35
――君は、僕に会うために、この世界に来たんだよ。
それがどういう意味なのか、ハロルドは説明してくれなかった。訊こうとしてもはぐらかされる。
仕事の合間合間と朝晩、羽衣子にずっとくっついているハロルドは城の中なら好きに出ていいと言うが、多分確信犯だ。出れるわけがない。敵地なのだから。結局朝から晩までほとんどをハロルドの部屋だけで生活をしている。そして現在ここへ拉致されて五日が経過。そろそろ心配してくれていたかもしれないカーティスが逆ギレしているかもしれない。あの不細工は何を敵にさらわれているんだ。情報をもらしていたら斬首だ、とか言っているかもしれない。
「ただいまウイコ。あれ? 何してるの?」
「脱出計画を練っています」
借りている机に向かい、借りているペンともらった紙をつかって脱出作戦をいくつか書き上げている。しかしどれもいまひとつ。
後ろからぎゅっと抱きしめられて心臓が飛び跳ねた。やっぱりこれは女子の憧れ。そういえば前にも誰かさんにされた。あの時は生乾きの洗濯物の匂いで台無しだったなと苦笑する。
「兄上といてもウイコが得することは何もないよ」
「だから、損得じゃなくて、カーティスさんのところに、私がいたいってだけで」
「そっか。どうでもいいなあ」
クスクス笑って羽衣子から取り上げた紙を丸めて捨てたハロルドに、おい、と声をあげる。
「どんどん貴方の性格の悪さをさらけ出してきますね」
「そう? 今更じゃないかな」
腹の中がどうなっているかわからない怪物ばかりのさばる国の上層に位置しているからにはまっさらなままでいられるわけがないよ、とハロルドは可笑しそうに笑う。
「その証拠に、正義とか理想とか、夢なんか語っている兄上は殺されてしまったわけだからね」
「たしかにあの人は人を疑うのが苦手そうですね」
「逆にお前は人間不信だなって兄上に言われたことがあるよ」
「たしかにハロルド王子は笑顔が作り物くさいですもんね」
「そんなことないよ! ウイコがここにいるだけで僕の頬は勝手に緩んでいるよ」
会話に、何か違和感を覚える。
兄上は殺された、というのは、カーティスが生きていることを知っているハロルドがたとえとして使った言い回しだろう。正義を追求したまっさらな王太子は、国に殺されたと。
はっとして、羽衣子から離れたハロルドの服の袖を掴んで引っ張る。
「どうして、殺されたなんて言うんですか?」
カーティス王太子は、弟王子に毒をもった罪から処刑された。カーティスを逃がしたのは他でもない、その弟王子。
カーティスの話では、弟は、たった一人の兄だから、と。けれど自分を殺そうとしたことは許せないからもう姿を見せないことを約束し、逃がした。
ハロルドは、カーティスが毒をもったと思っているはず。そう思っているならば、「兄上は殺された」、ではなく、「兄上は自滅した」ということになるはずだ。
「どうして、って……」
羽衣子の手に自分の手を重ね、ハロルドはふふっと可愛らしく笑う。
「どうしてだと思う?」
自作自演。宰相とグルだったとか。あるいは、彼が宰相を利用しているのか。
「……わかりません」
おかしいと思う。だけど確証はない。
羽衣子はまだハロルドを疑えるだけハロルドのことを知らない。
「ウイコはそのままでいいよ。何も知らないで、何も心配しないで。……けど、知りたがりなウイコに一つ教えてあげるなら……」
瞼にキスをされて小さく声をあげてしまう。
「僕の傍にいれば、全部が、ウイコのいいようになるから」
「カーティスさんのところにも元の世界にも帰れない時点で何もいいようになっていませんよ」
「今にわかるよ。さ、もう寝よう」
どぅっ!? と変な声が出る。完全に油断していた。触れ合っていた手を掴みなおされ、キングサイズのベッドに引っ張り込まれる。
「や! 私は今日も床で眠るので!」
「どうせ寝付いたら僕が隣に入れるんだから、二度手間だよね」
「二度手間だから私のことは放っておいてくれていいんですよ」
「可愛いウイコが風邪をひいたら大変だよ」
「可愛いって言われるのは満更じゃない」
たとえキングサイズの漫画やドラマでしか見たことのない大きさでも異性と同じベッドで眠るのは激しい抵抗がある。
よって体が痛くなるのを承知の上で床で眠るのだが、朝目覚めればベッドにいる。それもそこそこ部屋の持ち主と至近距離に入れられている。キングサイズなのに。
それに、草を詰め込んだベッドから体が超しずむ高級ベッドに変わって体が順応できていない……。
床の方がまだ早く寝つける。
お日様の匂いのするふかふかのベッドが不満なんて、なんて贅沢な悩みをもってしまったのだろうか。自宅ではマットレスを下に敷かないと痛いくらい薄い布団生活だったし、生まれた時から庶民の生活にあった体に調節されている。
「ウイコ、可愛い」
「お願いだから嗅がないで」
頭に鼻をくっつけないで。
「どうして? すごくいい香りがするよ」
「そりゃお城でお風呂に入れてもらいましたから……。そこだけは心の底から感謝してます」
風呂は魂を洗濯するのに、こちらに来てからずっと水浴びで済ませてきた。お風呂最高。大きいお風呂最高。改めて風呂のありがたみを感じた。
だから臭くないはずだけれども、異性に頭の匂いを嗅がれるのは大抵の女性は嫌ではなかろうか。少なくとも羽衣子は嫌だ。
「ちょっと変態チックですよ。あと密着率が高いので離れていただきたい」
「ウイコが気にしなければいいんだよ」
「いえ貴方がやめればいいだけです」
胸をぐいぐい押し返してもびくともしない。兄弟そろって線が細いくせに力が強い。
「僕より体が小さいね、ウイコ。腕も、腰も、脚も、僕より細くて折れてしまいそうだね」
青年と同じ腕や腰の太さだったら困るだろう。だが折れそうなほど細くはない。
「ウイコはいくつになるの?」
「年ですか? 今年で十七になりますよ。ハロルド王子は」
「十八。ウイコは僕より年下なんだね。ここだけの話、僕よりも背の低いウイコを見下ろす時はとても優越感があるんだ」
「ハロルド王子は背が高いから、色んな人を見下ろせると思いますけど」
何も特別大きいわけでもない小娘を見下ろしてそれに浸らなくても。羽衣子と同世代の女の子はだいたいハロルドに見下ろされるだろう。
それじゃあ意味がない、とハロルドは苦笑する。
「ウイコのことを抱きしめて眠れるのが嬉しいんだ。前は逆だったから」
「前って?」
貴方の知っている、『前』の私はいつの私なのか。いくら訊いても、ハロルドはそれをはぐらかす。
知ってるよ。と、羽衣子の首に顔を埋めたハロルドは嬉しそうに笑う。くすぐったくて身をよじっても、離れてくれる気配はない。
「ウイコの心臓の音が、時々大きくなっていること。知ってるよ。僕が触れた時、恥ずかしがって、女の子の顔になってる」
背中に回された腕が、ぎゅぅっと強く抱きしめてくる。言われている傍から慣れないことなので余裕がなくなって暴れてしまう。
「異性に免疫がないだけですから! この動揺は常識の範囲内ですから!」
「知ってる。僕じゃなくてもいいんだよね」
「人を尻軽みたいに言わないでください……っ!」
「兄上でもいいんだろうね。でもいいんだよ。ウイコが僕を意識してくれるだけで、今は満足だから」
好き。好きだよ。大好きだよ。
羽衣子に抱き付いたまま、ハロルドは壊れたように何度も呟く。
「僕が死ぬときは君に手を握ってほしいんだ。そしたら、僕は最高に幸せな気分で、眠りにつけるよ」
「そんなに長く、この世界に留まるつもりはないのですが……」
「僕はそんなに簡単にウイコを返すつもりはないよ」
「意地でも帰ります」
もとの世界の、もとの時間に返すことも可能。元の時間に帰れば、体もその時間にそうであった年齢に戻る。それをジョシュアに聞いてついつい長居してしまっているが、母が心配しないとはいえ自分の世界からこんなに離れているのはよくないことだろう。
学校に行っていない。いい加減にホームシックも重症化してきた。
「……カーティスさんと、仲直りできませんか?」
「できないよ」
数秒と開けず、ハロルドは答える。
「ハロルド王子は、悪い人ではないと、思います。……貴方は優しくて、ちょっとだけ寂しそう」
羽衣子といる時はきちんと笑っているのに、部屋に来る侍女や兵士など配下と話しているとき、目はガラス玉のようになる。何を考えているのかわからない目をしながら、口元で笑を作って、自分を隠したがる。
窓から時々見える彼もそう。誰と話していても作り物めいた笑顔を浮かべて、一人になったり、羽衣子と二人きりになるとようやく肩からふっと力を抜く。
彼が、気をはっていない時は猫背なことを、羽衣子より遥かに多くの時間を彼と過ごしたであろうこの城の人は知っているだろうか。
「カーティスさんはきっと、貴方の心に寄り添えるんじゃないですか? 兄弟なんだから」
そういうものだ。兄弟皆、普段は鈍いくせに、羽衣子が少しでも学校で嫌なことがあればすぐに気づく。落ち込んでいたらすぐに察して一生懸命、下手くそに励ましてくる。
理屈なんてなくて、兄弟だから、お互いを分かりあえることもある。
もちろんわからないことだってあって、ぶつかることもあるけれど、血縁なんてどうやっても切れないのだから他人との喧嘩よりすぐに諦めて自分の欠点も見直せる。
「そんなことをね、僕は求めていないんだ。昔から、ずっと。兄上は僕の邪魔をする。兄上さえいなければ、もっと、簡単に、僕の思い通りにいったんだ。仲直りなんて、死んでもごめんだよ」
兄弟のあり方なんてそれぞれだよ。ハロルドの言葉に、頭では理解できても心は納得できない。
「その上、ウイコまで兄上にとられるなんて冗談じゃないからね。……もう兄上の話はやめようか。明日は仕事を休むから、一緒に庭を見て回ろう。案内するよ。陛下への紹介は、まだしばらくできそうにないんだ。宰相のとこのクソ女が毎日毎日陛下に何やら文句を言いに行っているみたいでね」
できれば永遠に王様の前に出て行きたくない。まだ見ぬ美しい宰相の娘が頑張ってくれることを期待しながら、寂しそうな王子の頭を首からはなそうともがいているうちにその日は眠りについていた。




