罵詈・悪口防止法
「罵詈・悪口防止法」
それは、誰かを罵倒・恫喝したり、悪口・誹謗・中傷の発言・吹聴を禁止する為の法律だ。その法案が可決されたのは、僕らが生まれるずっと前。かれこれ百二十年ほど前になると言う。
歴史の本によれば、当時の人々は言論の自由と言う法律の下、そんな法案が通るとは予想だにせず、実際にこの法案が通ってからも誰もが無茶苦茶な悪法だと言って、相手にしなかったのだと言う。
しかし、それらの言動に重い処罰が課せられるようになると、状況は一変したらしい。
人々は当初、罰則怖さにしぶしぶながら従っていたそうだが、次第にその状況に慣れていき、気が付けば現在のように常識として誰もが認知するに至ったそうだ。結果、この世から悪口や恫喝の類は姿を消し、人々は心が穏やかになり、争い事も滅多と起こらなくなったのだ。
我々現代人からすれば、全く当然の行為であるところの、人の心を傷つけない言葉選び。言葉の乱れは心の乱れ。至極当たり前の事を、我々のご先祖様は気付かずに過ごしてきた。
そんなご先祖様達に、言葉の選び方の重要さを気付かせてくれたのが、罵詈・悪口防止法なのだ。おかげで今現在の世界は百年前と比べ、争い事が殆ど無い、平和で秩序ある世の中が続いているのである。
けれど、何事にも全く問題が無いと言う訳にはいかないもので……この法律のおかげで、困った事態に陥った者がいるのも、また事実なのである。
――何を隠そう、僕もその一人なのだ。
その日も、朝から穏やかな時間が流れていた。
誰もが微笑みを絶やさない、素晴らしい出来事が待っているような一日だった。僕が勤める爽快銀行越谷支店も、そんな明るい笑顔で溢れていた。そう、三時少し前に、その男が銀行に来店するまでは。
「オイ! 俺は強盗だ! お前ら命が惜しかったら、この鞄に詰め込めるだけの金を入れろ!」
閉店間際の、シャッターが下り始めた頃合を見計らって、彼はやって来た。手には包丁を持ち、ニットの目出し帽をかぶった、見るからに銀行強盗の見本のような男だ。女性行員の絹を裂くような悲鳴が聞こえ、銀行内は騒然となる。僕はマニュアル通りに、机の裏にある緊急非常時用のボタンを押そうと、手を伸ばした。その時だった。
「オイッ! そこのアホ面のお前! 動くんじゃねぇ、じっとしてろ。でなきゃぶっ殺すぞ!!」
僕は瞬時に恐怖で固まり、動けなくなった。きっと他の行員達も、恐ろしさに動けなくなっているだろう。
僕達が恐怖におののく原因。それは、包丁を持った強盗犯への恐ろしさなんかじゃない。全く必要が無いと思われていても、万が一のため銀行窓口にはバリアシステムがあるし、いざとなれば、犯人を取り押さえる拘束銃だってある。扱い方も把握しているし、訓練も積んだ。それは全ての銀行員に、義務付けられている規則なのだ。更には、お客様は既に皆お帰りになられているので、人質も居ない。にも拘らず、僕らは誰一人身動きが取れないでいる。
その訳は――強盗犯の恫喝・悪口が恐ろしくてたまらないのだ。
聞きなれない口汚い言葉使いに、初めて聞く怒号。女性行員の中には耳を塞ぎ、震えながら泣いている子も見受けられる。僕はと言えば、生まれて初めて「そこのアホ面!」と言われ、ショックで膝がガクガクと震えている始末だ。
そんな中ふと見ると、支店長が上着をゆっくりと脱ぎながら、強盗犯にそっと歩み寄っているのが見えた。そうだ、話に聞いたことがある。支店長は大学生の頃、柔道部で日本一に輝いた実力を持っているんだとか。見た目にもがっちりしていて、まさに筋骨隆々といった感じは、流石に伊達じゃなかった。
僕の足の震えは、大きな期待感によって次第に収まり、幾分落ち着きを取り戻してきたようだ。
(がんばれ支店長! ファイト支店長!)
心の中で何度も繰り返し、エールを送った。他の行員達も、きっと同じ想いだったに違いない。
一瞬の隙を突いて、支店長は刃物に臆する事無く、強盗に掴みかかった。
「うわ、何だお前! 放せ!」
揉み合いになる二人。そんな時、支店長が強盗の目出し帽を咄嗟に掴み、引っ張った。すると、目出し帽がするりと脱げ、強盗犯は素顔を曝け出したのだ。その顔はなんとも……一度見たら忘れられないような、かなり個性的な顔だった。
「てめぇブッ殺されてぇか! お前みたいな筋肉バカは、刃物で刺すとすぐ致命傷になるんだぞ! こりゃ脅しじゃねぇぞ!」
そんな強盗の言葉に、支店長がたじろいだ。
「お、俺が筋肉……筋肉バカだって? ひ、酷い、酷いよ!」
途端、支店長は泣き崩れた。おそらく支店長も、生まれて初めて悪口を受けたのだろう。あんな酷い言葉を浴びせられたんだ。きっとあの人の心は、もうズタズタに違いない。
「フン! 俺はこの不細工顔のせいで社会になじめず、ずっと一人ぼっちで暮らしてきたんだ。お前らみたいな、幸せが当たり前と思っている奴には判るまいよ」
いよいよもって、望みは潰えた。強盗は鞄に改めて金を入れるように要求し、女性行員がお金を入れ始めるのを確認すると、一息つくかのように煙草を取り出し、火をつけた。煙草の煙を吐きながら、たまに怒号と恫喝を繰り返し、僕らの動きを恐怖で拘束する強盗犯。そんな中、僕はこの状況を打開する、ある事をひらめいた。だがそれには、協力者が必要だった。
果たして、この恐怖が支配する最中、協力者は勇気を持ち、事を成してくれるだろうか。
僕は隣で震えている小向さんに、小さな声で囁いた。
「小向さん、落ち着いて聞いて。実はやってもらいたい事があるんだ」
この支店で一番の美人の小向さんは、僕の声を耳にして、こちらを向いてくれた。
「な、何?」
彼女は怯えながら、絞り出すような声で、返事を返してくれた。
「僕に考えがあるんだ。小向さん、あの強盗犯に――」
小さな声で計画を告げ終えると、彼女はぶるんぶるんと頭を横に振った。
「だめよ、そんなのできっこないわ」
それでも僕は、彼女を勇気付け、協力を願った。
「お願いだ、君にしか出来ない事なんだ。勇気を出して」
暫くうつむいていた小向さんが、僕の目を見て小さく頷いた。僕はそんな彼女に小さく微笑んだ。
「わ、判ったわ。やってみる」
気丈にも、僕にそう言って微笑み返してくれた。どうやら彼女は、恐怖に打ち勝ってくれたようだ。そして何かを決心したかのように大きく頷くと、すっと立ち上がり、強盗犯へと声をかけた。
「あ、あの……強盗さん。す、少しいいかしら……?」
「あ、何だおめぇ? 動くな、座ってろ」
それでも彼女は、恐る恐る強盗へと歩み寄り、潤んだ眼差しでこう言った。
「実は……今まで黙ってたけど……わ、私、あなたの事が……ずっと、ずっと好きだったの!」
一瞬、銀行内の時間が止まったかのような錯覚を覚えた。
同僚達が、怯え震えていた女性行員が、そしてへたり込みべそをかいていた支店長も、皆が唖然とした顔になっていた。勿論、当の強盗犯も口をぽかんと開け、まるで凍り付いているようだった。口にした煙草はぽとりと落ち、手に持っていた包丁も、するりとその手を離れ、カキンと音を立て床に落ちた。
「よし、今だ!」
その音を合図のように、僕は緊急非常時用ボタンの側に隠してあった拘束銃を手にして、強盗犯めがけ発射した。銃口から放たれた光線は、見事強盗犯に命中し、その自由を奪ったのだった。
何が起こったのか全く理解できないでいる強盗は、拘束銃から放たれた光線リングに体を締め付けられたまま、未だにきょとんとした顔で小向さんを見ている。
「強盗を取り押さえたぞ! みんな、もう安心だ!」
その言葉に、緊張の糸が切れたのか、小向さんがへなへなとへたり込む。
「小向さん! 大丈夫かい小向さん? 君のおかげでもう危険は去ったよ。本当にありがとう」
「ふえぇぇぇこわかったよぉー!」
彼女は僕を見て、涙を零しながらも安堵の表情を見せてくれた。
数分後、押っ取り刀で警察がやってきた。
強盗犯は拘束銃により捕縛され、観念したのか床に座り込んでいる。良く見れば、捕まったと言うのに、なにやらニヤニヤと笑みを浮かべていた。その顔は、どこか幸せそうな、うっとりとした表情でもあった。
その後、僕は事の一部始終を、状況説明を求めてきた刑事さんに報告した。
「いや、お怪我が無くて何よりです。が、このような危ない真似は、もう二度となさらないで下さい」
叱られて当然だ。下手をすれば、小向さんを……いや、全員を危険な目に合わせるところだったのだから。でも、僕には自信があった。そう、強盗犯の動きを封じる、絶対的な自信が。
「ほう、それはどうしてです?」
興味を抱いたのか、刑事さんが聞いてきた。
「いやね、強盗犯があんな顔でしたでしょう? 絶対に生まれてこの方『好きでした』なんて言われた事が無いと思いましてね。案の定、初めて言われた言葉に、強盗は頭が真っ白になって、身動きがとれずに硬直してましたよ。ほんと、強盗犯があんなブサイク顔で助かりました」
僕は自信満々に、刑事さんにそう言った。
すると刑事さんは、時計を見て、僕にこう言った。
「三時四十一分、罵詈・悪口防止法違反の現行犯により、君の身柄を確保する」