1:新任務、地下、貴族、そして契約。お嬢様スパイは今日も嘘つきたちと踊る
「リンドホルムの貸金庫の件を聞きたいって? 俺が“アレ”をやったって話は……まぁ、信じるかどうかはあんた次第だ」
俺の名前はベック。泥棒だ。しかもプロの。
契約破りはしないし、殺しはもっとしない。その代わり、俺の指先が触れたものは、気づかれないまま消える。魔術じゃない、芸術だ。
で、問題の銀行。王都の某プライベートバンク。騎士団の名家が代々使ってる保管庫で、まさに“裏帳簿の王座”ってわけだ。
俺とヴェスパ(幻惑魔女兼同伴者)は、上客夫婦を装って応接室へ。魔術認証? 幻覚で一発さ。金庫番のおじさんには催眠香の仕込み付き茶で深い眠りについてもらい、あとはバッジで解錠。
狙いは、アドラ・エターナ——王家の落胤が遺したダイヤさ。七角形で、反射面に“家系図”が彫られてるって代物。
持ち出し? そんなの簡単だ。
だって俺、“契約印章の転写”においては王立大学で講義できるレベルだからな。
……奴らが気づくのに3週間かかったさ。
その頃には、石は3回転売されて、俺はバカンス中だった。
俺は黒葡萄酒を開けた。ヴェスパのやつは“盗んだものの味がする”とかぬかしてたが、俺には成功の味しかしなかったね。
数か月後、俺はシルバータンクって酒場で自慢話の真っ最中だった。
そしたら来たんだよ、あの“エレナ・オルロフ”って名乗る貴族崩れが。
シルバータンク。
騎士上がりの酔っ払いと、傭兵崩れの煙草が混ざり合う、王都の片隅でいちばん義理と金にうるさい酒場だ。
そんな夜更け、店のドアがゆっくりと開いた瞬間、空気が変わった。
——上流階級の香水と冷えた金属音が、煙の中に滑り込んできた。
黒のロングコートに、銀糸の飾り。
くるぶしまである上質なドレスの裾が、泥と埃の床を全く気にせずに踏みしめる。
真珠のような肌と灰銀の瞳、物静かな従者(というより“歩く棺桶”みたいな女中型アンドロイド)を連れて。
「ベック・カンパネルラ様でしょうか? お探ししましたわ」
貴族口調。
しかもこっちはグラスを半分傾けたところだ。ふざけんな。
「なんだい嬢ちゃん、間違って魔法省でも来たつもりか? ここは酒と火薬の臭いしか売ってねえぞ」
店主がカウンターの奥から唸るように声をかける。
「ご心配なく。間違いではありませんわ」
彼女はそう言って、柔らかな笑顔を浮かべた。
けどな、その笑顔には“刃物の柄”みたいな冷たさがあった。
「……で、用件は?」
「お願いがありますの。父の遺した“家宝”を、王立商業銀行の貸金庫から取り戻したいのです」
「ふーん、相続争いか」
「お恥ずかしい話ですが。私は命に代えてもあれを取り戻さなければいけません。それが父の遺言ですから」
「よくある話だな。遺産は親の数だけ、地獄の階段ってな」
「地獄など参りませんわ。私は地上で充分に戦いますもの」
俺は彼女の“見ていない目”に気づいた。目はこっちを向いてるが、まるで頭の中で別の戦場を見ているような——そんな感覚。
「依頼料は30%。必要経費は差し引いてもかまいませんわ。期間は72時間。“開けさえすれば”、中身には手を触れません」
「貸金庫の中身に興味がない? あんた、本当に貴族か?」
「ええ、ですからこうして——」
彼女はわずかに腰を折って頭を下げた。
「あなたのような下賎な輩にも、こうして頭を下げておりますの」
その一言で、酒場中の空気が止まった。
グラスの音も、椅子の軋みも、まるで凍りついたみたいに。
でも俺は笑った。
こういう女は、嫌いじゃない。
「おもしれぇ。じゃあちょっと手合わせでもして、信頼ってやつを——」
言い終わる前に、世界が“滑った”。
足元がずるっと動いて、気づけば背中が椅子に押し込まれていた。
「あっ?」
俺の腕はいつの間にかテーブルに固定され、反対の手はグラスの中に沈んでいる。
何が起きたのか、マジでわからなかった。
……女中が俺に何かした? 違う。誰も動いてない。
でも、俺は明らかに“負けていた”。
「ご納得いただけましたかしら?」
エレナ・オルロフと名乗るその嬢ちゃんは、にこりと微笑んだ。
俺の心臓は、今さらながらにバクバクしていた。
「作戦計画、契約書、偽造文書、必要人材の選定リスト。すべて用意しておりますわ」
彼女の後ろから、その女中――イヴと言うらしい――が無言で差し出した端末が、それを裏付けた。
「……いつから準備してた?」
「あなたがアドラ・エターナを盗んだあの晩から。とても鮮やかな手口でしたわね。とても、参考になりました」
「監視してたのか?」
「いえ、記録に残っていただけですわ。人の動きって、記憶より正確なものでしてよ」
……なんだこの女。
ただの貴族崩れじゃない。
何かが“重なってる”。演技? 演算? それとも記憶の怪物か?
でもまあ——
「貸金庫を開けるだけ、ね」
「そうですわ。開けるだけ」
その言葉が後になって「全部ウソだった」とわかるのに、俺はまだ数日かかる。
だがその夜の俺は、満面の笑みで手を取っていた。
「契約だ、お嬢様。地獄の階段、いっしょに下りましょうや」