1:白うさぎの耳鳴り
鉄粉にまみれた工場の夜勤明け、まだ灰色の空を見上げながら、彼は無言で歩いていた。薄暗い朝の冷気がコートの裏地にしみ込む。小便臭の漂う裏通り、斑に剥がれたコンクリートの壁に、一枚の紙が風にあおられて貼りついていた。
折れた角、湿ったインク。「白うさぎを追え」とだけ書かれていた。人民通信用のURLが一つ。規格外のアドレス。内務省の検閲コードがない。
拾った紙をそのままポケットに押し込み、彼は帰宅せず、工場に戻った。食糧配給の列はまだ短く、焼け残ったパンに不満の声も上がらない。端末室には誰もいなかった。
端末は旧式。軍用払い下げの筐体には黒い布がかけられ、記録省の印章が浮かんでいた。
彼は布をめくり、慎重に接続コードを挿す。画面が一瞬明滅し、中央に跳ねるうさぎを模したロゴが浮かぶ。「白うさぎへようこそ」。
音もなくページが切り替わった。そこには、世界の裂け目が剥き出しになっていた。
> 東方人民連盟は、既に人民の手を離れた。
> あなた方が指導者だと信じている者たちは、黒蜥蜴人が作り出した模造体、いわゆる「ゴム人間」である。
> 本当の戦争は存在しない。映像は合成であり、死体は演出だ。
> 配給のパンには、従順と沈黙を強いる薬物が混入されている。
> 忘れるな――あなたが見ているものは、見せられているものだ。
彼は背筋を撫でられるような冷気を感じながら、何度も画面をスクロールした。次々に表示される文書。スキャンデータ。反転された公文書のコピー。あるいは捏造かもしれない、だがそれがどうした。
一つの正しさに取り憑かれた彼にとって、それは「事実」ではなく、「構造」だった。
世界が嘘である、という構造。それを知ったという悦び。
気が付くと、母のことは思い出していなかった。窓辺に置いたままの薬瓶、夜な夜なうわ言をつぶやくあの声、食卓に差し出された冷えた粥。すべては遠いものとなった。
彼には今、使命がある。
彼の働く拳銃工場では、粗悪な鋳型で作られた拳銃が日々組み立てられていた。組立ラインは常に遅れ、整備マニュアルは旧式のまま更新されていなかった。
「不良品」として処理される銃の一部が、工場長の手引きで地下の市場に流されていることも、彼は知っていた。闇の流通網。倉庫の端に積まれるラベルの剥がれた木箱。
試射場の鍵は壊れたままで、火薬庫の管理簿も何年も更新されていなかった。員数管理は名ばかり。
彼の手元には、すでに〈一丁の拳銃〉と〈三発の弾丸〉があった。
一つは胸を貫くためのもの。二つは、何があっても構わぬように。
その噂は、塗装工の間から漏れ伝わった。来週、スターリンが視察に来る――と。
工場長は常に言葉を失っていた。言葉の代わりに視線だけでライン長を睨みつけ、ライン長はその視線を避けながら従順な指示を出す。現場主任は、その指示の意味を読み取れず、ただ手を震わせて煙草を吸っていた。
軍の報道班が既に下見に来ていた。高精度カメラを肩に担ぎ、笑顔で死体のような整列を撮影した。誰もが「次」の出世のために動いていた。
彼だけが、別の「次」を準備していた。
彼は配給パンを口にしなかった。水も、茶も信用しなかった。母の分の薬も、今や役に立たなかった。母はすでに、長い沈黙の中にいた。彼は葬儀の申請をしていない。
戸棚の鍵を外し、部品を磨き、雷管の発火時間を確認し、銃身をバンダナで巻いた。いつも通りに出勤し、笑顔を浮かべてラインを歩いた。
制服のポケットには、小さく折り畳んだビラが入っている。角の擦れたその一枚が、彼の世界の中心にあった。
スターリンは、現れる。
革命の器官、無表情の少年。
その頭蓋に、弾丸を刻むために。
彼はすでに、「誰にも知られない死」を準備していた。
記録されず、語られず、思い出されることのない死を――
だがその銃弾こそが、この世界の歯車を狂わせる最初の一発であった。




