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向き合って座ってから、ハロルドはまだ一言も話していない。
頬杖をつき、ただにこにこ笑ってこちらを見ているだけ。耐えかねてこちらから声をかけることにする。
「もう夜ですね」
「そうだね。星が出てきた」
そう言うハロルドは窓の外を見ずこちらをガン見しているので本当に星が出ているのを確認したのか怪しい。羽衣子は窓の外を見る。出てる。満月も。
「そろそろ帰らないと。カーティスさんたちも、心配してるだろうから」
多分。
してくれてたらいいなあ、という羽衣子の願望も混ざった発言。
「帰りたいってお願い以外なら叶えてあげるよ」
「帰りたいってお願い以外にお願いはないんです」
貧乏ゆすりをしていると、運ばれてきたお茶のカップがカタカタ揺れる。
「兄上は君のこと、いらないよ」
羽衣子の手を撫でながら、愉快そうに彼は微笑む。
「君がいなくても、兄上は困らない。君がいなくても兄上は立っていられる」
「そう……かも、しれないけど……」
何もできない。カーティスは羽衣子がいてもいなくても何も変わらない。だけど、カーティスの傍にいたい。それは羽衣子の意志で、願望だ。
どうして? どうしてそんなことを望んでいるのだろう。
それは多分、気付いたらいけない理由だ。答えに辿りついたらきっと寂しくなるから、考えるべきじゃない。
「僕は違う」
微笑みを消したハロルドに、まっすぐ見つめられる。
「僕は君がいないと、駄目になる。少し前までは、思い出だけで我慢しようとしていた。でも君が手の届くところにいるとわかって、それなのに、僕ではなくて兄上の隣にいるなんて、許せないんだよ。君だけは、兄上に渡さない。あの時、ウイコが約束したのは兄上じゃなくて僕だ」
君は知ってる?
今にも泣きそうな顔で、ハロルドは羽衣子の手の甲に唇を寄せる。
「君は、僕に会うために、この世界に来たんだよ」
***
ノックをすると、間の抜けた声が返って来た。これは入っていいという意味か、逆か。ドアの前で悶々としていると、ゆっくりと、半分だけ中から開かれ勇者が顔を出した。
「何か用?」
眠たそうに目を半分閉じた勇者は気だるそうにレダの顔を見て溜息をついた。
「こん、こんばんは」
「狐の真似でもしてんのか? こんな時間にどうしたって聞いてんだよ。眠い。常識なさすぎ」
あまりの乱暴な扱いにむっとする。
しかし、ここは我慢。彼の言う通り非があるのは夜分に訊ねた自分の方。
「お昼に打った頭は大事ありませんでしたか?」
「大事なくても疲れてんだから早く寝たいんだよ」
閉じられそうになった扉に足を挟んでくい止める。
舌打ちした勇者は連日の鍛錬の疲れから毎日死んだように眠っていると噂で聞いたが、彼の顔を見るに本当らしい。元の世界では運動不足だったらしいので、それも仕方がない。
「どうしてもご相談したいことがあります」
「あんたとまともに話したのなんて今日が初めてだろ。他に適任を探せ」
突っ込んだ足にぐっと力をこめ、ドアをこじ開ける。歯を食いしばって、きっと今、自分の顔は獣のようになっている。
ようやく全開になると勇者はレダを見て肩を落とした。
「本当に金持ちのお嬢さんか? どこのセールスマンだよ」
「大事なお話があるんです! どうか中に入れてください!」
「もう入ってんじゃねえか」
眠る支度万端の勇者は、早く帰れよと言いながらレダに椅子を勧める。対しベッドにあぐらをかいて座った勇者はレダに文句を言いながら時々首がこっくりこっくり折れている。
目をこすったり、自分で自分の頬を叩いたりしながらレダを急かす。
「私……、私っ! 貴方と結婚したくないんです!」
「俺だってしたくねえよ。突然すぎる失礼を言いに来たなら早く自分の部屋に戻れって」
「で、でも、お父様と国王陛下は、私と勇者様の婚約をお決めになって……」
父と共に王に呼び出され、何事かと思えば、勇者との婚約を決定したという内容だった。しかも、それを提案したのは父だという。
父から、一言も、何も事前に聞かされなかった。それが、寂しかったのも問題の一つだが、それよりこの勇者と結婚なんて想像もできない。
「私は勇者様のような態度ばかり大きい男性と結婚なんてしたくないのです」
「あんた慇懃無礼って言葉知ってるか? 可愛い顔して落ち込んでれば何でも許されると思うなよ」
「か、可愛いなんて……っ」
「一番言いたかったのはそこじゃねえよ」
枕を顔に投げつけられた。
足元にぼてっと落ちた枕を拾い、勇者に投げ返す。レダの行動を予測していたのか鍛錬の成果か、勇者は難なくそれを受け止め元の場所に戻す。
「女性に対してなんて野蛮なことをなさるのですか!?」
「野蛮なことをやり返した奴が言うな」
ぱたりと倒れ込んだ勇者は大きなあくびをする。
「婚約なんて知るかよ。無視しろ、無視。結婚する前に俺はもとの世界に帰るんだから関係ない話だ」
「で、す、か、ら! 婚約してしまったということは勇者様を元の世界に返さない口実ができてしまったのですよ!?」
「初めから俺を返すつもりなんてないだろ、あんたの親父も王様も」
ぎくりとする。
その通り。そしてレダもそれに気づいていた。だがまさか、勇者にもばれているとは。したり顔の勇者はおそらく、レダが気づいていたことも気づいていた。
「英雄を作ってもそれを飾っておけなきゃ意味ねえだろ。俺もそこまで馬鹿じゃない」
「でも、貴方は帰ると言っていらっしゃるわ」
「英雄の頼み事ならきいてくれる人間もいるだろ。この城の誰かに戻してもらわなくても。最悪、魔王の前についたら降伏して、下手に出て、魔王に返してもらえばいい」
魔王は傍若無人な悪ではない。人間にとっての悪が魔族で魔族にとっての悪が人間だから敵対しているだけ。そのため、理性のある魔王は勇者の言葉に耳を傾けるかもしれない。それをわかって勇者はそんなことを言うのか。
「魔王に、屈するというのですか? 人間を見捨てるのですか!?」
「冷静に考えろよ。戦って勝つことが必ずしも人間を救う事か?」
「だって、そうしなければ、人間に安息など訪れなくて……」
「って、親父に吹き込まれたんだろ、どうせ」
「お、お父様を悪者みたく言わないでください!」
寝返りをうち背中をむけた勇者は十秒もしないうちにいびきをかきはじめた。
「起きてください! お話はまだ終わっていません!」
「わっ! 馬鹿やめろ!」
ベッドの上に登って飛び跳ねれば揺れて、勇者も慌てて飛び起きる。
「私は! 婚約の話をしに! とにかく勇者様からも抗議してくださいっ!」
「俺は! 眠りたいって! 言ってんだろうがさっさと出てけ!!」
一晩中レダに騒がれ眠れなかった勇者は観念し徹夜で話し合い。そして明日はゆっくり休めと武術の指導者に休日をもらったことまでつきとめられ、王と宰相への抗議同行を強制的に同意させられたのだった。




