表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

68/88

8:86400

風は、誰にも届かぬ言葉を運んでいた。

谷底のように歪んだ首都の旧市街、アスファルトに染み付いた油の臭いと、錆びた銘板の数々。そこにアラヤとナユタはいた。

ひしめく屋台、階段状に積み上げられた古書店と骨董雑貨、いつの時代のものとも知れぬ広告塔。廃線となった軌道跡を跨いで、アラヤは立ち止まった。


風が回線を叩いた。無人の公衆通信機から、短い電子音。

受話器を取ると、わずか数秒の暗号信号が流れ、そのあとに続いたのはモーリスの沈んだ声ではなかった。

それは記録の奥底に焼き付けられるべき報告――静謐にして、確定された死の宣言。


――プリレーピン、処理完了。人民統合航空36便、全乗員死亡確認。任務完了報告済み。

実行個体:86400型、脱出済。以後、記録抹消に移行。


アラヤの胸に、鈍く錆びついた棘のような痛みが走った。


プリレーピン。

革命という名をまといながらも、ただ飢えと寒さと死体の山の中で呻いた男。

汚れた制服、詩人の口調、軍靴の裏にこびりついた理想と後悔の混成体。

国家の「記録」に収まることを拒みながら、それでもなお――国家という檻の中で夢を見ようとした魂。


ナユタが隣で、低く声を漏らす。


「これって……」


「やっぱりね」

アラヤは短く応じた。


「スターリンは最初から、許す気なんてなかった」


冷たく研がれた現実が、言葉より先に答えを差し出していた。


アラヤの視線が、暗号のログに記された一行へと落ちた。


実行個体:86400形


たったそれだけの記録。

だが、彼女にとっては見慣れた構文だった。

人民武力総局――彼女がかつて属していたあの組織が用いる番号体系。あれは単なる番号ではない。


86400。

それは、24時間に換算したときの秒数と同じ数字。


ナユタが彼女の沈黙に気づく。


「……どうしたの?」


アラヤは数秒の空白の後、首を振る。


「なんでもないわ」

それは正確には真実ではなかった。


「でも、これで先に進まないといけなくなったかもしれない。……もしかしたら、私自身のことについても」


ナユタはそれ以上追及せず、ただ静かに彼女の横に並んで立っていた。

アラヤは再び、番号の列に目を落とす。

その数列が、どこか遠い別の誰かの“名”であり、あるいは、かつての自分でもあった可能性。

プリレーピンを撃ったアラヤと、今ここにいるアラヤ。

その間に横たわるのは、ほんの一枚の記録の紙でしかない。



橋の上に立っていたプリレーピンの姿が脳裏に浮かぶ。

彼は最後まで「死」を選ばなかった。

あくまで「生存」を、兵士たちの「帰還」を求めた。


アラヤはその背中を、今も鮮やかに覚えていた。


その選択を、国家は許さなかった。

だが、それでも。

彼が最後まで貫いたものを、「敗北」と記すのは誰か。

「成功」と書き記すのは、誰のためか。


アラヤはもう一度、暗号端末を見つめ、受話器を静かに置いた。


時間は、凍った時計のように止まっていた。

だが、止まっているのは“記録”であり、彼女の“思考”ではなかった。


その夜、アラヤは旧市街の空に漂う白い煙を見上げた。

それは煤けた記録の残滓であり、燃え残った「真実」の匂いだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ