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ハロルド……。ハロルド……。
やはり、記憶にない。
外国人の知り合いはいないし、洋画で見た同じ名前の俳優は彼とまったく似ていない。彼が一方的に羽衣子を知っているとしても、おかしい。異世界の人だ。羽衣子をどこかで見るはずはない。
ここ数日、ずっと彼の言葉が頭をぐるぐる回っていた。『待ってた』『思い出さなくてもいい』『またね』以前からの知り合いに言うような、あるいはこの先も交流の続いていく相手に言うような言葉。
彼の言葉と、泣きそうな微笑みが頭から離れない。
頬をつつかれて我に返った。
「心ここにあらずだねえ」
へらりと笑ったアリステアは羽衣子の頬から指を離し、先をカーティスに向ける。
指につられてカーティスを見れば、ぶすっとして腕を組んでいた。
「すみません……」
魔王の城からもどって十日が過ぎた。アリステアは計画を立てるため定期的に小屋を訪れ、他の吸収した勢力の中心人物たちも入れ替わりでここへ訪れる。
カーティス王太子殿下が本格的に動き出したということを理解した彼の部下たちは皆、緊張を持って彼と向き合っている。
今日は羽衣子と兄の役目について、話し合われていた。
「お前の意見を聞くためにさいた時間だとわかっているのか? 集中できていないなら俺が勝手に決めることになるぞ」
まあまあ、殿下、とアリステアが手をふる。
「弟が囚われているのですから、冷静でもいられないのでしょう。ウイコさんも、あまり無理をしてはいけないよ」
「いえ、無理なんて……。ええと、私と兄も可能なら一緒にお城行く方向で進めたいんですよね」
勇者が宰相にでたらめを吹き込まれてその気になっていたら、レジスタンスの言葉など聞く耳を持たない。勇者を保護できない可能性が高い。
最悪勇者と戦うことにもなりかねない。
「私はそれでも大丈夫です」
「大丈夫じゃない。俺がいれば十分だろう。お前は留守番だ」
隣に座っていた兄が立ち上がってテーブルを叩いた。この場にいるのが他に、カーティスとジョシュアとアリステアだけなので誰もその音に反応しなかったが羽衣子だけは驚いて体をすくめた。
座ったまま兄とちらちら見て、首を横にふる。
「お兄ちゃんだって、お姉ちゃんに私が行くのをこれ以上どうこう言えないって言ったのに」
「行く必要がないなら行かなくていい。それにお前がいたら邪魔だ」
はっきりと邪魔と言われ、ぐっと歯を食いしばって気持ちを落ち着ける。
そんなことはわかっている。でも他の人にはっきり言われると、悔しい。言い返せるだけの言い訳が羽衣子にはないので何も言えないけれど。
「どうかな。女性の方がいざという時同情を誘うこともできるよ。もちろん、それが通用しない人間もいるが。それにケイだけを連れて行くよりも、ウイコさんがいれば勇者と勇者の家族が接触できる可能性が二倍になる」
兄を座らせながら淡々と言うアリステアを、兄は忌々しそうに睨む。
「君には悪いけどこちらも必死なんだ。たとえわずかでも成功する可能性を広げられるなら手段を選んでいる余裕はない。もちろん、ウイコさんのことは俺たち全員できちんと守るよ。それに、来るべきでないのは、本当は……」
アリステアがちらりとカーティスを見る。
わかっている。
大将が自ら敵陣に飛び込むなど聞いたこともないのに、元王太子はそれをしようとしている。
カーティスの意見では、カーティスの顔を見てこちら側に寝返る人間が少しはいるだろうという算段らしい。たとえばジョシュアの父や、アリステアの父、かつて宰相の粛清から逃れるために手を貸した貴族。開戦反対派はカーティスの顔を見るまで半信半疑であろうからと。
「お兄ちゃんだけ危ないところに行かないでよ」
テーブルを叩いた兄の手をぎゅっと握る。
「私もお兄ちゃんのこと、心配なんだよ」
生意気な弟のことも。
「……」
無言で羽衣子の頭を撫でた兄は何も言わなくても不満だというのが伝わってくる。
「俺も行った方がいいと思うなあ。だって可愛い姉ちゃんに説得されたら勇者様も即落ちでしょ!」
ここにいると認識している人間でこのテンションの人はいない。この声も。
羽衣子がドアをふり向くより先にカーティスが溜息をつく。
「何だ、オルフェ。お前にここの場所を教えた覚えはないぞ」
あどけなくて太陽のような笑顔をうかべながら入って来たオルフェはちっちっち、と人差し指を立てて振って見せる。
「俺は情報提供を生業にしてんだよ? 世の中の大抵のことは知ってんの」
羽衣子の椅子の横、床に直接座ったオルフェはごそごそと懐をあさり、折りたたんだ紙の束をテーブルに置いた。
全員に見えるようにそれを広げたカーティスは、小さく唸った。
描かれているのは通るべき道に印をつけた地図。
「俺は注文していない。金は払わんぞ」
「あんたのお仲間があ、あんたに届けろって。城で突破しやすい経路。先払いで金貰ってるから受け取ってくれないと困るんだよねえ」
膝をつつかれて、地図からオルフェに視線を移す。
「けど心配だなあ。ウイちゃんは色仕掛けなんてできそうにないし。俺が護衛してあげよっか? 普段は情報の扱い以外仕事は受け付けないけど、女の子の騎士になるのは無料でだって喜んでやっちゃうよ。結構強いんだよ、俺。魔族だから念力の特典付き」
可愛らしく首を傾げて、どう? とテーブルに顎を乗せたオルフェに、羽衣子が答える前にカーティスが拒否をする。
ついでにテーブルの下にしまっていた足でオルフェのことを蹴飛ばした。
「そいつに貸しを作るなよ、ウイコ。言っただろう、近づいたら妊娠するぞ。アリステアと違ってそいつは女につけこむのがうまいからな」
転がって羽衣子の足元に戻って来たオルフェはくすくす笑って言い返す。
「酷いなあ、カーティス様。こんな無垢な十五の少年にそんなこと言っちゃう? 自分がモテないからってひがまないでよ」
「十五……、ですか……」
身長や容姿、雰囲気、どれも言われれば十五に見えなくもないが、十五の少年が情報屋という危険な職業な上女性を妊娠させるだの言われるとは。世も末だ、とまじまじ観察する。十五でそこまでませていても、今時は珍しくないのか。いやでも、日本の法律的に十五でそれはよくない。
不純異性交遊、反対。彼氏がいない嫉妬からではなく。
「そいつは女なら誰でもいいからお前のような不細工も危ないぞ」
「それにしても……へえ。へえぇぇ……。カーティスさんってモテないんですね。人のことを不細工不細工言いますけど、カーティスさんはその顔でもモテないなんてよほど何かに問題があるんですね」
「馬鹿を言うな。ここ五年は女と遊べるような暇がなかっただけだ。城にいた頃は何人もの女を泣かせてきたな。お前には一生理解できない美形の苦悩に心を痛めたものだ」
「自分で自分を美形なんて言う男に傾く人ってそんなにいますかね。お城にいた頃……、ああ! 玉の輿を狙われてたんだ。可哀想な人」
「表へ出ろ不細工。女だろうとかまうものか」
手を引っ張られるので、やだやだやだー、としゃがんで踏ん張る。
まあまあ、とアリステアが間に入ってカーティスを落ち着けてくれた。
「いいかウイコ。ついて来るのは、それでいい。だが絶対に、俺か、ジョシュアと離れるな。他の連中はお前を守りながらの戦いでは負担が大きい」
ついでに、カーティスから離れなければ大将であるカーティスには腕に自身のある戦士が固まっている。安全性は一番高いという。
嫌そうな顔のジョシュアを見て、この人について行ったら即死だなと判断する。
「えー? ウイちゃんがお願いしてくれれば俺が守ってあげるって言ってんのに。お金いらねーよ? タダだよ?」
「その代わり体で払わせるんだろう。やめておけウイコ」
ははは、と空笑いして自分の体を見下ろす。こんな体に期待していただいて光栄。脱いでびっくりの下っ腹だ。
「そのウイちゃんって、ちょっとむずかゆいですね」
「そ? だって呼びにくいじゃん」
「一文字消しただけですけどね」
「ウイちゃんの姉貴はリーコって呼びやすいけど、ウイちゃんはのばせないじゃんよ」
お姉ちゃんはのばされるの嫌がるんですけどね、昔から。と、きちんと名前を呼ばない同級生の男子を殴っていた小学生の姉を思い出す。小学生には言いづらいんだから大目に見てやってもよかったんじゃ。ああ、けどあの男子は姉のことが好きでわざとちょっかいをかけていたのか。自業自得か。
「……あれ? お姉ちゃんの名前……」
「ほらねーっ。俺は大抵何でも知ってるでしょ。知りたいことがあれば何でも俺に聞いてね」
「何でも……」
ハロルドのことも?
何故、ハロルドと羽衣子はどこで会ったのか。どんな接点があるのか。羽衣子本人が知らないことでも?
「本当に、何でも?」
「そう、何でも。何? ウイちゃん、何か知りたいことでもあるの?」
何でも。
泣きそうに微笑んだ彼について、何もわからないことからくる罪悪感から抜け出すことができるのか。
「でもなー……。タダじゃねえ。情報提供は俺の大事な生業だし……。そうだ。キスしてくれたら何でも一つ教えてあげるよ」
「ウイコ、無視しろ」
カーティスの言う通り無視したい。けれどこのもやもやした気持ちを抱えたまま、カーティスについて城に乗り込めるか自信がない。
わかりました、と頷いて、晩のおかずの魚を流しの樽から一匹捕まえ、その唇をオルフェの唇にあてて戻した。
「それじゃあ、質問です」
「え? マジでこれで済まそうとしてるの?」
「男に二言は?」
「ないけどさ……。思ったより小賢しいね」
どうもありがとうとお辞儀をして、本題に入る。
「ハロルド王子は私と」
会ったことがありますか? と訊こうとして思いとどまる。できる質問は一つ。もらえる答えも一つ。ある、と言われても、ない、と言われても、それだけでこのモヤモヤは取り除けない。
なら、訊き方を変える必要がある。
「ハロルド王子と私は、どんな関係ですか?」
ハロルドの名前をこの場で出すのはいいことではない。けれど好奇心には勝てなかった。
オルフェがにやりと笑う。
「あーあ。残念。俺は大抵何でも知ってるけど、その質問は『大抵何でも』の中から外れちゃった。魚なんかのキスで終わらせようとすっからだよ」
「……」
魚のキスで不満だからそんなことを言うのでは、とじっと真顔で見続けていると、観念したのかオルフェは溜息をつく。
「そんな目で見るなよお。マジで知らないの。ハロルド様はウイちゃんのこと知ってるみたいだけど、ウイちゃんは知らないって、どういうことなのか俺が知りたいよ。あ、でも、俺が知っててウイちゃんが知らないこともあるよ」
どういうことなんだろうね? と首を傾げてオルフェが言う。
「ハロルド様の宝箱には、ウイちゃんに貰った物が入ってるらしいよ」




