9:世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
閃光。
管制室の結晶盤が砕け散り、〈R.A.I.N.B.O.W.〉の光輪が軋んだ。
次の瞬間、船体全体が震え、装甲に亀裂が走る。外殻を突き抜けた爆裂が真空を呼び込み、巨大な口を開けたようにソラリス号に穴が穿たれた。
空気が引き剥がされ、血のように赤い警告灯が回転する。
轟音ではなく、虚無の叫び――気圧の崩壊が暴風となり、すべてを呑み込んでいった。
「アラヤ!」
ナユタの声が風に掻き消える。モーリスの弾丸がアラヤに迫ったその瞬間、ナユタの体が盾のように割り込んだ。
肉が裂ける音がした。赤が舞う。
「ナユタ……!」
重力の制御でようやく踏みとどまるナユタの瞳は、淡い光を残していた。
「……ごめん、今度は、私が守る番」
アラヤの指が震える。
ボロボロの体を支えながら、彼女は歯を食いしばり、最後の力で時間を加速させた。
世界が粘性を持ち、すべてが遅くなる。
銃口の炎も、破片の飛沫も、暴風さえも。
アラヤの反撃は、一撃だった。
弾丸が弧を描き、モーリスの宇宙服を裂く。
彼の体は吹き荒れる虚空に引きずられ、ナユタと共に船外へ弾き飛ばされた。
虚無。
モーリスは足に絡みついたナユタを振り払おうと、必死に蹴りつけた。
「離せ模造品! こんな時に余計なことを…」
ナユタの唇がわずかに弧を描いた。
「それでも……私はアラヤの“友達”よ」
その笑顔と共に、彼女は最後の力で重力を解放した。
重力線が伸び、モーリスの体を絡め取り、二人の軌道を狂わせる。
「やめろ――!」
モーリスの叫びは、宇宙に吸われ消えた。
二つの影は連結したまま、地球の重力圏を振り切り、加速していく。
星の光の彼方、虚空の海へ。
誰も戻れぬ深淵へと、モーリスとナユタは飲み込まれていった。
アラヤは吹き荒れる風に耐え、砕けた窓枠に掴まりながら、その光景を見届けた。
頬を流れるのは血か涙か。彼女にはもう区別がつかなかった。
ソラリス号は軋みながら、地球を見下ろしていた。
船体の亀裂からは真空が漏れ、破片が流星のように尾を引きながら散ってゆく。
緑と青の球体の上に、漆黒の軌跡が何本も走っていた――燃え尽きた大陸、崩壊した都市。
「……アラヤ、生きてる?」
ラーダの声が、揺れる通信越しに届いた。
「なんとか」
「いいニュースと悪いニュース、どっちから聞きたい?」
「悪いニュースから」
「ソラリス号の高度が落ちてる。推進系が死んだ。あと数十分で大気圏に飲まれる。燃え尽きて終わりよ」
「いいニュースは?」
「シビルを確保したわ。制御端子から切り離した。いつでも使える」
アラヤは血に濡れた掌でシビルの小さな手を握った。
その感触は生温かく、しかし何よりも現実的だった。
「ありがとう、ラーダ。ここまで一緒に来てくれて……本当に」
「まだ終わってないでしょ?」
ラーダの声音には、皮肉と誇りが同居していた。
アラヤはゆっくりと立ち上がった。
重力の束縛を超え、時間を逆巻かせてきた身体は、もはや限界に近かった。
だが――やるべきことは明確だった。
管制室中央に鎮座する〈R.A.I.N.B.O.W.〉の結晶環が、まだ虹色に脈動している。
その周囲に、空間そのものが螺旋を描いて歪んでいた。
アラヤはシビルをその中心に立たせた。
「シビル。あなたの記憶で世界を照らして。私の時間で、それを繋ぐ」
金髪の幼女は瞬きし、無言で頷いた。
瞳から光が零れ、純粋記憶の奔流が装置に注ぎ込まれる。
アラヤは全身に走る痛みに逆らい、掌を結晶へ重ねた。
時間の座標が解きほぐされる。過去も未来も、存在しなかった可能性さえ、すべてが“観測”の前に並び立つ。
「――重力の虹」
その言葉と共に、ソラリス号の外殻が崩壊を始めた。
外壁は剥がれ、断片は地球の周回軌道をなぞりながら、燃え落ちる光跡となる。
だがその破壊の螺旋は、ただの死ではなかった。
分解しながら周回する船体が描く軌跡は、七色の弧となり、地球を包み込んでいった。
それは時間を逆行させるのではなく、世界そのものを“もう一度観測する”ための虹。
失われた声も、潰えた街も、焼かれた記録さえ――再び測定され、意味を取り戻していく。
観測のやり直し。それはゼロの地点からの再出発。
アラヤは崩れゆく床の上で、最後の力を込めた。
「モーリス……あなたの言った物語は、もう選ばれない。
世界は、誰かの編集で塗り替えるものじゃない。
生きた者が、それぞれの記録を手に持ち、もう一度見直すものよ」
ソラリス号は螺旋を描きながら、虹となって消えていった。
その光が、虚空と大地を等しく照らし出していた。
「ABCニュース、ナンシー・ペロンがお伝えします。ニカラグアの反政府組織コントラへの武器援助を巡り、レーガン大統領は――」
砂混じりのラジオの声が、潮風に揺られていた。
アメリカ合衆国、ニューヨーク市。リバティ島。
自由の女神の足元は、観光客のざわめきとカモメの鳴き声に満たされている。だがその喧噪の中に、アラヤとラーダはただ二人、立ち尽くしていた。
アラヤはもう少女ではなかった。長い時を経た眼差しは鋭く、しかし疲労を含み、背筋には「生き延びてきた者」の重さがあった。
隣に立つラーダは人の姿をとり、コートの襟を立てて煙草を弄んでいた。かつて機械仕掛けだった彼女は、今は血と肉の温度を纏っている。
「……再び最初の任務ね」
ラーダが軽く笑った。声にはかつての皮肉めいた調子が残っていたが、どこか柔らかさが混じっていた。
「ターゲットは東ドイツの亡命者、シュレイバー博士。CIAは彼を守ろうとしているけど、別の手も動いてる」
アラヤは低く告げ、風に舞う髪を抑えた。
ラーダはしばし黙り、遠くに見える摩天楼の影を見やった。
「ねえ、アラヤ。今回は――どんなエンディングにする?」
問いは何気なく発せられたようで、しかし確実に胸の奥を突くものだった。
アラヤは視線を上げた。灰色の空の下、ロウアー・マンハッタンの摩天楼群。その中心に、2本の塔が静かに立っていた。
鋼鉄の直方体が天を突き刺し、陽を反射して鈍く輝く。その2本の塔はワールド・トレード・センターと呼ばれていた。
「エンディング?」
アラヤは短く笑った。
「まだ何も終わってないわ。」
その声は風に溶け、自由の女神の松明を過ぎて、ツインタワーの方角へと流れていった。




