5:万能文化女中は職場復帰です
夜の帳の中、アラヤとナユタは人民武力総局の本部、その外郭に接近していた。
「……行くよ」
ナユタの囁きとともに、空気が歪む。
空中で、重量そのものが無効化された。
数トンあるはずの装甲車が、その重力場から外され、ゆっくりと地表を離れる。
次の瞬間、装甲車は上下反転し、滑空のように横転した。警報と悲鳴が交錯する。
「陽動開始。十秒は持つ」
アラヤは頷いた。
昏倒させた兵士の制服の上着を直し、手には緊急通行許可証の偽造データを記録したタブレット。
そして、冷めきった表情を浮かべ、守衛ゲートへと歩き出す。
「緊急伝令。内務次官の指示で、至急、暗号第七倉庫にアクセスする必要があります」
ゲートの兵士が一瞬だけ不審を浮かべたが、外の騒動が判断を奪った。
許可が下りる。
アラヤは、本部内部へと入った。
しかし、違和感はすぐに襲ってきた。
監視カメラの一部が追跡している。彼女は廊下を曲がり、暗い踊り場に入った。
「見つけたわよ、“私”」
声が空気の層を斬って現れる。
86400形の姿が、非常灯の先に立っていた。
「またあなた……。つくづく粘着質ね」
アラヤは即座に構え、時間の“縁”に指をかける。
「……また“やる”か。だが今回は違う。ここは私の領域だ」
86400形が能力を発動する。空間が反転し、階層がねじれる。
時間の同期が断たれ、アラヤの動きが制限される。
――しかし、アラヤは動じない。
「その程度で“私”を止められると思って?」
右手の指が、隠されたセンサに触れる。
廊下の床面が解除され、彼女は足元のハッチに身を投じた。
本部地下、管理外区画。
アラヤは朽ちかけた廊下を駆け、標識の外れた鉄扉を破った。
その先にあったのは、暗い倉庫。埃と油の匂い。
並ぶのは旧式の補助AI端末――万能文化女中群。そのうちの一体、旧型コスモラーダのAI中核が格納されている記録ユニットがあった。
アラヤはそれを抱え、部屋の隅にあった補助機構――型落ちの簡易女中機、「トラビー式補助体」にユニットを接続した。
数秒後、機体が震え、ぎこちなく立ち上がる。
「……ちょっとぉ、何これ? こんな安物で再起動させるなんてひどくない? っていうか何、私、五年もシャットダウンされてたの?」
アラヤは呼吸を整えながら、扉に耳を当てる。
「説明は後。今はここから抜けるのが先よ」
「ハイハイ、とにかく“なんとか”するわ。でもほんと、あんた変わってないわね。そういうところは安心した」
ラーダ(inトラビー)が背を伸ばし、内蔵端末を展開する。周囲の情報ネットワークを即時侵入。
「……っと、現在の本部内防衛システムをスキャン中。おっと、あなたを追ってるわよ、例の“もう一人のあなた”。それからさっきの新型コスモラーダ。あんな子に出番取られてたとか、本当にイヤになるわね」
アラヤの目が鋭く細まる。
「遅れは取り戻すわ。こっちは本物なんだから」
その瞬間、外で爆発音。上階から重い足音。
時間が、再び切り裂かれようとしていた。
「さ、始めましょ。あんたの“帰還”の仕事をね」
ラーダの音声が、チープな外装に似合わぬ威厳を帯びていた。
地下の闇を背に、二人は階段を駆け上がる。
その先には、人民武力総局の心臓部が待っていた。
中央管制区画への接続廊下。防衛フレームの再起動音が周囲の空気を震わせ、床を伝って低音が這い上がる。
アラヤは足を止めた。背後にはトラビー型の小型ユーティリティ機体、その中に旧コスモラーダ――“ラーダ”の意識が収められている。
「追いつかれたわね」
ラーダの声は変わらず軽薄だが、内部の処理速度はすでに極限に達していた。
「右から来る。二人」
アラヤは視線だけを動かす。
情報は一致していた。
次の瞬間、左右両翼の防火扉が弾け飛ぶ。金属の火花と共に、アラヤ(86400形)とコスモラーダ2が出現する。
「終わりだ。引き返す時間はもうない」
86400形は冷徹な口調でそう告げる。
その背後で、コスモラーダ2の光学視野が赤に染まり、起動音が脊髄に響いた。
「敵意確認。対象:アラヤ、コード認証番号失効済み。即時無力化手順を実行します」
「……ラーダ、お願い」
アラヤの声は、命令ではなく信頼だった。
ラーダはトラビーの筐体をぎしりと軋ませ、コスモラーダ2を見上げる。
「はぁ。やっぱり、面倒なことになるわけね……。ま、嫌いじゃないけど」
ラーダは内部処理システムを回転させる。
かつて、人民武力総局・第十七課により設計されたコスモラーダ系列には、同型機間の緊急更新機能――双方向ミラー・ブリッジが組み込まれていた。
その仕様を逆手に取ること。
それがラーダの戦略だった。
内部で暗号が走る。
同時に、コスモラーダ2の反応が一瞬、硬直する。
「……通信要求受信。非標準プロトコルによる同期要請。認証待機中……」
86400形が眉をひそめる。
「……何をしているの。ラーダ、すぐに撃て!」
しかし、ラーダの声が重なった。
「待って。今、いいところだから」
わずかに笑うような音声。
それは既に、別の機体の音声出力から発せられていた。
コスモラーダ2の身体が震える。
関節が逆関節的に硬直し、フレームの中で回路構造が書き換えられていく。
旧型のラーダ・コアが、コスモラーダ2のAI駆動中枢に完全侵食を始めていた。
「統合開始。旧ユニット優先順位に基づき……更新。」
光学視野が青から紫へ。
音声ユニットが切り替わり、微笑を模した人工表情が走る。
「おまたせ。ラーダ、帰ってきたわ」
旧コスモラーダはそう言い残すと、トラビー型の安価な筐体が膝をつき、主電源を遮断。役割を終えた。




