70 光を追い続けた数百年
翌朝。
ソファの上で目が覚めた。首が痛い。背中も痛い。二十八歳の体にソファ泊はきつい。
隣を見ると、エリオットはもう起きていた。台所に立って、朝食を作っている。いつも通りの背中。
「……おはよう」
「おはよう。目が腫れているな。冷湿布を練成したから、洗面台に置いてある」
「ありがと……」
洗面台の鏡を見て、絶望した。ボクサーの試合後みたいな顔だ。冷湿布を当てながら歯を磨いた。
朝食はフレンチトーストだった。ふわふわで、甘くて、一口で幸せになる味。昨夜あんな重い話を聞いたのに、この男の作る飯は相変わらず暴力的に美味しい。
「仕事、行ける?」
「行く。主任になったばかりだし」
「無理はするな」
「あんたに言われたくない。数百年も一人で無理してた人に」
エリオットの箸が止まった。
「……それは」
「帰ったら、続き聞くから。逃げないでね」
「逃げない」
「よし」
§ § §
仕事中、集中できなかった。
書類を見ても、メールを打っても、頭の中にはエリオットの声が反響している。
——数百年。
——一つずつ。星の数よりも多い次元座標を、一つずつ。
——君の輝きだけを頼りに。
(あの男は、どんな顔であの空間にいたんだろう)
虚無。物質も時間も光もない場所。そこに数百年、たった一人で。
想像しようとして、できなかった。できるわけがない。二十八年生きてきて、一番長い孤独は……施設にいた頃の、夜。消灯後に布団の中で、誰にも声をかけてもらえないまま朝を待った夜。
あれですら、辛かった。泣いたこともある。消えたいと思ったこともある。
あれの——何倍だ? 数百年は。
……計算したくない。計算したら、あの人の前で泣き崩れる自信がある。
「如月さん?」
「は、はい!」
朝倉座長の声で我に返った。
「大丈夫ですか? 顔色が……」
「大丈夫です。昨日、ちょっと夜更かししただけで」
嘘ではない。嘘ではないけど、真実の百分の一も伝えていない。
§ § §
定時で上がった。主任なのに定時退社なんて、と思ったけど——今日は、帰らなきゃいけない理由がある。
六畳一間に戻ると、エリオットがいつもの位置に座っていた。ソファではなく、昨夜と同じ、テーブルの前。正座。
……この男、昨日の夜からずっとあの話の続きを待っていたんじゃないだろうか。
「ただいま」
「おかえり。夕食は用意してある」
「先に聞く」
「……いいのか? 食事の後でも——」
「先に聞く。聞いてから食べる」
私もテーブルの前に座った。正座。向かい合う。昨夜の続き。
「話して。亜空間のこと」
エリオットが、静かに目を閉じた。
そして、開いた。
「あの空間は——何もなかった」
§ § §
「何もない、という言葉の意味を、正確に伝えるのは難しい」
エリオットの声は、感情を排した平坦なものだった。昨夜と同じ。感情を切り離さなければ語れない話。
「光がない。音がない。温度がない。重力がない。地面もなければ、空もない。上下左右すら存在しない完全な虚無だ」
「……」
「私が結界で作り出したのは、自分の体を維持するための最低限の空間だけだ。三畳ほどの、何もない部屋。いや、部屋ですらない。闇の中に浮かぶ、小さな泡のようなもの」
三畳。この六畳一間の半分。
「そこに、一人で?」
「一人で。演算に必要な魔力以外は全て節約した。食事はない。睡眠もない。結界の維持に魔力を使い、残りの全てを量子演算脳に注ぎ込んだ」
「食事も……睡眠も?」
「不要だった。正確には、必要だったが、その余裕がなかった。食事を錬成する魔力があるなら、一つでも多くの座標を解析すべきだった。眠っている時間があるなら、一秒でも多く演算すべきだった」
淡々と。この男は、淡々と、狂気を語る。
「最初の十年は、まだ正気だった」
「最初の十年……」
「人間の精神は、完全な孤独に十年以上は耐えられない。私は人間ではないが——それでも、限界はあった」
エリオットの目が、微かに揺れた。
「二十年目に、声が聞こえなくなった。自分の声だ。声帯を使わなくなったから、喋り方を忘れた」
「……」
「五十年目に、自分の顔を忘れた。鏡がなかったから」
「……」
「百年目に、自分の名前を忘れかけた。でも——一つだけ、忘れなかったものがある」
「……何?」
「君の、魔力の波長」
私の心臓が、痛いほど締まった。
「あの輝き。初めて宮廷で君に出会った日に感じた、あの圧倒的な——太陽のような魔力の輝き。それだけは、絶対に忘れなかった。忘れるわけがなかった」
エリオットが、私を見た。
「あの輝きを探すためだけに、私は存在し続けた。名前も顔も声も忘れて、ただ一つの光の記憶だけを抱えて、数百年間——暗闇の中を走り続けた」
§ § §
私は、何も言えなかった。
言葉が見つからない。何を言っても、軽すぎる。薄すぎる。数百年の孤独に対して、二十八年しか生きていない限界OLの語彙では、何も届かない。
でも。
手を伸ばした。
テーブルの上で、エリオットの手を握った。
冷たかった。いつも通り、冷たかった。
でも今、この冷たさの意味がわかった。この手は——数百年の虚無の中で、誰にも触れてもらえなかった手だ。
握り返してきた。
静かに、でも確かに。壊れ物に触れるように。でも、二度と離さないように。
「続きは……明日でいいよ」
「いや。今日、全て——」
「明日」
私が遮った。
「あんたの話は全部聞く。でも、今日はここまで。あんたも、休んで」
エリオットが、口を開きかけて——やめた。
「……わかった」
「ご飯、食べよう。冷めちゃうでしょ」
「ああ」
手を離して、夕食のテーブルを整えた。
エリオットが作ったのは、鮭の塩焼きと、ほうれん草のおひたしと、わかめの味噌汁。完璧な和食だった。どこで覚えたんだ、この技術。
黙って食べた。いつもより、美味しかった。




