5:チェス盤のログから蜂起計画を解読し、魔術塔から時間加速で逃げ出すだけの簡単なお仕事です
午前2時、図書塔南面の清掃ダクトが開いた。
そこから、機械のように軽やかな手足がアラヤを抱えたまま這い出てくる。
「配管は完璧。いっそこのまま寮まで運んであげようか?」
「降ろして。次、移動経路左よ」
ラーダは女中姿のまま、深夜清掃用の許可IDで塔の下層フロアを開錠する。
アラヤはその隙に資料室の扉を開き、新聞の縮刷版のフィルム書架へ向かう。
「ここよ。3年前の分を」
彼女は特定のリールを巻き取り、光に透かした。
写真面に、ごく微細な点列――マイクロドット暗号が浮かぶ。
「これ、昨日のチェスログと組み合わせて……座標を抽出してる?」
ラーダが即座に解析に入る。
「チェスの盤面ログを一種のワンタイムパッドにして、座標と暗号周波数を切り出してる……この組み合わせ、軍用ね。相当古いコード体系よ」
出てきた内容は――
退役将官128名の居住座標
対応する通信周波数帯
同時蜂起予定:人民歴1961年創設祭期・5月2日・時刻06:00
「蜂起計画……それも全国規模。やっぱりこの塔が“穴”だったわね」
その瞬間、塔内部の灯りが一斉に落ちた。
「魔術障壁! 外との接続を断たれた!」
「出口が封じられた――!」
魔術障壁の中央端末が起動し、封鎖ループが展開される。
塔全体が封じられた観測空間へと転化していく。
アラヤは全身の神経をスパークさせ、能力を発動する。
時間加速、+18分。
世界が引き伸ばされる。
砂のように視界が崩れ、アラヤの身体だけが18分先の未来へ“滑る”ように進む。
端末の再起動、魔術障壁の一瞬のリセットの“間隙”を利用し――
塔の非常扉をすり抜ける。
「ッ……っは――!」
ラーダが手を引き、二人は外へ転がり出た。
「……これで、もう2回分は使えないわね」
アラヤは背後の塔を振り返る。
「だけど見えた。“誰が何を仕掛けたか”」
翌日、アラヤは“個人面談”という建前で職員室を訪れた。
応対に出た教師――タラシェンコは、穏やかな顔で書類をめくっていた。
「転入後、順調に記録が進んでいるようですね。ああ、記録というのは学力のことですよ、もちろん」
彼の目は濁っていた。まるで過去に蓋をされたかのように。
アラヤはバッグから小型装置を取り出し、デスクの下でスイッチを入れる。
一時的に記憶を復活させる、精神電位補正装置が起動した。
高周波が微かに響き、タラシェンコの目がわずかに揺れた。
「……? ……私は……」
「あなたは、3年前に学園に潜入した総局員。記憶を消された。
それをやったのは、副会長。彼女は記憶抑制薬を使った」
「……う……うあ……いや、まて、なにを……
ああ……そうだ……白うさぎ……」
「“白うさぎ”とは何?」
タラシェンコは口元を震わせ、ぼそりと呟いた。
「……“穴”じゃない……白うさぎは、“落下速度を計算する数式”だ……
お前が落ちていく速度が……導かれる……」
その言葉と共に、彼の意識は再び薄れた。
装置のタイムリミット。記憶の扉は閉ざされた。
アラヤは静かに立ち上がる。
「結局…私がやるしかなさそうね…」
外では、創設祭のリハーサルが始まっていた。
夕暮れの学園に鐘が鳴る頃、アラヤは静かに生徒会棟へと向かっていた。
生徒会室の前に着いたとき、中から出てきたのは副会長のアイナ・グレバだった。
整った制服の襟を直し、目を伏せたまま、アラヤの横を通り過ぎる。
口元はかすかに濡れており、耳元は紅潮していた。
「……」
アイナは何も言わなかった。ただ、階段を下りながら唇を強く噛みしめる。
アラヤは軽く眉を動かすと、無言で会長室のドアをノックし、入った。
その部屋は広く静かで、机の上にはチェス盤が置かれていた。
ユリウス・ペトロニウスは椅子に腰かけ、ふとつぶやいた。
「7.62ミリ、か……」
アラヤの目がすっと細まる。
「何の話ですか?」
「いや、ペンだよ。昔のボールペンのカートリッジ直径と同じらしい。最近じゃ文具店でも滅多に見ない。君のは?」
アラヤは懐から簡素なボールペンを取り出して見せた。
「いいペンだ」
「首都の百貨店で父が買ってくれました」
「百貨店か。国内最高品質だろうが、これには劣るだろうね」
ユリウスは頷き、机の引き出しから漆黒の万年筆を取り出した。
「これが本物だよ。王室連合の舶来品だ。ペン先は金で出来てる」
「……ブルジョワな仕草ですね」
アラヤは乾いた口調で返す。
「革命の理想なんて、贅沢のためにあるんだ。高官は皆そうしている。
君も私につけば、もっと色々もらえるよ」
「……そうやって何人も口説いてるの?」
ユリウスは笑ってごまかした。
「さて、君に提案がある。生徒会に入らないか?」
アラヤは眉を動かさず、返す。
「生徒会入りは党青年団の承認がいるでしょう」
「大丈夫。私はこの地区の青年団支部長も兼ねてる。
次の委員会で推薦してみせる」
「悪いけど、興味ありません」
ユリウスは口元に影を落とした。
「……残念だ」
ふと横を見ると、黒板に数式が記されていた。
s = ½gt²
アラヤが指を動かしながら言う。
「この式、gが9.8じゃない。……9.83…。少しずれてる」
「いや、正しい数値だよ。この世界ではね」
「世界……?」
ユリウスは答えず、代わりに机の上の箱を差し出した。
中には、先ほどの万年筆と同じ型の物が入っていた。
「これは、明日の創設祭に現地指導で来る最高尊厳への贈答品だ。
君に預けたい。“大役”を果たしてくれるだろう?」
「……預かるけど、私は運び屋じゃありませんよ」
「君なら、意味を理解できると信じてるよ」
最後に、ユリウスはチェス部の入部届を差し出した。
「入部も、ぜひ。きっと楽しめる」
「……考えておくわ」
会長室を出ると、副会長アイナとその取り巻き数名が廊下で待ち構えていた。
「何を話したの? ユリウスと、二人きりで」
「秘密。……でもキスはしなかったわよ」
「ふざけないでッ!」
アイナが声を荒げ、一方的な口論を始めた。
「あなた、ユリウスに取り入ろうとしてるでしょう! 卑怯な手で!」
「それ、嫉妬に聞こえるわよ」
激昂したアイナは、アラヤの手からチェス部の入部届を奪い取ると、
ビリビリに引き裂き、それをアラヤの顔に叩きつけた。
「あんたなんか、部に入れるわけないじゃない!」
紙片が床に舞う。
アラヤは静かに、破れた紙を拾い集める。
アイナは得意げな顔をして踵を返し、取り巻きを従えて去っていった。
洗面所の片隅でラーダが資料端末を眺めていた。
「新聞部の部長くん、実はすごい趣味してるわね。
学園内の“交際関係”をスキャンしてたんだけど……ユリウス、女子とかなり関係してる。
中には、教員推薦で寮から外出させて会ってた子もいる」
「……予想通りね」
アラヤは、懐から万年筆を取り出した。
「これ、例の贈答品」
ラーダがすぐに簡易分析装置に差し込む。
「インクじゃない。生体接触型の極微粒子……これは、ナノ毒粉の可能性高い。
成分は特殊加工されてて、現場での判定は不可能。処置には遮断環境が必要」
「やっぱり」
アラヤは目を細めた。
「副会長の部屋に、侵入する。端末を盗って確証を得る」
「将軍を射るならまず馬から、ってわけね」
月のない夜。
アラヤは自室の窓から、ワイヤーガンを壁面に撃ち込む。
静止――時間停止、1.2秒。
世界が凍る中で、アラヤは壁を登り、換気口に催眠ガスを流し込む。
副会長の寝室の気配が沈静化した頃、窓を開錠。侵入。
机の上にあった端末をスキャンし、素早く奪取。
再びワイヤーで降下し、トイレで待機していたラーダに渡す。
「早いわね。……さて、中身は――」
解析開始。画面に浮かぶデータの数々。
チェス盤レイアウトは蜂起シナリオのフローチャートに。
将官128名が同時サイフォン通信接続するプロトコル。
計画時刻と48時間以内の戒厳令発令手順。
万年筆の図面。アイナ製造のナノ毒粉入り。創設祭のスターリン暗殺用。
「黒確定ね」
「即時報告。コードレッド扱いで上に伝えて」
「了解。今夜は徹夜ね」
「最後の最後に、塔ごと魔術障壁って何のラスボス演出よ。まあ、うちのアラヤなら逃げ切るけどね。私も優秀だし」