7:時間と重力のマリアージュです
白い部屋の中央で、空気がきしんだ。
ナユタの周囲に不可視の渦が生じ、床板が悲鳴を上げるように沈み込む。重力が集中し、世界そのものが折り畳まれていく。
アラヤは時間を切り裂く。
視界の輪郭が粘つき、秒針の進みが鈍る。音が遅れ、光がたゆたい、粒子が後退する。
その中をアラヤは駆けた。しかし、彼女の腕が届くよりも速く、重力の網が広がる。床が傾き、壁が崩れ、天井が引き裂かれる。
「――やはり、あなたは邪魔」
ナユタの声は震えていなかった。ただ、命令に従う機械の冷たさを持っていた。
アラヤの肺が押し潰される。重力の刃が骨を軋ませ、血管をねじ切ろうとする。
時間操作は限界に近づき、加速した感覚の中でも、逃げ道が閉じていくのが分かった。
あと一歩――。
そのとき、背後で影が動いた。
ラーダ。彼女は音もなくナユタの背後に立ち、掌に埋め込まれた媒体を閃かせた。
「返すよ――あんたの、大事なものを」
次の瞬間、衝撃ではなく記憶が撃ち込まれた。
無数の断片――砂の街で笑い合った声。機械の屋根に座り、空を見上げた横顔。塩の匂い、汗のにじむ額、無意味な冗談に崩れ落ちる笑い。
ナユタの眼が揺れる。
重力の奔流が一瞬だけ崩れ、収束する。
「……アラヤ?」
それは疑問ではなく、長い眠りから呼び戻された名の呼び方だった。
アラヤは咳き込みながらも立ち上がった。
「そうよ。私はここにいる。あなたの――友達として」
ナユタの掌が震えた。支配の鎖がほどけるように、彼女を縛っていた力が消えていく。瞳に宿った濁りが晴れ、光が戻る。
「モーリス……私は……違う。私は彼の駒じゃない」
アラヤは頷いた。
「だったら一緒に戦える。あなたが、あなた自身として」
ナユタは拳を握り、顔を上げた。
その眼差しは、もはや敵のものではなかった。
二人は並び立った。白い宮殿の中、虚無の宇宙を背に。
そこにいるのは、もはや孤立した指導者や操られた傀儡ではなかった。
「友」として、同じ物語の続きを選び取った者たちだった。
空は、無数の白い尾で覆われていた。
弾道ミサイル群――大気を焼き、地平を貫き、惑星の皮膚を引き裂く矢の雨。
地上にはもう秩序も祈りもなく、ただ炎の都市と影の列が横たわるばかりだった。
「ごめん……アラヤ」
ナユタの声は震えていた。
だがその震えを押し殺すように、アラヤは短く応えた。
「話は後。とにかくモーリスを止めるわ」
「アラヤ、外がヤバい」
ラーダの声が無線を震わせる。
「物凄い数の弾道ミサイルが飛んでる」
「止めるわ」アラヤは言い切った。「ナユタと私ならきっとできる」
「本当に?」
「やるしかない」
「ラーダ、弾道分析を」
「ハイハイ。命懸けのオペレーションってやつね」
世界の時間が歪んだ。
アラヤとナユタは視線を交わすこともなく動く。二人の力が重なったとき、座標は縦横だけでなく“時間”に対しても自在に捻じ曲げられた。
一発目。
ミサイルの時間が停止する。火焔の尾は凍りつき、音もなく宙に釘付けにされる。
二発目。
弾頭内部に潜む核物質。その質量分布が傾く。わずかな偏りが、設計を自壊へと導く。構造が裂け、弾頭は内部から折り畳まれるように崩壊した。
三発目以降。
切り裂かれた破片を時間加速に晒す。秒針を千年に変換し、金属の寿命を一瞬で奪う。錆び、砕け、無力化。
だが数は膨大だった。
時間と重力が交錯し、空間は軋み、操る彼女らの身体を容赦なく削る。
最後の数発が残った。軌道は逸れず、地上の廃墟を越え、なお生き延びている都市のひとつに迫る。
その瞬間、アラヤの知覚が途切れた。
いや、世界が途切れたのだ。
秒針が落下し、風が泣き止み、光が止まる。
「……ありがとう。こんな時に……」
アラヤは微かに呟いた。
誰も見えなかった。
ただアラヤだけが知覚する――86400形の力。
血を流し、廃墟に横たわっていたはずの彼女が、最後の力で“時間”を奪った。
停止した瞬間の中で、残るミサイル群は解体された。内部の機構が崩壊し、推進剤が分離し、ただの屑鉄となって大気に散った。
数秒後、再び世界が流れ出す。
炎に沈む地上。だが、最後に残された都市はまだ立っていた。
「これで打ち止めかな……」ラーダの声は淡々としていた。
「どっちにしろ、どこの陣営もハチャメチャ。あたしの生まれ故郷も駄目ね」
アラヤは拳を握った。
「モーリスを止める。まだ作戦は残ってるはずよ」
沈黙の宇宙船、ソラリス号。
白い通路を、アラヤとナユタ、そしてラーダが駆け抜けてゆく。
目指すはただ一つ――中央管制室。
そこに、この世界の命運を握るものが待っていた。




