2:近代ゴリラ
午後の大学は、真昼の熱気を地面に封じ込めたまま、夕方の気配を拒んでいた。古い講堂の瓦屋根からは、崩れかけた銅の緑青が剥がれ落ち、学生自治会が掲げた白地の布に、手書きの赤いスローガンが風に揺れていた。
構内には音が溢れていた。太極拳の掛け声、鉄パイプを叩いてリズムを刻む集団、立て看板を運ぶ裸足の学生たち。濃いインクの匂いとスプレー塗料の揮発性ガスが混じり合い、嗅覚のどこかを麻痺させるようだった。構内放送のスピーカーからは、午前中のデモの録音が繰り返し流れていた。
アラヤは講堂の一角に腰掛けていた。傍らにはナユタ。二人の目の前では、学生たちが言葉を武器に火花を散らしていた。
演壇に立った一人の男が、手にした資料を振りかざして叫ぶ。
「スターリンとは何か? それは秩序を内面化させる装置だ! 人民の名を借りてブルジョア秩序を温存する、そういう機構の象徴だ!」
群衆の一部が拍手を送った。だが、すぐに別の男が立ち上がる。
「違う! スターリンは構造じゃない、存在だ! 我々の細胞の一つ一つに染み渡る思想であり、革命の化身そのものだ!」
「それはつまり、猿だろう?」
「違う、ゴリラだ!」
観衆がどっと笑い、壁新聞班がそれをすかさず書き留めた。
「猿が資本主義の模倣だとすれば、我々は“鍛え抜かれたゴリラ”でなければならない。近代的で、理論武装し、しかも肉体を鍛え上げた――そういう革命的な近代ゴリラだ!」
アラヤは顔をしかめた。ナユタは横で小さく笑っていた。
「なんか、好きだなあ、あの感じ」
「どの感じ?」
「言葉だけで爆発できるっていうか。燃えてるんだけど、火種が全部、空気の中の酸素みたいな、そんな感じ」
「燃えるのは簡単。でも、その熱で何を煮るかが問題」
「うまいこと言うね」
「別にうまくはない」
講堂を出ると、構内は夕方の風に変わっていた。紅い落陽が古い石造りの寮の壁に斜めの影を落としていた。舗道の向こうで、弦楽器の練習音が流れていた。プロパガンダ用の劇のリハーサルだろう。軍服姿の学生たちが、人民の声を模した合唱を繰り返していた。
ナユタが言った。
「これ、上手くいきそうかなあ?」
アラヤは空を見た。薄い雲が均等に引き伸ばされて、まるで何かの演算処理が空に描かれているようだった。
「モーリスが思うほどの状況にはならないと思う。今のところはね」
「でも、大学って楽しいね。なんか、毎日が学園祭前夜みたい」
「爆弾を作ってる生徒会があれば、ね」
「それも含めて、お祭りってやつだよ」
舗道の向こうから、唐突にサイレンの音がした。直後、大学前の大通りを、高級車が猛スピードで走り去った。赤灯が点滅し、護衛車両の列がそれに続く。窓ガラスは防弾加工で黒く、車体には連盟の紋章が刻まれていた。
「何あれ?」ナユタが言った。
「高官専用病院に向かってる。ルートが決まってるから」
「事故?」
「違う。もっと大きな“異常”だと思う」
ナユタはアラヤの表情を盗み見る。
「モーリスに報告する?」
「まだ早い。状況を掴んでからにする。推測だけで情報を投げれば、向こうが混乱するだけよ」
風が吹き、構内に貼られたビラが剥がれ、宙を舞った。赤いスローガンが白地の裏に隠れ、宙で一回転してアラヤの足元に落ちた。
《記録を奪え。記憶を奪い返せ。》
アラヤはそれを拾いもせずに、足元から離れるように歩き出した。
「ナユタ、帰るわよ」
「うん」
そして二人は、学生たちの熱狂を背に、沈む陽の中へと消えていった。
寮の一室には、蒸らされた紅茶の香りが満ちていた。焦茶色の陶器から立ち上る蒸気が、煤けた天井の灯りに一瞬だけ光をまとわせ、すぐに溶けて消えた。鉄製の窓枠には外気が染みて、結露が粒となって沈んでいた。
アラヤは湯を注ぎながら、左手のカップをじっと見つめていた。無印の茶葉に軽い果実香を加えたもので、戦後の統制下では珍しく手に入ったものだ。だがその香りすら、今夜は胸に届かぬままだった。
壁際では、ナユタが書類の山に肘を突いて退屈そうにあくびをかみ殺していた。授業用の記録媒体はすでに端末に移され、黒板の走査画像は解析済みだった。やるべきことはすべて終えたのに、やるべきでないことが始まりそうな夜だった。
そのときだった。
世界の色が、反転した。
窓の外がふと明るくなったかと思うと、アラヤはカップをそっと置き、何の言葉もなく立ち上がる。指先が硝子の窓に触れたとき、首都の夜空を照らす異様な光が彼女の目に飛び込んできた。
空に浮かんでいたのは、紫――否、濁った血を押し込めたような黒紫の魔法陣であった。幾何学的な円環が幾重にも重なり、文字にも記号にも見えぬ紋様が、都市上空に刻まれていた。
それは「死」の信号だった。
最高指導者の命に関わる緊急時のみに発動される、国家中枢が直接投影する広域魔導印。各都市に一つずつ備えられた魔力投射塔が、自動的に同一構造を描くよう設計されていた。すなわち、それは意図ではなく“結果”として生まれる光景だった。
アラヤは言葉を発さなかった。ただ沈黙のまま、その紫の構造体を見つめ続けていた。
ナユタも、異変を感じ取っていた。だが、その視線が窓の外に向くよりも早く、部屋の扉の下から、紙片が滑り込んだ。
音はなかった。まるでそれは、もとからそこにあったかのように。
ナユタが先に気づいた。
「……今の、なに?」
アラヤは紙片を拾い上げた。墨のような筆跡が走っていた。簡潔な一文。
《ハゲネはうまくいった》
その文字を見つめたまま、アラヤは数秒、微動だにしなかった。やがて目を離し、再び夜空の紫に視線を戻す。
「“あれ”は……成功の証明よ」
「ハゲネって、コード?」
「工作名。場所の名前でもある。つまり、あの魔法陣は…スターリンは…」
紫の魔法陣は、風に吹かれても消えなかった。都市そのものの天蓋に焼きついたように、静かに、そして確実に警告を発していた。
ナユタは茶の冷める音を聞いた。さっきまで自分の指先が触れていた陶器が、今は別世界の遺物のように冷えている。
「これから……どうする?」
アラヤは答えなかった。ただ、目の奥にある何かが、微かに動いた。
それは“時間”ではなかった。“記憶”でもない。
それは「始まってしまった」という、静かな確信だった。




