8:i do/ Re do
ソラリス号の通路は、白亜の廊下の奥に仕掛けられた罠で軋んでいた。
床板が消失し、虚空が口を開く。アラヤとナユタは重力を操り、ラーダは身体を変形させ翼を広げることで辛うじて突破する。だが進むごとに新しい障害が現れ、船そのものが彼らを拒んでいるかのようだった。
その最中、背後から聞こえる声が罠を凌駕した。
「――“モーリス”という名は、孤児院の院長がくれたものだ」
赤い宇宙服の男が、光の反射に揺れながら廊下の影に立っていた。
その声には怒りも誇りもなかった。ただ淡々とした回顧に過ぎなかった。
「周りの子どもたちは、みな魔力を持っていた。魔術師として軍に引き取られ、あるいは魔女として都市に祭り上げられる。だが、私は……何も持たなかった。ただの人間だ。世界は、何一つ私に与えてはくれなかった」
アラヤは黙ってその声を聞いていた。
ナユタは眉を曇らせ、ラーダはあえて目を逸らす。
モーリスの言葉は続いた。
「だから私は信じた。“世界は何ももたらさない”と。だがある日、私はそれを裏づけるものに出会った――“純粋記憶装置”。断片から世界の真実を覗き見た。戦争は繰り返しであり、勝者の名すら記録の都合で塗り替えられる。私はそこから冷戦の影に潜り、スパイ、傭兵、シークレットサービス……人間であることだけを武器にして生き延びた」
モーリスの語り口は、まるで自分自身を外科手術するかのような冷静さに満ちていた。
「やがて“アラヤ”と出会った。――君ではない。“二十四番”だ」
アラヤは瞼を伏せた。スターリンの記憶が、言葉の意味を背後から照らし出していた。
「私と二十四番は世界統制官に対抗するため、“世界を売った者たち”を組織した。偽情報を武器に、記録を切り裂き、権力を反転させるネットワーク。だが――二十四番は姿を消した。私はその消息を追い、残された模倣体を活性化させた。ナユタ・ザ・グラビティ――君は“海”が人類を生んだのと同じ原理で造られた、現実ベクトル演算子だ」
ナユタは硬直した。自らの胸に突き刺さる事実の重さに、足が止まった。
「すべては計画通りだった。君と出会うことも、君が私と世界を破壊することも」
モーリスの声は鉄のように冷たかった。
「なぜ拒む?君も世界から何も与えられなかったではないか。損なわれ、搾取され、ただ利用されただけだ」
アラヤは拳銃を握ったまま、静かに答えた。
「確かに、そうかもしれない。私は生まれた時から“誰か”ではなかった。記録に載らず、歴史に刻まれず、ただ流される存在だった」
言葉が次第に重くなる。だがその奥に灯があった。
「けれど、私は――ようやく自分の人生を持つことができた。嘘だらけの中で、ようやく“私の記録”を作ることができた。貴方の望む“破壊”は、今の私を無に返すことにしかならない。昔と今は違う。それを記憶できるようになった以上、その軌跡を消すことはできない」
モーリスの口元が僅かに歪んだ。笑みとも、絶望ともつかぬ表情。
「……君は強情だ。だが、その記憶さえも、いつか“上書き”される」
アラヤは一歩踏み出した。
「ならば私は戦うわ。記録がどう変わろうとも、私は“今の自分”を否定しない」
廊下に漂う重力が乱れた。モーリスの影が揺れ、周囲の空間が歪んでゆく。
ソラリス号中央管制室。
無数の白い光柱が立ち上がり、床も天井も消失して、空間そのものが演算の渦と化していた。
その中心に、巨大な装置――七色の弧を描く環状の結晶構造体が浮かんでいる。
〈R.A.I.N.B.O.W.〉。
Reconstructive Artificial Intelligence for Narrative Balance of Worlds
――世界の「物語」を再編するために旧人類が残した最終装置。
この装置が稼働すれば、記録された幾千の世界史の中から「唯一の正史」を選び取り、それ以外を削除することができる。
「見ろ」
モーリスが叫んだ。赤い宇宙服に包まれた手が、制御盤の結晶に触れる。
「どの物語を残すか――選ぶ権利がここにある! 勝者の歴史か、敗者の記録か。真実か、虚構か。すべて私の指で編集できる!」
アラヤは銃を構えたまま、静かに言葉を返す。
「……それは歴史じゃない。ただの“削除”よ」
「違う!」モーリスの声が弾ける。
「これは救済だ! 無数の敗北と惨劇を、存在しなかったことにできる。人類の痛みを最初から取り除くことができるんだ!」
ナユタが一歩踏み出した。重力の波が床を歪ませる。
「でも、それじゃあ“今”を生きてきた人間を殺すのと同じ」
「君も外を見ただろう? 既に“今”を生きてきた人間は生き残っていない」
モーリスが皮肉そうに返したその瞬間、背後の光柱が揺らぎ、管制室全体が一斉に警告音を発した。
ラーダの声が響く。
「――権限奪取完了。悪いけど、その編集権はもう私のものよ」
モーリスの端末が赤から黒に切り替わり、アクセス不能の表示が踊る。
ラーダの顔がホログラムに浮かび、皮肉げに笑った。
「お前の世界編集ごっこはここまで。今の管理者は“万能文化女中”様よ。残念だったわね」
モーリスの顔に怒りと絶望が交錯する。
だが次の瞬間、彼は静かに後方へ手を伸ばした。
そこにいたのは――金髪の幼女。純粋記憶装置、シビル・カーペンター。
彼女の小さな体に制御端子が幾重にも突き刺さり、ソラリス号そのものの記憶を宿していた。
「……やはり力で奪うしかないか」
モーリスはシビルの首筋に短剣を突きつけた。
「この装置の心臓はこいつだ。撃てば、すべての記録は断絶する」
アラヤの喉が強く鳴った。
銃口は動かない。撃てばシビルが死ぬ。撃たなければ、モーリスが記録を掌握する。
「どうする、アラヤ」
モーリスの声は低く、だが確信に満ちていた。
「君の言う“今を生きる自分”も、こいつがいなければ存在できない。ならば撃ってみろ。記録を守るために、記憶を殺せるのか?」
アラヤは答えなかった。
だが目の奥には、燃えるような光が宿っていた。




