王子の危機 ——「勝っても負けても破滅」
王子は深夜の自室で地図を広げていた。
手は剣を握るでも、戦略を走らせるでもない。
ただ、震えていた。
ユーフェミアを倒せば世界は救われる。
その信念が骨の芯まで染みていたはずだった。
だが今は、逆向きの矢が脳髄を刺す。
——ユーフェミアを倒すとは、痛みを社会に戻すことだ。
民衆は彼女に依存していない。
狂信でもない。
ただ、彼女が導入した「安定」へ自然に適応しただけだ。
欠席率の低下、暴力の沈静、成績特性の均質化。
それらは誰の功績でもない。
数字が示す幸福、という硬い事実である。
「反努力の魔女ユーフェミアを討ち倒した英雄」
彼はそう名乗るだろう。
だが、その翌日にはこう続くはずだ。
疲労、嫉妬、自己嫌悪、絶望が市場に帰還しました。
勝利をありがとう。あなたこそ“痛みの召喚者”。
民衆はそんな言葉を口にしない。
彼らはただ王子を避ける。
視線を逸らす。
ユーフェミアの保護圏に戻っていく。
——それは英雄ではない。
悪魔への変換だ。
「……倒さなければ?」
王子は呟いた。
剣先が絨毯を押し、布地を傷つけもしない。
倒さない未来は穏やかだ。
ユーフェミアが安定を拡張し続ける未来。
痛みは減衰し、恐怖は沈み、戦う必要性は気体のように消える。
その世界に、英雄という概念は存在しない。
英雄は対立の副産物だ。
毒に対する解毒、闇に対する光。
反作用がなければ、ただの「人間の体力自慢」にすぎない。
戦う理由のない世界で剣を振るう者は何になるか。
狂人。
暴力の中毒者。
反社会的存在。
王子は理解した。
勝っても破滅。
負けても破滅。
英雄計画は敗北の形すら持てなかった。
成立条件が消滅しているのだ。
鏡の中の自分は滑稽だった。
剣を抱えた若者。
だがその刃は、誰にも必要とされていない。
英雄を志す者は、痛みという“原料”を必要とする。
だがユーフェミアは原料市場そのものを破壊した。
失恋は即時回復。
挫折は翌日には消え去る。
敗北は統計的なノイズとして修正される。
衝突と人格形成のすべてが“治療対象”。
王子は震える声で吐き捨てた。
「……俺の生き方が、治療されている。」
努力の痕跡は症状。
雄志の発露はストレス反応。
英雄性は異常値。
ユーフェミアは誰も脅さない。
ただ世界を痛みのない最適解へ導くだけだ。
その優しさが、王子の魂をなぶる刃になる。
倒せば悪魔。
倒さずとも無に帰す。
王子は初めて、剣を鞘に戻せなかった。
それを納めれば、自分という存在まで封印される気がした。
痛みを必要とする者は、もはや世界のバグである。
英雄の心臓は、**“不具合”**として切り捨てられる。
そして彼は悟る。
英雄の終焉は敗北によらない。
救済の完成によって起こる。
今、ユーフェミアの社会は完成しつつある。
王子は——
まだ存在していること自体が、時代錯誤だった。




