プロローグ
お姉ちゃんの機嫌が悪い。彼氏と別れたらしい。
お兄ちゃんの機嫌が悪い。部活でスランプらしい。
弟の機嫌が悪い。理由は断固として教えてくれない。
家の中がそんな微妙な空気の時にお母さんの機嫌は抜群に良くて、別に何もない私は家の中がとにかく息苦しい。外に出かければいい話だけど、帰る場所は一つしかないし、仕事で帰りの遅いお母さんの代わりに夕飯の支度もしないといけない。
そして今日も台所に立つわけだけど、私一人の食事だったらコンビニのお弁当でもいいのに、家族のためにそうしているのだ。それを、
「またカレー? 手抜き……」
なんて言われるのは可笑しな話だ。
エプロンを脱ぎ捨てて床に叩きつけた。
「だったら英衣は食べなくていい!」
「何キレてんだよ、鬱陶しい」
「鬱陶しいのはそっちでしょ!」
頭をわーっとかきまわしてから鍋の蓋をぶん投げた。それまで私のことを小馬鹿にしたように笑っていた弟は素早くよけて蓋がぶつかった壁を呆然と眺めている。
「お姉ちゃんもお兄ちゃんも理由がわかってるからまだいいよ。仕方ないよ! それに私に八つ当たりしないし。でもあんたは何? 一昨日からそんな調子で。あんた今年でいくつ? 十六にもなって自分の気分で周りを振り回さないでよね!」
二階の部屋にいたお姉ちゃんとお兄ちゃんが何だどうしたと下りて来た。
「明日そんな態度だったら許さないから」
「お前に許してもらわなくても別にいい」
お玉を投げようとした私の手を掴んだお兄ちゃんはお姉ちゃんに顎で指示を出す。頷いたお姉ちゃんは英衣の頭に拳骨を落とした。
「お前が悪い」
お兄ちゃんが英衣をギロリと睨んだ。お姉ちゃんも深く頷く。
「お前、じゃないでしょ馬鹿。羽衣子ちゃんはあんたのお姉ちゃんでしょうが」
舌打ちをした英衣はお兄ちゃんのことを睨み返す。
「見てなかっただろ。俺が悪いって言うなら根拠はあるのかよ」
「お前と羽衣子が喧嘩してたら大抵いつもお前に非があるだろ。だいたい最近のお前の態度は俺から見ても酷い」
「それはお前らもだろ! 男にふられたくらいでブツブツ言ってる奴の方がよっぽど問題あるっつーの!」
頬に青筋を浮かべたお姉ちゃんは拳を振り上げてから何かを考えたようで手を下ろした。そして回し蹴りを英衣に繰り出す。
「姉と兄に向ってお前って言うなって言ってんだろうが。そして嘆くあたしに向かって慰めるどころか暴言を吐いたあんたは将来孤独死しろ」
無表情にそれを見ていたお兄ちゃんは私よりずっと高い位置にある頭を横に振って溜息をついた。
「今のも英衣が悪い。どんなにくだらないことでも姉貴には一大事だったんだぞ。傷に触れてやるな」
「ちょっと! くだらないって言った!? あんたに何がわかんのよこの脳筋! 部活のことしか興味のないあんたに人間同士の繋がりを日々大切にしてるあたしの苦労はわからないでしょ。だから彼女ができないのよ」
お兄ちゃんは本当はモテるんだよ、お姉ちゃん。同じ学校だから私は知ってる。お兄ちゃんの連絡先を訊いてくる人もいっぱいいる。顔は割と平凡だけど、いつも冷静で表情がなかなか変わらないところがクールで素敵、とか。眼鏡が普通じゃないレベルで似合うとか。髪をのばしたり染めないのが気取っていなくて逆にいい、とか。背も高いし。優しいし。
でもそんなことを知らないお姉ちゃんは怒涛の勢いでお兄ちゃんを罵倒する。
「この能面! 筋肉馬鹿! 体力馬鹿! しかも? 全精力注いできた部活も最近思うようにいってないらしいじゃない。可哀想な奴」
「それは今関係ないだろう。うまくいっていないのは事実だが改善できるよう努力している」
お兄ちゃんも顔のパーツは動いていないものの纏う雰囲気が暗くなってきた。
「こんな失礼な連中ほっといて、二人でご飯食べようねえ、羽衣子ちゃん。お、今日はカレーかなぁ?」
私の後ろにいたお兄ちゃんを押しのけて頬ずりしてきたお姉ちゃんの頭を撫でていると、お兄ちゃんがお姉ちゃんを押し返した。
「失礼なのは姉貴だろ。羽衣子、姉貴の食事なんて用意しなくていい」
「里衣子も景衣も、俺の悩みに比べれば些細なもんだろ、くだらねえ」
上二人の刺すような視線が英衣を攻撃した。
「呼び捨てにすんな。人に話せない時点であんたの方がくだらないでしょ。どうせエロサイト開こうとしてワンクリック詐欺にでもあったんでしょ。恋愛ってのはね、人生に大きく関わってくる大事なものなのよ。あたしにとってもね! わかる? わかんないでしょクソガキ」
「俺と姉貴の馬鹿みたいな悩みを一緒にするな」
「馬鹿みたいって何よ! 生まれてこの方、ラブバトル負けなしのあたしがふられたのよっ? 前代未聞の大事件よ!」
ラブバトルって何。お姉ちゃんにとっては恋愛は戦闘なの。そういう解釈でいいの。
お姉ちゃんは平均的な顔面偏差値の我が家で血のつながりが疑わしいくらい美人。背は低くても出るところは出ていて、ちょっとつっているけど大きな目も可愛い、流行には敏感。髪なんてもう少しで金髪になりそうな明るい茶色に染めても似合うし、長くてふわふわだから直毛の私は少し憧れる。
何事にも積極的なお姉ちゃんは狙った男を逃がさない。
けど、今回初めてふられたらしい。しかも彼氏はお姉ちゃんの友達と浮気していたらしい。泣き寝入りするお姉ちゃんじゃない。人脈を使ってその情報を彼氏と友達も一緒に通っている大学、それぞれのバイト先に拡散し、毎日大学に行く前にメイクで隈を作り、二人の周囲にも同情を誘ったり、なかなかえげつないことをしている。
それでもお姉ちゃんの機嫌はご覧のあり様。よほど屈辱だったのだろう。
男女関係のトラブルは大事件にも発展しかねないし、心を病む人だっているわけだからお姉ちゃんが強かでよかったと言えばよかった。
「しかも何が辛いって、あたしが失恋してる横でお母さんがイケメンの彼氏連れて来たのが一番辛い」
そう、兄弟ほぼ全員の機嫌が悪いにも関わらずお母さんだけが元気百パーセントの理由はそれ。英衣が生まれてすぐに事故で父が亡くなり、お母さんは女手一つで四人を育ててくれた。その、お母さんが先週、いつの間にできていたのか三つ上のイケメンを紹介してきて、再婚を考えているのだと言う。しかも弁護士。お金持ち。少し話しただけだけど優しそうな人で言うことなし。
大変おめでたいけど、お姉ちゃんは面白くない。もちろんお姉ちゃんも喜んでいるし賛成もしているけど、何もこのタイミングじゃなくても。さすがに私もそう思う。
「そう! それだよ! 英衣にも言ったけど。明日は皆、ちゃんとしてね? 明日だけでもいいから、愛想よくしてね?」
明日はお母さんの彼氏とその家族とのお食事会がある。そこでお相手には好印象を与えないと、お母さんの掴みかけた幸せが逃げかねない。
「俺明日行かないから」
眉間に皺を寄せた英衣は顔をそっぽへ向ける。天然パーマでクルクルの髪がふわふわ揺れている。
「何言ってんの? 駄目だよ」
「とにかく行かない」
「何でよ! 絶対駄目! 英衣一人の問題じゃないんだよ。誰のおかげで今まで生活してこれたと思ってんのいやそれどころか! 誰のおかげでこの世に生を受けられたの!」
「羽衣子ウザい。俺はあのおっさんとの再婚に反対だっつってんの」
「なんで!」
「なんでなんでうるせえ!」
「理由を述べてよ」
「ウゼェ!」
お姉ちゃんとお兄ちゃんが同時に舌打ちする。
「あんたね、女の子に対してなんて態度よ。そのうち羽衣子ちゃんがあんたの食事に毒もるわよ」
もらないよ。
「お前な、そんな態度だとそのうち羽衣子の用意する食事の量が五人分から四人分になるぞ」
それはあるかもしれない。
「あたしに暴言吐いてる景衣にだって羽衣子ちゃんのご飯食べる資格ないんだからね」
「俺がいつ暴言を吐いたって。姉貴が勝手に喚いてるだけだろ」
「景衣も英衣もほんっと、デリカシーないんだから最悪」
「俺と羽衣子の問題にお前らが入って来たくせにどうでもいいことばっか話してんなよ!」
「そもそもお前が羽衣子にちょっかいかけたのが発端だろう」
ぎゃーぎゃー三人でもみ合っているうちに重ねて置いてあったお皿に誰かがぶつかって次々に落ちて行った。お皿が割れる音で皆静かになったけど、もう遅い。割れたお皿は戻らない。
まだ着替えていない制服のセーターの裾を無意識に引っ張っていた。学校指定のセーターだから、伸びても替えがないのに。
お皿を黙って見つめる三人にふっつりと糸が切れた。
「もう! もうっ! 三人とも夕飯抜きっ!!」
泣きながらお皿の破片を拾っていたら、お兄ちゃんが私の背中をさすりながら手伝ってくれた。お姉ちゃんもしゃがんで謝りながら破片を拾う。英衣も小さい声でごめんと呟いてから箒を持ってきてくれた。仕方ないから夕飯抜きは取り消してあげよう。
「ねえ、うちにこんなおしゃれなキッチンマットあったっけ?」
破片を拾い終わってからふと、お姉ちゃんが床を指さした。
「え? うちにあるの、全部単色の無地だけど……」
床を見ると、確かになんだかおしゃれな模様がキッチンマットに、ていうか……。
「マットの外にもなんか広がってきてねえか?」
英衣の言う通り、雪の結晶みたいな模様というか、図形がキッチンマットからはみ出して、最終的に部屋全体に広がって青白く光り出した。
「何これ。羽衣子ちゃんがこういうライト買ってきたの? どんな仕組み?」
こういう商品ってこと? 天井から光が広がっているのかなと光の源を探すけれどどこにもない。
「知らない。こんな無駄遣いしない」
お兄ちゃんが少し眉間に皺を寄せた。
「おい、電気代勿体ないから早く消せ。英衣、お前だろ。こういうわけのわからない物をつい買いたくなる年頃だろ」
「違うわ! どんな年頃だよ! お前もつい二年前は俺と同い年だったろうが! そんな年頃なかっただろうが!」
ブゥオン、ブゥオン、と変な音まで鳴り始めた。うわ、うるさい。近所迷惑。
「もー! うる」
え……。
「お、お姉ちゃん?」
お姉ちゃんが、消えた。うるさい、って言いきる前に姿を消した。これには英衣も、さすがのお兄ちゃんも目を丸くさせて驚いている。
「どうなって」
今度はそう呟いたお兄ちゃんが目の前から一瞬で消えた。
「お、お姉ちゃんとお兄ちゃん、ど、どこ行っちゃったの? 怪奇現象? てことは、し、死ん……」
「縁起でもないこと言うな馬鹿! てて手品かなな何かだろ……。ったく、手の込んだあいつらのイタズラに決まってる」
「そ、そそそそうだよねえ?」
「そうそ」
床に頭を打ち付けて叫んだ。
「あんたも消えちゃってるじゃん!」
とうとうこの一分弱で私以外の皆が消えた。
「何が起きて……え。うわ、え。え。え」
一瞬にして周囲の景色が変わった。家の中にいたはずなのに。今私の周りはひたすらに青。そして時々白いモクモク。
背中に冷や汗が流れるのを感じながら、足元に目を向ける。
何もない。
いや、あることにはある。
ずっとずっと下の方に木々の生い茂る森。
私は生まれた時から人間なので、空中に立つこともできなければ空を飛ぶこともできない。わからないことだらけの今わかることは一つ。
「駄目……。駄目、駄目、駄目っ!」
落ちる。




