4:瞬間、時、重ねて
「つまり、スターリンは死んだ。それも――多分、殺されたと思う」
アラヤの声は冷めきっていた。紅茶の湯気も止まり、窓際の空が徐々に深い青を帯びていく。
「マジ?」
ナユタの声は素直だった。驚きではなく、確認だった。
「モーリスからの文面を見る限り、状況はそう読める。公式の発表よりも早く情報が来るということは、むしろ不自然。誰かが意図して漏らしてる」
「私たち、これからどうするの?」
アラヤはカップを机に戻し、窓の鍵を外す。
「まずはモーリスの指示を待つ。だけど――多分、この国の方が先に動く。間違いなく」
「準備って何?」
アラヤは部屋の電灯を見たまま、短く息を吸った。
「“消す”準備」
その瞬間だった。
遠くから――だが間違いなくこの建物に向かって――重いエンジン音が迫っていた。無塗装の軍用車両特有の不協和音が、舗装された中庭を切り裂いている。
続いて、建物の階段を上る複数の軍靴の響き。節度ある速さ、しかし躊躇はない。
アラヤはスイッチに手をかけた。
そして、電気が消えた。
寮の三階、北端の一室。
その扉は、次の瞬間、爆音とともに蹴り破られた。
白い閃光。断続するレーザーサイトの光線。照準の点が、暗闇をなぞるように乱れ、交錯する。
銃口は複数あった。照準はあらゆる隅に向けられていたが、そこには何もなかった。
その一瞬、部屋の天井裏――通路の上部に張りついていたアラヤとナユタは、突入隊が室内に踏み込んだのを確認し、音もなく身を翻す。
アラヤの足先がドアの縁に触れ、静かに、しかし確実に閉じた。
再び部屋に暗闇が戻る。
廊下。
人民武力総局・特別工作局直属の部隊が並び立っていた。
隊長格の少女が、部下の報告に目を伏せる。黒のスキニーな戦闘服にボディアーマー。腰のホルスターには32口径の消音拳銃。
10代前半を思わせる外見、無表情な瞳。短い黒髪。コードは86400形、任務中の名はアラヤ――。
彼女の脇には、一体の自動人形――万能文化女中、コスモラーダ2が待機していた。
「突入は完了。アルファ部隊、制圧に移行中」
コスモラーダ2が電子声で報告した。
だが、部屋のドアが再び開いたとき。
そこには、倒れ伏した自軍の兵士たちの姿があった。
銃器は破壊され、マスクは砕かれ、叫び声の残響すらない。
86400形アラヤは、短く息を吐いた。
「なんて連中だ……。仕方ない。私が出る」
「了解しました、マスター」
周囲の光が歪んだ。
視界が一度、銀灰に落ちる。
世界の構造が崩れ、時間の流れが沈殿するように止まる。
86400形アラヤの能力――対象周囲の時間同期層を“断ち切る”ことで、自身の速度を相対的に“加速”させる――が、完璧に作動した。
だが――その完璧さに、最初のほころびが走る。
扉を開けた彼女が部屋に踏み込んだ瞬間、
そこにいたのは“彼女自身”だった。
元のアラヤが、ナユタと手を繋ぎ、部屋の中央に立っていた。
電灯は点いていなかった。だが、二人を包む薄い“揺らぎ”が、空間の密度を反転させていた。
「――何ッ」
86400形アラヤは口を開いた。だが言葉はそこまでだった。
時間は、すでに無効化されていた。
この部屋では、加速も遅延も、再演もできなかった。
「どうして……?」
86400形アラヤが一歩踏み出した瞬間、アラヤの瞳が光を返す。
ナユタの手が震え、そしてその震えが空間の“縫い目”に作用する。
部屋の構造そのものが、ナユタの“干渉力”によって逆回転の膜に包まれていた。
「ここでは、あなたは“外部”よ」
アラヤの声は、時間と重力の中心にいた。
「今から――あなたの“未来”は、こちらが決める」
再び光が変質する。
時間が剥がれる。
そして、“二人のアラヤ”が、初めて真正面から向き合った。
銃声は止んでいた。
だが部屋には、まだ重力より重いものがあった。
それは、二つのアラヤが向き合う異様な沈黙だった。
「時間停止能力は、同じ能力者相手には通じない。基本的なことすら理解していないとは、人民武力総局も随分と人材の層が薄くなったものね」
アラヤの足元で、86400形は膝を突いたまま身じろぎもできなかった。
時間の干渉力そのものを、逆位相で打ち消されたのだ。
しかも、その精度と速度には“慣れ”があった。
わずかな時間差、あるいは経験の累積。それが決定的な分水嶺となる戦闘領域が、この“時の凍結”という異能には存在していた。
「貴様……何者だ。なぜその力を使える……」
86400形が呻くように言った。
額にかいた汗が、時間からはみ出したようにゆっくりと垂れる。
「むしろこちらが問いたいわ。毎朝、鏡の中で見ている世界で一番憎たらしい自分の顔を、何故あなたもしているのか。ねえ、私の“偽物”さん?」
アラヤの声は冷えていたが、かすかに揺らいでもいた。
彼女にとって、もっと奥深い“設計”の意図の匂いを感じ取っていた。
その前で、コスモラーダ2が停止していた。
制御核は青色の光を灯し、状況判断を繰り返している。
「警告します。対象エージェントへの危害を検知。直ちに降伏してください」
合成音声が響いた。
だが、その硬質さはアラヤには響かなかった。
「……撃て、ラーダ。私に構うな」
86400形が命じた。
コスモラーダ2の光が一瞬、明滅する。
「――その指示は、エージェントへの重大な危害となるため、承認できません」
沈黙。
アラヤが鼻を鳴らした。
「なんとも、ブリキすぎる万能文化女中。時代遅れの設計思想ね」
「口の利き方に気をつけろ」
86400形が睨みつけた。だが、その視線には恐怖よりも混乱があった。
“自分”と同じ顔をした女が、同じ力で自分を押さえ込み、随伴の万能文化女中まで無力化する――それは想定されざる例外だった。
ドアが開いた。
ナユタが戻ってくる。上着は裂け、額にはわずかな火花の傷跡があった。
「外、片付けたけど……うわ。何これ、アラヤが二人?」
「そうなの。今からこの子に、いろいろ“説明”してもらうところよ」
アラヤが答えたその刹那。
86400形が、なにかを口の中で呟いた。
コスモラーダ2の眼光が一気に赤転した。
「承認しました。安全装置、一時解除」
爆裂するような閃光。
耳を焼く音圧ではなかった。時間と光の情報層そのものを破壊するタイプの閃光だった。
アラヤとナユタの視覚が焼き潰され、時間感覚がわずかに浮遊する。
その刹那――86400形は拘束を解いた。
拘束の継ぎ目を割り、アラヤの腕を払い、コスモラーダ2とともに窓へと走る。
「逃がさない――ッ」
アラヤが追いすがるより早く、ガラスが粉砕された。
夜の風が、部屋を引き裂く。
コスモラーダ2が浮遊機能を最大出力で稼働させ、86400形を連れて闇へと滑り出す。
二人の姿は、寮の外壁を蹴り、隣棟の屋根を越えて消えていった。
残されたのは、熱と、音と、断ち切られた記憶だけだった。
「逃げられた……どうする?」
ナユタの声はまだ息を切らしていたが、その目はすでに次の動きを求めていた。
アラヤはしばらく何も言わなかった。
窓の外を見つめ、夜の中に残る微かな魔力の残滓を嗅いでいた。
「……こうなったら仕方ないわ」
短く、確実に言い切る。
「直接、行くしかない」
そのとき、寮の屋根に取り付けられていた古いスピーカーが一斉に点灯した。
次の瞬間、国家放送が流れた。
「国民諸君――本日、国家に対する卑劣な襲撃があったことを確認した。これより首都全域に夜間外出禁止令を発令する」
アラヤの目が、音を超えて言葉の背後にあるものを見抜いていた。
「始まったわね。“彼ら”の方が先に、動き始めた」




