5:1968年宇宙の旅です
ロケットは白い巨塔のように直立していた。雲のない夜空に、その機影は鋭い槍のように突き刺さっていた。
発射台に固定された乗員モジュールの内部で、アラヤとラーダは椅子に横倒しに縛りつけられていた。計器類は一斉に点滅し、無数のチェックリストが順番に消化されていく。
「まさか二回も宇宙に行くことになるとはね」
ラーダはベルトを引き締めながら、皮肉とも感嘆ともつかぬ声で言った。
「名誉ある役目だと思わない?」
アラヤは正面の黒いスクリーンを見据え、静かに答えた。
「確かにあたしは万能文化女中だけれど……そんなに気軽に行っていい場所じゃないわよ」
「これが最後よ」
アラヤの声には揺らぎがなかった。
通信回線が開く。ノイズ混じりの声が耳に届いた。
「間もなく発射シークエンスです。しかし、同志スターリンが自ら行くことは――」
首相の声は説得の響きを帯びていた。
「『指揮官先頭』よ。後のことは任せるわ。それに、このことは私しかできない」
アラヤの言葉は打ち消すように短く、硬かった。
別の声が割り込んだ。
「同志スターリン、クーデター軍が発射点を嗅ぎつけたらしい。戦闘ヘリが向かっている」
第二書記の声は苛立ちと焦燥を含んでいた。
「……あまり時間はないわね。ラーダ?」
「オッケー! 準備できてる」
ラーダは笑うように言った。
その頃、発射台の周辺は既に戦場となっていた。対空砲が火を噴き、夜空に赤い閃光が咲き乱れる。地上からは火線が伸び、応戦する部隊の銃声と爆発が絶え間なく響いていた。照明弾が落ち、影は白昼のように浮かび上がり、また闇に沈んだ。
だが発射シークエンスは止まらなかった。カウントは冷徹に減り続け、数字がひとつひとつ消えていくたびに、世界が終わりへと近づいていくように思われた。
「――点火」
大地が震えた。
炎が噴き出し、鋼鉄の塔は揺るがぬまま天を突いた。耳を裂く轟音とともに、地面を砕くほどの振動が地下深くにまで伝わる。周辺で戦っていた兵士たちは一瞬、その光に目を奪われ、敵も味方も区別なく火柱を見上げた。
拘束された椅子の中で、アラヤは短く息を吸い込んだ。
ラーダは目を細め、ただ前を見ていた。
ロケットはやがて大気の壁を破り、地球の重力を脱出した。
眼下には燃え盛る戦場が遠ざかり、黒い宇宙が静かに広がっていった。
ロケットは振動を残したまま高度を上げていった。青い地平は狭まり、眼下に広がる大陸の稜線が黒い影に沈んでいく。
その上に、アラヤは弾道ミサイルの白い航跡を見た。空を覆うほどの数が、ゆるやかに曲線を描いて軌道を渡っていく。地上では、都市がひとつ、またひとつ閃光の中に消えていった。
「なんとか飛べたけど……もう帰る場所は残ってないかもね」
ラーダの声には、冗談めいた軽さの裏に重さがあった。
「まだ終わってないわ」
アラヤは短く答え、前方を見据えた。
やがてロケットは余分な段を切り離し、乗員モジュールと再突入モジュールだけが残された。空虚の中で、白い巨体が姿を現す。のっぺりとした鯨のような外形。船体の巨大な外壁に、古びたペンキで「R.A.I.N.B.O.W.」と記されている。その少し離れた区画には、キリル文字で「Солярис」とあった。
「……あれ、ソラリスって読むのね。R.A.I.N.B.O.W.も船名?」
ラーダが外部センサーを覗き込みながら言う。
「あれはテラフォーミング装置よ」
「テラフォーミング? そんなの知識データにないわね」
「要するに、星全体の開拓装置。……エアロックを見つけたわ。接近して」
「了解」
船体が静かに近づいてくる。光の届かない虚空の中で、推進器の微細な振動とアラヤの息遣いだけが支配していた。音のない空間は、むしろ圧倒的な重みを持って彼女の身体にのしかかっていた。
「EVAの準備をして。あたしはこいつをドッキングできないか試してみる」
ラーダの声は、いつもの調子を崩さなかった。
「分かった。気を付けて、ラーダ」
「……あんたもね。戻ってきなよ、絶対」
アラヤは宇宙服の外殻を叩き、エアロックに取りついた。手動解除レバーを回すと、重い金属音が指先に伝わる。
内部に身体を押し込み、ドアが閉まる。気圧がゆっくりと上昇していくのが鼓膜に伝わる。
計器を確認。1気圧。窒素79パーセント、酸素21パーセント。数値は完全に「地球」であった。
アラヤはヘルメットを外し、背中のラックに括り付ける。腰のホルスターから消音拳銃を抜き取り、両手で保持する。
ロックが解除され、扉が滑るように開いた。
その先に広がっていたのは、忘れられた未来の内部だった。
白い回廊は円筒形で、壁面には規則的に光源が配置されていた。冷たい蛍光色が反射し、床も天井も区別のない幾何学的空間を形作る。壁には赤や青のラベルが貼られ、用途不明のハッチが並んでいる。ところどころに金属製のハンドルと通路照明が組み込まれ、正確に校正された無機質な世界が広がっていた。
空調の音すらない。聞こえるのはアラヤの呼吸と、銃の冷たい重量だけだった。
――まるで、時が止まったまま漂っているようだった。
アラヤは一歩踏み込み、銃口をわずかに下げた。
その内部は、かつて誰かが「人類の未来」と呼んだはずの、完璧に保存された廃墟であった。




