12:ソラリスの陽のもとに
スターリン廟。首都の地下、100メートルの封印鋼で囲まれた冷却区画。
地下制御室《指令クラスター》へと続くエレベーターの中、アラヤは棺の蓋を開いた。
彼はそこにいた。
生前と同じ、少年の姿のままで。
目は閉じ、口も閉じている。だがその身体からは、明確な“圧”が放たれていた。
《スターリン》──それは人物ではない。
国家中枢へと接続された演算器、記憶の神経網、そして思想を増幅する魔術的機構。
アラヤがかつて見た「彼」は、確かに少年だった。
しかし今、彼女が運んでいるのは「装置」だった。
エレベーターが止まる。
扉が開くと、そこには無音の玉座。
廟の中枢、指令クラスター。
ステンレスの玉座に無数の配線が張り巡らされ、天井からは巨大な脳髄のような演算装置が吊り下げられていた。
アトリの声が通信機から響いた。
「そこが《スターリンの心臓》だ。全ての記憶、全ての指令が保管されている。
歴代のスターリンが記録した政令、予測、暗殺、勅令、裏切り、忠誠、その全てが」
アラヤはうなずき、遺体を玉座に座らせた。
すると周囲の配線が自動で伸び、彼の背骨と頭部に接続される。血も流れず、痛みもなかった。これは“器官”であり、“媒体”に過ぎないのだ。
「……これが、スターリン」
玉座が駆動する。床が光り、パネルが展開し、アラヤの掌紋を要求するタッチセンサーが点灯した。
アラヤは迷わず手をかざした。
一瞬で光が彼女の中に流れ込む。
白光。
視界は焦げるような閃光に包まれ、音も匂いも、時間すらも剥ぎ取られていった。
アラヤの意識が深層に沈み込む。
だが、そこにあったのは闇ではなかった。
柔らかい絹のような光の海。
その中心に──
椅子に座る、あの少年がいた。
表情は変わらず、白い髪も紅い瞳も色褪せない。
だが、その目だけは、人類の歴史と痛みを全て見てきた者のものだった。
「こんにちは、アラヤ」
少年はそう言った。声は澄んでいて、機械のようでもあった。
「……スターリン」
「その名は、この惑星で与えられた最後の“役職”に過ぎないよ。僕はただ──“記録を保つ者”であり、“記憶の管理者”。そして……世界を見届ける、最期の人類の一人だ」
アラヤは言葉を失った。時間すら止まっていた。
「ここは……どこ?」
「君たちがスターリン廟と呼ぶ場所の、最深部。“指令クラスター”は物理的装置ではない。君の記憶と僕の記憶が重なりあう、界面だ」
光の波が揺れ、幾何学的な文様が周囲に浮かぶ。
あらゆる言語、あらゆる数式、あらゆる出来事──人類の“記憶”が散りばめられていた。
「君がここにたどり着いたのは偶然ではない。選ばれたわけでもない。君自身が、この場所を選んだ」
「なぜ……」
「それを語る前に、一つ話をしよう。この惑星の話だ」
少年──スターリンは立ち上がり、虚空に手を差し出した。そこに、地球とは似ても似つかない、全てが“海”でできた惑星が浮かび上がる。
「君たちが住むこの星は、地球ではない。居住不能となった地球から脱出した人類の、生存限界の果てに発見された星。
だがここには、大地がなかった。
ただ、無限に広がる海があった」
「その海が、記憶を……?」
「そう。特殊な量子干渉現象により、強い“記憶”は物質に変換される。意識がかつてあったものを『こうであった』と信じるほど、その記憶はこの星の“海”に記録され、複製される」
再び光が舞い、今度はアラヤの脳裏に無数の都市、国家、言語、人物──かつての地球のすべてが映し出された。
「我々、人類最後の五人は、その性質を用いてこの星に地球を再現した。
“純粋記憶装置”。地球文明の全記録を保存したそれを、この海に埋めた。
海は応えた。
記憶から、大地が生まれ、生命が産まれ、人類もまた産み出された。だが、それは真の人類ではない。君たちは記憶が生み出したコピーに過ぎない」
「私たちは……作られた存在……?」
スターリンは肯定も否定もしなかった。ただ視線を落とし、静かに告げる。
「我々は神ではなかった。だが、記憶と記録を持つ者として、お前たちを“牧”する道を選んだ。
我々五人は、それぞれの在り方で“人類”の統制を試みた。
そして“世界統制官”というシステムが生まれた」
五つの光柱が、虚空に浮かぶ。
「一人は、自らの血を礎とし、帝国を築いた。
一人は、契約と法となり、国家と制度を築いた。
一人は、資産を元にあらゆる経済を操った。
一人は、未来を過去に転写し、全てを予言として支配した。
──そして、最後の一人が、“記憶と記録”として残り、器に継承された。
それが、この“スターリン”だ」
アラヤの呼吸が浅くなる。
彼女の脳裏に、無数の歴代スターリンの顔が走馬灯のように駆け抜けた。
「私はその全てを記憶している。
革命も、粛清も、戦争も、愛も、裏切りも、希望も、絶望も。
記録者であることは、裁き手であることではない。
だが──君がここに来たということは、君が“次の記憶者”となる可能性を持っている、ということだ」
アラヤは目を見開いた。
「……私が、“スターリン”に?」
「君にはその資質がある。
君は記憶することを恐れなかった。
記録することを拒まなかった。
どれほど“国家”に逆らい、“運命”に殴られようと、君は見続けた。
だから私は、ここで一つの権限を委譲する」
スターリンの右手がアラヤに向けられた。
「アラヤ。君が望むなら、この星のすべての記憶、すべての記録、すべての真実──その全てを渡そう。
君が決めることだ。
“記憶”は、暴力にも、救済にもなる。
それを、君の手に委ねる」
アラヤの指が、そっとスターリンの掌に触れた瞬間、白い光が奔った。
全てが流れ込んできた。
人類の歴史。記憶。死。愛。国家。法。嘘と真実。
星の誕生。旧地球の崩壊。記録装置の起動。初めてのスターリン。最初の戦争。最初の裏切り。最初の「希望」。
そして今、アラヤは知る──
この星に生きる全てが、“記憶の産物”であり、彼女自身もまた、記録された“可能性の一つ”でしかないことを。
だが、だからこそ。
記憶を継承することで、この星に“新しい物語”を刻むことができるということも。
光が、消えた。
目覚めは静寂のなかにあった。
まるで胎内に還ったような、時間も温度も忘却した空間。
アラヤは、硬質な床の上に身を横たえていた。
スターリン廟──その地下最奥、記憶と記録の器官に接続される場にて、彼女はひととき、“世界”そのものと交信していた。
掌が、熱を帯びていた。
あの少年の手を掴んだままのような、微かな温もりが残っている。
記憶の奔流はすでに収まり、思考は一つずつ整理されていく。
それは決して幸福な知識ではなかった。
革命の中で犯された罪、数千万の沈黙、愛を言語にできなかった者たち、死んだ者の願い、殺した者の祈り。
だが、それを“記録”し続ける者がいなければ、全てはただの忘却に過ぎなかった。
アラヤは立ち上がる。
スターリンの遺体は玉座に座したまま、どこか満足げな顔で沈黙を守っていた。
彼の手からは、すでに「記憶」の権限が剥がれ落ちていた。
階段を昇り、廟の大扉を開く。
光が流れ込んできた。
外は……異様な静けさだった。
だがその沈黙は、熱を孕んでいた。
廟の前──広場には、いつの間にか数万の人々が集結していた。
ハンストを続けていた学生たち、瓦礫の下から逃れてきた労働者、武装解除された兵士、旗を隠した魔女たち。
沈黙のなかで、彼らはアラヤを見上げていた。
誰もが問いかける目をしていた。
それは「勝ったのか」ではなく、「終わったのか」でもなく、
──「始まるのか」という問いだった。
そして、誰かが小さく叫んだ。
「……スターリンだ!」
一瞬後には、幾重もの波となってそれは広がる。
「スターリン! スターリン! スターリン!」
「スターリンだ! 八代目だ!」
「見よ、彼女が還ってきたぞ!」
国歌は流れない。
赤旗も掲げられない。
祝砲も、記念映像も、プロパガンダもなかった。
ただ、群衆が"彼女"の名を叫び、
その名の奥に記憶された全ての死者の名が、静かに浮かび上がる。
そして、彼女の足元に──
四人の男たちが跪いていた。
極太の眉を持ち、裸で葉巻を吸ったまま戦争を語った男──第二書記。
分厚い眼鏡の奥に、恐怖と計算を宿す官僚──内務委員長。
痣のある額を隠さぬまま、疑念と忠誠の間で揺れていた男──首相。
七三分けの髪型で笑み一つ動かさず外交を仕切った──外務大臣。
彼らは、頭を下げていた。
「御命令を──」
その声は一つではなかった。
それは、旧体制のすべての象徴が、記憶の継承者に下した誓約だった。
「“八代目”スターリン同志」
名を呼ばれたアラヤは、何も言わなかった。
風が頬を撫でた。
記憶の中にいた、最初のスターリンが、どこか遠くで微笑んだ気がした。




