王子の微かな恐怖 ——「観客のいない舞台」
異様な静けさが、ホール全体に広がっていた。
群集は怒らない。
誰も拳を振り上げない。
罪の名を叫ぶこともなく、ただ座席に腰掛け、
舞台の上で一人芝居を続ける王子を眺めている。
その視線は、興味ではなく観察だった。
学園のどこかで行われている研究パネルと同じ——
「結果が出るまで静かに見守る」冷たい好奇心だ。
王子の喉が乾いた。
声帯ではなく、魔法補助薬の効果が切れかけているだけだと
頭のどこかが告げていたが、恐怖はそれを否定した。
王子(独白)
「なぜ誰も憤らない?
悪はここにいる。
私が指し示しているのだ。
——聞こえているはずだ。」
怒らぬ大衆は恐ろしい。
反発しない群衆は恐ろしい。
物語に必要な敵意が、世界から蒸発しつつある。
英雄譚の燃料は、もはや誰の心にも残っていない。
燃え上がる前に湿らせる魔法。
嫉妬を拡散前に分解する制度。
敗北の苦味を報奨とカウンセリングで洗い流す生活設計。
彼らは怒りを忘れたのではない。
怒りを“経験する必要”がない世界に置かれている。
胸の奥が震えた。
だがそれは憎悪の炎ではない。
焦燥の渦でもない。
感情を失いかけた身体が発する、微弱なエラーの痙攣だった。
膝に伝う震えを自覚した瞬間、
彼は悟る——
「私は今、恐れている。
だというのに……
恐怖の輪郭すら掴めない。」
かつて国境を越えて戦った英雄の伝承は、
剣の煌めき、血の匂い、怒号の中で人々を奮い立たせた。
彼はその残滓の上に立とうとした。
英雄は常に災厄を討つ。
ならば災厄を指名すればよい。
だが災厄は、彼の指先の先にいなかった。
会場にいるのは、日常に満足し、
ユーフェミアの制度に恩恵を受け、
その平穏を“当然の環境”として受け取る民。
災厄はどこにもいない。
悪役もいない。
英雄を必要とする舞台すら存在しない。
そして——
観客すら存在しなかった。
あるのはただ、出来の悪いイベントへの無関心。
生徒たちは視線を交わし、
教師陣はメモを閉じ、
魔導パネルの明かりだけがホールを照らす。
王子の演説はまだ続いている。
だがそれは、空席に向けて語られる独白に近かった。
英雄譚は始まらない。
炎は燃え上がらない。
世界は、彼の“物語”を必要としていなかった。




