7:うまくいかない日もあります
その朝、拳銃工場には風がなかった。
照明は一定の間隔で配置され、床の油は無味な反射を返していた。
スターリンが現れると、それは一種の宗教的現象だった。
作業員たちが整列し、緊張と興奮を混ぜた表情で「歓呼三声」を繰り返す。事前に練習された通りだった。
機械仕掛けの敬愛が天井に充満する。
スターリンは演技のように笑った。
それが演技でないと人々が思い込めるほどには、彼の笑顔は国家によって研ぎ澄まされていた。
威圧ではなく、信仰を生む重力。
その場にいた誰もが、次の朝刊の第一面がこの光景になることを理解していた。
彼は工場長に一瞥をくれると、無言で組立ラインへと歩いた。
官僚たちはその足元を見失わぬように手帳を構え、彼が口を開く前から、ノートにメモを書き始めていた。
「組立精度、銃身偏差、合格率の管理——再検討せよ」
その言葉が発せられた瞬間、数人の視察官が同時に震えるようにペンを走らせた。まるで神託であった。
スターリンは部品の一つ、トリガー機構の断片を摘み上げ、逆光にかざした。
その手の動作に異様なほどの静謐が宿る。
そして、その瞬間である。
群衆の海の奥から、一人の工員が踊り出た。
悲鳴はなかった。人々はまず何が起きているかを理解できなかった。
跳ねるような身のこなしで男は間合いを詰め、右手には拳銃があった。
本来であれば、護衛の憲兵が立ちふさがるはずだった。
侍従を兼ねた万能文化女中の機構が作動し、射線を遮るべきだった。
しかし、その誰もが“それはありえない”という確信に支配され、一瞬、世界から思考を剥ぎ取られていた。
銃声が響いた。
スターリンは撃たれたことに気づいた。
自分の鎖骨の下、僅かに焼けた鉄の穴が穿たれていることを認識した。
そして、その事実に納得する暇もなく、崩れ落ちた。
歓喜は悲鳴に変わった。
視察団の官僚が喉から音を引き裂く。
憲兵の一人が過呼吸に陥り、万能文化女中の一体は即座に犯人に組み付いた。
発砲者は拘束され、銃は取り上げられ、自決防止コードが作動した。
「殺すな! 殺すな! 背後関係を洗わせろ!」
誰かが叫び、誰かが記録し、誰かが泣き崩れた。
だが、誰もが理解していた。
神は撃たれた。
スターリンは、倒れたままの姿勢で運ばれた。
無言の万能文化女中たちに抱えられ、その顔に貼りついた表情は、痛みではなかった。
どこか静かな微笑。まるで誰かの意図に満足したかのように。
運ばれた車両は、地面の砂利を撒き散らして加速した。
彼の肉体が未だ生きているのか、それとも既に命なきものとなったかを、誰も確認する時間は与えられなかった。
アトリは、紅茶のカップを傾けるわけでもなく両手の間で抱いたまま、目線だけを窓辺に投げていた。
「鎖骨に当たった一発の銃弾は、跳弾して心臓を直撃したそうだ」
その声音には揶揄も驚きもなかった。ただ観察者としての乾いた記録があるのみだった。
「名だたる回復魔術師、軍医大学の教授、国内トップクラスの心臓外科医。総動員だった。――まあ、うまくいかないこともある」
「あり得ません」
86400形が即座に割り込んだ。
「私は信じませんよ。同志スターリンにそのような脆弱性があったなどと」
その声には焦燥と怒りが入り混じっていた。
「これが事実だ」
アトリは瞼を閉じ、軽く首を振った。
「どれだけ抗っても、記録にされること、それが現実になる」
「指導者」とは神ではない。だが、その死は国家の呼吸の仕方すら変えてしまう。
「背後関係は?」
アラヤが沈黙を断ち切った。
「シロ…と言えるな」
アトリは一拍の間を置いて答えた。
「拳銃も弾丸も、あの工場で日常的に目にする部品で構成されていた。魔力痕跡もなし、外部通信の兆候もなし。監視網も内務省の情報部も、異常は検出していない」
「諸外国の関与は?」
「我々が傍受している通信では、王室連合も帝国も皇国も、現地の情勢を“つかみかねている”とある」
アトリは鼻で笑った。
「もし彼らが首謀であるなら、もっとはっきりした動きになる。少なくとも、国境での偵察機飛行回数が増えるはずだ」
「では――」
86400形が息を詰めた。
「我々は、訳の分からない一匹の狂人に、敬愛する指導者を殺されたと、そういうことになるのですか」
声は震えていた。感情ではない。否認が限界を超え、理性がその圧力で揺らいでいた。
「残念だが、その通りだ」
アトリの声は変わらなかった。
「我々人民武力総局が最も恐れていた――『一匹狼型』の事案。それが、最悪のタイミングで、最悪の場所で発生した」
「予測不能性こそが最大のリスクだと私は再三警告していたが、誰も耳を貸さなかった」
彼女の眼差しは冷たかった。だが、責任を免れるための冷淡さではなかった。彼女は理解していた。この国において、真実が力を持つことはないということを。
「内務省は?」
アラヤが問う。
「衝撃だろうな」
アトリは一度、短く笑った。
「もっとも、あそこは“現実”よりも“記録の整合性”を重視する省庁だ。事実がどうであれ、別の物語を創るだろう。あるいは、すべてをなかったことにするかもしれん」
アラヤは黙ってファイルを見下ろした。
そこにはたった一行だけ、万年筆の筆跡で書かれていた。
――白うさぎを追え。
「スターリンは、お前を見ていた」
アトリは窓の外を見つめたまま言った。
「それが良かったのか、悪かったのかは…まだ分からない」
「……」
「いずれにせよ」
アトリは振り返ると、紅茶のカップを机に置いた。
「この国の神話は、今夜で終わる。これからは、“人間”が物語を作ることになる」
86400形は立ち尽くしていた。
記録に存在する“自分”という人格と、現実に敗北した“自分”との間で、彼女は軋むように沈黙していた。
「この国もいよいよだな」
アトリは、外を眺めたまま呟いた。
「五年戦争で蓄えを使い果たし、今や誰もが自分が“戦後”を生きていると信じるしかない。だが実際には、戦後はまだ始まってすらいない。国内は暴発寸前だ。スターリンの死は、その最後のひと押しになる」
アトリの手元にあった報告書の束が、軽くめくられた。そこには大量の名前と、処分済・捜査中・潜伏中の判が押されていた。
「我々もここ数か月、不穏分子の摘発に駆り出されている。内務省が崩れ始めているせいだ。特に“プリレーピンの乱”以降、連中は局内での粛清と記録修正に忙殺されていてな、現場の対応が追いついていない」
アラヤは黙って聞いていたが、手にした一枚の紙に視線を落とすと、問うた。
「それで、私に『白うさぎを追え』という最終指令が出された理由は、どう関係しているの?」
アトリは窓から視線を戻す。
「“四人組”のことは知っているな」
「第二書記、首相、内務委員長、外務大臣」
「その通り」
アトリはうなずいた。
「彼らが、次のスターリンを“決める”つもりだ。そう、選ぶのではなく――“創る”のだ。彼らにとって国家とは劇場であり、スターリンとは脚本上の役割に過ぎない。だからスターリン自身が、自分の死を前提に、あらかじめ指令を残していた。直属の暴力装置である我々に、という形でな」
「指令にあった“私”は…私(86400形)ではなく、この“私”だったと」
86400形の声には、怒りと疑念の両方が絡んでいた。
「理解はしますが…納得も承服も致しかねます」
「納得の必要はない」
アトリは淡々と言った。
「命令は命令だ。“先代”のものなら、なおのこと。スターリンは、お前を見限っていたわけではない。ただ、過去を知っているアラヤが必要だった――“記録される前の記憶”を持つアラヤが」
アラヤはナユタが座っている椅子の拘束を解く。
ナユタの目元に食い込んでいた布が外されると、呼吸が一気に戻った。
「疲れた…」
彼女は言った。だがその顔には、疲労よりも再起の色が濃かった。
「もうひと働きしてもらうわ」
アラヤは静かに言い、再び前を向く。
「局長、第二書記の所在は?」
「葬儀委員会の臨時本部だ。『死は国家の祭日である』と彼が言い出してな。国営ホテルを丸ごと接収したそうだ。表向きは儀典の準備だが、裏では軍を呼び寄せているらしい」
アラヤが立ち上がる。その背にナユタが並び、すでに何事もなかったような足取りで準備を始めている。
アトリはその二人の姿を一瞥すると、呼び止めた。
「待て。監視をつける」
アラヤが眉をわずかに動かす。
「信用してないのね」
「前科があるからな」
アトリは笑わずに言った。
「それに、今やお前たちは“記録に残らない戦闘員”だ。国家が沈むなら、沈む前にせめて真実を掴みたい。だから、お前にも彼をつける」
86400形が、半歩前に出た。
「はっ。ですが…何故私に?」
「時間操作能力者だからだ」
アトリは椅子に深く座り直した。
「同類の動きは、同類でなければ止められない」
アラヤと86400形――ふたつの“アラヤ”が目を合わせる。
そこには、自己という鏡像を前にした緊張と、共闘という不本意な連帯の兆しが入り混じっていた。
「国家存亡の危機だ」
アトリは締めくくった。
「そしてこれは――指導者なき国家が、最初に出す呼吸だ」




