84 精神世界の隠し撮り
——光の中にいた。
蒼い光じゃない。もっと温かい、金色の光。太陽みたいな。朝日みたいな。
体がない。足元も見えない。上も下もない。ただ、光の中を漂っている。
(ここ……どこ?)
死んだのか。また? 前世に続いて二回目? さすがに二度目の死は勘弁してほしい。
でも、痛みはなかった。温かくて、柔らかくて、どこかで嗅いだことのある匂いがする。
——朝ご飯の、匂い?
フレンチトーストの匂い。焼きたてのパンとバターの甘い香り。エリオットが毎朝作ってくれる、あの味の記憶。
(ああ、これ——エリオットの記憶だ)
§ § §
光の中で、景色が変わった。
暗い路地裏。雨が降っている。石畳の上に、痩せこけた子供が倒れていた。
——エリオット?
小さい。十歳くらいか。銀色の髪はぼさぼさで泥だらけ。服はぼろぼろ。腕には痣がある。殴られた痕だ。
(これが……スラムにいた頃のエリオット……)
子供の目は虚ろだった。雨に打たれながら、もう動こうとしない。諦めた子供の目。世界の全てに裏切られた子供の目。
胸が、締めつけられた。
——この子を助けたい。
反射的にそう思った。でもこれは記憶だ。過去の映像だ。手を伸ばしても届かない。
でも、わかった。
この路地裏に、いつか「未来の私」が来るのだと。この子を助けて、「あなたは世界で一番立派な魔法使いになるのよ」と励ますのだと。
四百年分の感情が、それを教えてくれた。
§ § §
景色が、また変わった。
宮廷。噴水のある庭園。陽だまりの中で、若い魔術師が本を読んでいる。
エリオットだ。宮廷魔術師になったばかりの頃。まだ少し若くて、でもあのポーカーフェイスはもう完成している。
その横を、金髪の少女が通り過ぎた。
——カレンシュ。前世の私。
十四歳くらい。まだ子供っぽい顔。でも、背筋だけはぴんと伸びている。公爵家の令嬢としての誇り。
少女が、エリオットの方を見た。
「ねえ、あなた。筆頭魔術師の方でしょ? 帳簿の計算、手伝ってくれない? 人手が足りないの」
——ただ、それだけ。
それだけの言葉で、この男の四百年は決まったのだ。
(そんなことで……)
でも、わかった。わかってしまった。
エリオットの感情が、今、私の中に流れ込んでいるから。
あの瞬間——「化け物」でも「道具」でもなく、ただの「人間」として声をかけてもらえた瞬間の、あの——
言葉にならない。
感謝とか、喜びとか、そんな軽い言葉じゃ全然足りない。
魂が震える、というのはこういうことなのだと、初めて理解した。
§ § §
記憶が加速した。
宮廷の日々。一緒に帳簿を読んだ夜。お茶を淹れた昼下がり。うどんを差し出した手の温もり。
逮捕の報。地下牢。拷問の手順書。世界が赤く染まった瞬間。
二日間の禁術解析。寝ずに、食べずに、寿命を削って。
処刑台。あの日の雨。鎖の音。群衆の罵声。
そして——光。
自分が撃った光の中で消えていくカレンシュの目。恨みの目。
(痛い——)
エリオットの痛みが、直接流れ込んでくる。四百年分の。
あの目を、四百年間、一秒も忘れられなかった男の痛みが。
§ § §
亜空間。
闇。虚無。何もない。三畳の暗い泡の中で、一人。
十年。二十年。五十年。百年。
声を忘れた。顔を忘れた。名前を忘れかけた。
でも——光だけは。あの輝きだけは。
走り続けた。闇の中を。
——見つけた。
光。温かい。眩しい。太陽みたいな。
(ここだ。ここにいた)
エリオットの感情が、津波のように押し寄せた。
安堵。歓喜。恐怖。希望。絶望から一転しての、圧倒的な——
——愛。
たった一言で表すなら、それしかなかった。
三百年分の、重すぎる、深すぎる、どうしようもない——愛。
§ § §
——その瞬間。
精神世界の金色の光の中に、白い円盤が現れた。
ウィィィィン。
る、んすけ?
(なんでここに!?)
でもるんすけはそんな疑問など関係なしに、感情の濁流——重すぎる不安と執着と、四百年分の孤独の澱——に向かって、ノズルを展開した。
ズゾゾゾゾゾゾ——ッ!!
吸ってる。心のゴミを、吸ってる。
毎日エリオットの魔力を至近距離で浴び続けた結果、このロボット掃除機は単なる家電を超えていた。物理的なゴミだけじゃなく、この六畳一間に溜まり続けた「重すぎる感情のゴミ」まで吸い取れるようになっていたらしい。
じわじわと、確実に、余剰が消えていく。
残ったのは純粋な部分だけ。愛の、一番底にある、澄んだやつ。
と、その時。
吸いすぎたのか、るんすけが少し傾いた。オーバーヒート寸前の警告音。そして——パン、と小さな光とともに、内部データが溢れ出した。
精神世界の金色の空間に、映像が投影された。
§ § §
——見覚えのある六畳一間。
私がいない。留守中の昼間か夜か、とにかく一人の部屋。
ソファに座ったエリオットが、虚空を見つめていた。
「奈々……」
誰もいないのに、呟いた。
次の瞬間ふらりと立ち上がり、寝室のドアに手をかけ——寸前で、止まった。
(それ以上はやめな!?)
止まった。よかった。でもしばらくドアの前で立ち尽くしている。何やってんだこの男は。
§ § §
映像が切り替わった。
キッチン。エリオットがフライパンを手に、真顔で中空に向かって話しかけている。
「今夜こそ完璧な夕食で……奈々を、笑顔に……」
エアーだし巻きをしながら。一人で。
(知ってた。知ってたけど、こうして改めて見るとすごいな……)
§ § §
映像が、また切り替わった。
リビング。ソファに座ったエリオットが、充電中のるんすけを見下ろしている。長い沈黙の後、口を開いた。
「……るんすけ」
るんすけは充電中なので、当然無言。
「奈々は——私のことを、どう思っていると思う」
無言。
「……そうか」
何の返事もないのに、エリオットが静かに頷いた。
最強の大魔法使いが、ロボット掃除機に恋愛相談をしていた。四百年分の孤独を経た末路がこれか。
笑いが、こみ上げてきた。
痛みも重さも全部そのままなのに——笑えてしまった。
この男のことが、愛おしくてたまらなくなった。
§ § §
光が、ゆっくりと薄れていった。
金色の世界が消えて、見えたのは——六畳一間の天井だった。
「……っ」
目を開けた。
体が重い。頭がぼうっとする。でも、意識はある。生きている。
上を向いている。床に寝ているのか。横を見ると、エリオットの顔があった。
すぐ近くに。
泣いていた。ポーカーフェイスのまま、声もなく。涙が頬を伝って、フローリングに落ちている。
「……奈々」
「うん。生きてる」
「……よかった」
その一言が、全てだった。
体を起こした。少しふらふらしたけど、立てた。意識も明瞭だ。
——潰れなかった。
限界OLのメンタルは、大魔法使いの三百年を受け止めきった。
でも、今はわかる。彼の全てが。記憶も、感情も、痛みも。
全部、私の中にある。
そして——温かい。
「成功した?」
「ああ。成功した。魂の婚姻契約は——完了した」
エリオットの蒼い目を見た。
奥に、金色の光が揺れている。私の魔力の色。彼の蒼に、私の金が混ざっている。
(つながった)
魂が。
二つの人生と、四百年の孤独を越えて——やっと。
ふと気づくと、部屋の隅でるんすけが——満腹気味にぷるぷると震えていた。タンクがパンパンだ。
「……ねえ」
「何だ」
「るんすけ、留守番中のあんたのデータ全部吸い込んでたんだけど」
エリオットの動きが、止まった。
「……」
「精神世界で投影されてたよ。全部」
「……全部」
「全部」
完璧なポーカーフェイスが、みるみる赤くなった。耳から火が出そうだ。
「るんすけに恋愛相談してたでしょ」
「……それは——その——あれは——」
「四百年分の大魔法使いが、ロボット掃除機に、恋愛相談」
エリオットが、膝から崩れ落ちた。
「るんすけぇぇぇ……ッ!!」
るんすけはぷるんと身を震わせた。何故か誇らしそうだ。
六畳一間に、笑い声が響いた。私の笑い声と、エリオットの「違うそうじゃない」という呻き声が混ざり合って。
「ねえ」
「何だ……」
「お腹空いた」
エリオットが、一瞬きょとんとした——そして、笑った。
あの不器用な、ぎこちない、でも確かな笑顔。
「朝食を作ろう。フレンチトースト——」
「今日は、二人で作ろ」
「……ああ」
台所に向かった。並んで。肩が触れて。
窓の外で、初夏の緑が眩しく揺れていた。




