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バラばかりの庭園なんて子供のころの絵本でしか見たことがない。そこを歩いているなんて夢みたいなことだが、この状況では悦に浸れない。
二歩ほど先を歩くハロルドは上機嫌で鼻歌を歌っているけれど、いい度胸にも程がある。
「こうやってお嫁さんになってくれる女の子と散歩できるなんて僕は幸せだなあ」
「やかましいわ」
ぴったりとくっついた手首を後ろに引っ張る。羽衣子の手を一つにまとめて縛った縄の先を、犬のリードのように持っていたハロルドはつまずいて立ち止まった。
「危ないよウイコ」
「危ないのは貴方と私の絵面」
この状況で、私もとっても楽しいです、なんて言うとでも思ったのか。お嫁さんにならないし言うならせめてお嫁さんになる女の子に縄をつなげる根性を矯正すべき。
「逃げないなら他に考えるけど」
「逃げますね。そこに門が見えるから」
バラ園からは外へ出るための門がある。どういうわけか門番はいない。開け放たれた門に全力で走って向かえば逃げられる可能性もゼロではない。
「もっともウイコが逃げられるわけはないんだけどね」
楽しそうに声をあげて笑うハロルドは、自分の足に自信があるからそんなことを言うのか。しかし門番がいないことを知ってしまえば何も今でなくても逃亡可能の兆しが見えてきた。
「城の中と外を行き来できるのは、許可を与えられた人間だけだから」
「門番がいないのにそんなに厳重にできないでしょう。むしろ物騒じゃないですか?」
「門番なんていらないんだよ。そういう魔術がかかっているんだ。宮廷魔術師いずれかに許可をとっていない人間は入ることも出ることもできないんだ」
ウイコが入る時は、僕の使った魔法陣にそもそもその許可の意味があるから入れたんだよ、と。
これは魔王城にいた姉の二の舞。
「出る時にまたいちいち許可をとるんですか……」
「そうだよ。厳重にしないといけないからね。魔術を一時的にでも解けるのは宮廷魔術師だけだから、僕や陛下でさえ気軽に外に出られないよ」
これを使えば別だけど、とハロルドは懐から手のひらサイズの正方形の紙を取り出す。描かれているのは二度ほど見た魔法陣。これさえあれば好きな場所に移動ができるという。
「アーロンのところからくすねたんだ。彼のとこが一番手薄だから」
「王子様がコソドロみたいなことするんですね」
「王子様も人間だからね。女の子の理想通りとはいかない」
そうですね、と手首を縛る縄を見る。女の子の理想の王子様はこんなことしませんよね。
「アーロンって?」
「ジョシュアの父親の魔術師だよ」
想像してみる。あのクサレにやけ茶髪二重人格の父親はあれをグレードアップさせていたとしたら。魔法陣を盗んだことがばれた瞬間この王子は死んだ方がマシという目にあわされやしないか。
「魔術が使えるなら、犯人探しもあっという間にできちゃうんじゃ」
「万能じゃないからね。魔術って言ってもできるのは時間と空間の操作くらいだよ。それも、相当腕がなければ好きな時間や好きな場所に大幅な移動はできない。呪術ってなると、うまくすれば殺人もできるかもしれないけど合法じゃないからなんともね」
合法、違法の話をしてしまえばこの世界ではきりがなさそうだ。なにせ法律を、宰相の意志で変えてしまったらしいのだから、法律なんてあってないようなもの。
平和主義は、もう崩壊している。法律を重んじる人は、どれくらいいるのだろう。
ハロルドは、崩壊しかけている平和を、受け入れているのだろうか。
カーティスの時もそう。好きになれるかはわからないが、悪い人でないことはわかる。
「……」
手首を縛る縄を改めてじっと見る。
……悪い人では……ない……はず。
「見て、ウイコ。このバラはウイコみたいだ」
「嘘つけぇ……」
どこをどう見たら青いバラが羽衣子のようになるのか羽衣子にはさっぱりだ。しかも青いバラなんて高級そうなバラ。品種改良でしか出せない色というのを聞いたことがある。
「ウイコはピンクや赤って感じはしないから」
「それは否定しません」
女の子らしい色や服はあまり似合わない。そんなに華やかな顔立ちではないから。だからって青いバラが似合うわけでもない。
今までの人生の中で植物にたとえられた経験は思い出せる中で二回。悪気ない姉につくしっぽいと。悪気のある弟に大根みたいな脚と。
「青いバラの花言葉はね、『奇跡』、『神の祝福』、『一目惚れ』とか」
「そうなんですか……」
手首を縛る縄と、ハロルドの顔を交互に見る。
お腹がじわじわと痛んできて、体が震えはじめて、我慢できずにその場にしゃがみ込んだ。もう駄目だ、と、ピンと張っている縄をひっぱって、手で腹をおさえる。
驚いて声をあげたハロルドがしゃがみ込んで羽衣子の顔を覗き込んでくる。彼の顔を見て、もう我慢の限界、と、笑ってしまう。
「え……? ウイコ、どうしたの? お腹痛いの?」
あははははっ、と羽衣子の声がバラ園に響く。
ハロルドは戸惑ってウイコの肩をゆすっている。
「こ、こんなことしておいて、今更花言葉なんて王子様みたいなこと言い出すんだから……っ、ギャップがひどすぎる……っ」
こんなこと、と言って縛られた手を見せつける。
「馬鹿にして笑ってるんじゃないんですよ? うぅふ……っ。王子様らしいことも言えるんですね」
花言葉を言える男子なんて花屋のバイト経験でもなければそうそういない。
ぽかんと口をあけていたハロルドはみるみる顔を真っ赤にさせて、にゅっと羽衣子の頬をつまんだ。余裕のある笑はどこにもなく、口をへの字にして、睨むように上目で羽衣子を見て、黙るようにと笑うのを止めろと圧をかけてくる。
初めて見るその顔が、カーティスそっくりでまた笑ってしまう。
「僕はウイコが体調が悪くなったんじゃないかって心配したんだけど?」
「すみません。……あはっ」
駄目だあ、とまた声をあげて笑うと、笑えないほどの強さで頬を更につねられる。
「馬鹿にして笑ってる。気取ってるって思ってるんだろ」
「痛い……思ってー……ないですよ」
「思ってる。間があった」
ぱっと頬から手を離され、ほっとしてしゃがんだ状態からぺたんとおしりをつけて座った。ああ、よく考えたらこのドレスは借り物。草の上とはいえ座るのは駄目だったかもしれない。弁償しろと言われても無理。
そんなことを考えていたらハロルドもぺたりと座った。
片膝を立て、そこに額を乗せて顔を伏せたハロルドは大袈裟な溜息をつく。
「女々しいと思ってる」
「思ってませんよ」
「恥ずかしい奴だと思ってる」
「思ってませんよ」
にやにやしながら、もう笑いませんよ、と近づいて声をかけると、ゆっくり顔を上げたハロルドはもっと顔を赤くして羽衣子に顔を近づけてくる。
「にやにやしてる」
「これくらいは妥協して我慢してください」
羽衣子を睨みながら離れたハロルドは前髪をかき上げて深呼吸してから、羽衣子の髪をいじってそこ一点を見つめる。目を合わせようとはしない。
「ずるいよウイコ。せっかくウイコが笑顔を見せてくれてすごく嬉しいし可愛すぎて抱きしめたいのに、過程のせいで全然喜べないよ」
「そういう恥ずかしい台詞はさらっと言うのに……」
どこで照れるのかよくわからない。
もしかすると、今のように目の前ではっきり笑われるのは慣れていないからかもしれない。
「もう笑わない?」
「はい。はい」
「言い出した手前途中でやめるとかっこうがつかないんだ。だから頑張って最後まで聞いてね」
青いバラを指さしたハロルドは、早口で花言葉をもう一度繰り返す。恥ずかしがっているのだろう。『奇跡』、『神の祝福』、『一目惚れ』。
赤くなったままのハロルドはどうするか迷うように視線を彷徨わせてから、結局羽衣子と目を合わせ、真剣な顔で言う。
「僕にとってどれもウイコなんだ。ウイコは僕にとってそういう存在なんだよ」
一瞬、呼吸を忘れた。
ゆっくりと彼の口から流れてきた言葉は今までかけられたどの甘い囁きよりも、羽衣子の耳に響く。どうしてだろうと考える。きっといつもより彼が緊張しているせいだ。緊張がこちらまで伝わってくる。緊張と一緒に、真剣な気持ちも。
「え……と……」
その目に見つめられるのが落ち着かなくて、まごついていると、引っ張り立たされた。
「よし。笑わないで聞いてくれたウイコにご褒美をあげる。三時に紅茶とクッキーを届けるように言いつけてあるんだ。部屋に戻って楽しいティータイムだよ」
もう彼の顔色は元通りだったけれど、羽衣子の腕を掴んだ彼の手は普段より熱かった。




