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10:ご主人様は第二書記と対峙します

水音が静まる気配とともに、厚い蒸気の帷が割かれ、そこから現れた男は、まるで国家そのもののように裸だった。

かすかに汗ばみ、皮膚には年輪のような皺と、弾丸痕に似た痣が浮かんでいる。

その男──第二書記は、まるでそこが官邸ででもあるかのように、迷いなく葉巻へ火を灯した。


何も身に纏わず、何も隠さず、全身の緩みすら力と化す男の姿は、ある種の暴力であった。


「ほら、小鳥ちゃん」

男は葉巻を噛んだまま、ラウンジのテーブルにグラスを二つ並べる。

「東方の煙は苦い。舶来の酒は甘い。どちらも毒だ」

“アンティル1958”、黄金色の液体が琥珀のグラスに注がれる。


女は笑みを浮かべ、深紅のドレスを纏い、黒髪をなめらかに揺らした。

だが、グラスに唇を寄せる前に、冷たく整備された小型拳銃の銃口を、ゆっくりと男の眉間へと滑らせた。


「乾杯の前に、確認を」


男のまなざしにわずかな翳りが走った。が、それは驚きではない。

微笑のように片端を吊り上げ、彼は答えた。


「暗殺者か? 内務省か? それとも人民武力総局かね? どちらでも構わん。私は風呂上がりの死を嫌わない」


アラヤは銃口を逸らさない。

「あなたが“葬儀委員長”なら、スターリンを殺す理由は充分よね」


男は葉巻をくゆらせ、そして短く笑う。

「スターリン? あれは“器官オルガン”だよ」


煙が棚引く。


「記憶と指令を流す巨大なポンプ。個体が死ねば、次を挿すだけだ。

要は《心臓》ではなく、《人工心肺》だと知れ」


アラヤの目がかすかに揺れる。


「子供に国家を背負わせるのは無責任よ」


男はそれに対して嗤うでも怒るでもなく、ただ疲れたように灰皿を見つめた。


「あれは子供ではない。私が十六で党細胞に入ったとき、スターリンは少年の姿で祝電を送ってきた」

「半世紀、老いず、忘れず、我らを監視し続けてきたのは、“あの器官”だった」

「忘却の国で、記憶を持つ者こそが怪物になる」


アラヤは囁くように言った。

「なら、次は大人が責任を取る番。そう思わない?」


男は大声で笑った。

「髪を白髪にして、童声で語れと? それこそ地獄だ」


そしてその笑いは、徐々に消えていく。


「私はクーデターも、軍事裁判も恐れない。だが、“記憶を移植される”のは御免だ。

兵士も民衆も、老いた知恵よりも少年の無表情に跪く。

私は選ばれない器。適合しないんだよ」


アラヤの指が、安全装置を外す音を生んだ。

「器官でも、国家でも、動脈が詰まったなら――替えを挿すしかない」


男は葉巻をゆっくりと灰皿に押しつけ、火を消した。

その仕草は、まるで最後の儀式のようであった。


「器官は適合がすべてだ。私は酒と欲で鈍りすぎた。

だが君は違う。君こそが、“あの少年”の落とした《時間》を拾える。

君だけが、次の記憶を繋げる」


アラヤは微かに震えた。


「私に、スターリンをやれっていうの?」


「冗談ではないさ」


第二書記が左手を動かす。

彼の人差し指には黒金の指輪が嵌められており、それをテーブルの裏にある小さな磁気端子にそっと押し当てた。

“カチリ”。


その音と共に、空調口が無音でスライドした。


そこから姿を現したのは、全身を黒く包んだ六人の兵士。

音を殺し、感情を捨て、胸には白の〈雪豹〉の紋章が刻まれていた。

第二書記の直属、粛清を目的とした影の部隊。


彼らのヘルメットに取り付けられた暗視スコープが、全てアラヤへと焦点を合わせる。

そして、その場で最も無防備であるはずの男が、葉巻に新たな火を点けながら言った。


「ほら、小鳥ちゃん。葬儀委員長にはボディガードがつくものだ」


それと同時に、アラヤのまぶたがわずかに動いた。

銃口を斜めに逸らす。視線がズレる。空間がわずかに揺らぐ。


〈時間停止・0.5秒〉


次の瞬間、彼女は走っていた。

銃声のように響く足音、閃くドレスの裾。

窓へと飛び込む身体。

ガラスは蜘蛛の巣状に砕け、夜風と閃光が交錯する。


閃光弾が炸裂し、スイートの部屋は真昼のように白く染まった。

その中心に浮かぶ、赤いドレスの残像。

そして、それがホテルの外壁へと跳び去り、夜の闇に消えた。


部屋に再び静けさが戻ると、第二書記は咳払い一つ。

火を灯した葉巻をくわえ、部隊長へと短く命じた。


「追撃は要らん。あれは追えば滑る」


そして、窓の外を見ながら続ける。


「だが、星章付きの棺は二つ追加しておけ。葬儀は派手な方がいい」


天井の換気口から紫煙が巻き上がる。

壁のモニターには、少年スターリンの遺影が静かに映し出されていた。

誰の記憶にも老いることなく、無表情に微笑むその顔が、そこにはあった。



高架下の側道に、黒塗りの車が滑り込む。

そのドアが開いた瞬間、アラヤは飛び乗った。彼女のドレスの裾には、破られた窓ガラスの切片が幾つも絡んでいたが、顔色一つ変えずに助手席に腰を下ろす。


後部座席から、ナユタの声が響いた。

「お帰り、アラヤ」


「遅かったじゃない」

ラーダは振り向かず、車のナビを切り替えながら言う。

「首尾はどう?」


アラヤは濡れた髪を撫でつけながら答えた。

「第二書記は妙なことを言ってた。スターリンは“器官”であって、“記憶”が本体だと」


「記憶?」

86400形は眉をひそめる。

「さっぱりわからないな」


その時、車内の無線機からノイズ混じりの通信が入った。

重く、しかし鮮明な声。アトリだった。


「おそらく、スターリンを構成するシステムの話だ。スターリンの遺体、そして歴代の記憶が収められているスターリン廟──全てはそこにある」

「記憶を操作する存在。思考を継承する中枢。スターリンとは名ではなく、機能なのだろう」


アラヤは短く問い返す。

「今から動く?」


「否」

アトリの声は鋭く応じた。

「スターリンの遺体が必要になる。スターリン廟への扉を開ける鍵となるはずだ。

第二書記や内務委員長に手を出される前に、我々が奪取する。時間は、あまり残されていない」


車は首都中心部へと突き進んでいた。

その通りはもはや都市の血管ではなく、炎症を起こした神経そのものだった。


黒幕に包帯を巻いたスターリン像の前では、学生運動家たちが自作の横断幕を掲げ、空腹と疲労の顔に激情だけを残していた。

職能組合の旗を振る労働者たちは、数十年にわたる徴発と検閲の果てに声帯を焼かれ、それでも声なき抗議を続けていた。

狂信的な支持者たちは、そのどれよりも沈黙し、ただ火を焚き、拳を振り上げていた。

内務省軍と正規軍が路上を交錯し、装甲車が車列を塞ぎ、警戒魔法の結界が軒先に浮かぶ。

この国の中心は、もはや死を悼む場ではなく、死の再定義をめぐる戦場だった。


アラヤは窓の外を見ながら、冷たく言った。

「次は、内務委員長を調べる必要がありそうね」


「それは困難だ」

再びアトリの声。

「すでに奴の動向は記録から消え始めている。内務省や情報省のデータベースにも空白が広がっている。

未確認情報では、内務省が首相を“拘束”したとも言われている。

四人組の内部すら、今や疑心暗鬼に支配されているようだ」


「どうするの?」

ナユタが、囁くように訊ねた。


「明日だ」

アトリの答えは明確だった。

「明日の葬儀、スターリンの遺体を乗せた霊柩車が首都を走る。

その遺体を、我々が奪取する」

「第二書記や内務委員長の掌に収まる前に、それを手に入れ、スターリン廟へと運ぶ」

「それが《白うさぎ》の道筋だ」


アラヤは目を細めた。

「ずいぶん楽しいお葬式ね」


「敵は多いぞ」

アトリは淡々と続けた。

「内務省軍だけではない。第二書記の直属部隊も、我々を追う可能性がある。

魔女も、特殊部隊も、次々に首都へ入ってきている。

国家の全てが、葬儀を名目に戦争の準備をしているのだ」


ラーダが、いつもの調子で軽く笑った。

「面白くなってきたわね。戦争ってのは、理屈よりタイミングよ」


「間違いない」

アトリの声は、かすかに熱を帯びた。

「明日、すべてが決まる。

“少年”の記憶を運ぶのが誰か、“器官”を再起動させる者が誰か──それがこの国の次の千年を決める」


無線が途切れる。

その一瞬、車内に静寂が落ちた。


そして誰よりも遅く、アラヤがつぶやいた。

「遺体を運ぶだけじゃない。

あの棺には、この国の未来が入ってる」


86400形はため息をついた。

「棺桶のためにこの国全てを敵に回すとは…。まったくどうかしてる」


「どうかしてるならちょうどいい」

ナユタが笑った。

「だって、ここは正気の国じゃないもの」


車は曲がり角を越え、旧参謀本部の影を通過する。

その先に、首都中央の大広場が広がっていた。


そこで、少年の葬儀が待っている。

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