変わりはない。
「自分のことはできないくせに他人の世話はしたがりますね、カーティス」
「お前も俺と似たようなものだろうが」
いつの間にかカーティスと同じく支度を終えたジョシュアは肩をすくめてやれやれと首を横に振っている。
「ウイコ」
「え……、あ、はい」
何でもない様に名前を呼んできたカーティスを思わずまじまじと見つめてしまった。家族以外の異性に名前で呼ばれるのは小学生の時以来だ。高校生になれば異性に名前で、しかも呼び捨てされることなどなかったものだから、久しぶりに呼ばれてむずむずと恥ずかしくなった。
眉根を寄せたカーティスは下から羽衣子の顔を覗き込んできた。
「なんだ。名前はウイコで間違いなかっただろう」
「はい、大丈夫です」
マントの中からカーティスが差し出してきたのは刀身三十センチほどの短剣だった。
「念のため護身用に持っておけ。話を聞く限りお前の住んでいた世界はここより大分平和だったようだ。ここでも同じように平和に慣れた警戒心のレベルでいるのは危険だ」
「そんなに物騒な世の中なんですか?」
「お前の言うケーサツ? だったか。この世界にはそんな市民の味方をする大規模な組織は存在しない。せいぜい各地に小規模な自警団がある程度だな。すべての国民が平等という概念はない。王家、貴族階級、一般階級、貧民とはっきり分かれて、庶民や貧民一人死んでも国は気にもかけない。それが現状だ。ついでに魔族も人間の敵」
「うわキツイ」
殺人事件が起きてもスルーされるなら十分物騒な世界だ。差別も根強いなら一層、怖い。世界史で習った人種差別はそれは恐ろしかった。どの国の過去もなかなかにえげつなくて耳を塞ぎたくなることも。それが今いる場所では身近なものになってしまったのだから恐怖に襲われるのもやむなし。
がくがく震える羽衣子の肩を、ジョシュアが軽く叩いた。
「なかなか優秀な家政婦ですからね。極力私とカーティスでウイコを守ります。厳しいようなら捨てて行きますが」
「最後の一言で安心なんて一切できなくなりましたね」
可能な限り守る、ではなく、余裕があれば守る、と言っているように聞こえる。
「あ、心がしらけたおかげで若干恐怖が和らぎました。ありがとうございます」
「貴女の世界ではどうかわかりませんがこちらでは貴女のような女性を可愛げがないと言うのですよ」
「姉によく可愛いと言われます」
「身内の欲目だな」
カーティスをキッと睨むと、そっぽを向かれた。
「さっさと出るぞ。待ち合わせに遅れる」
「待ち合わせ? 犯罪仲間ですか?」
国から追われているくせにどんな人間と待ち合わせなどしているのだろうか。
「俺は生まれてこの方自らを恥じる行いをしたことはない。追われているのも冤罪だ」
とっさにジョシュアが口を挟む。
「なるほど、幼少期のおねしょも貴方にとっては恥じる行いではなかったと。強靭な精神ですね」
「それは墓場まで隠し続けると約束した幼少期の無垢なお前はどこへ行った」
お前は何も聞いていない。そうだな。とカーティスに問われ、適当にはいはいと頷いた。