8:86400
風は、誰にも届かぬ言葉を運んでいた。
谷底のように歪んだ首都の旧市街、アスファルトに染み付いた油の臭いと、錆びた銘板の数々。そこにアラヤとナユタはいた。
ひしめく屋台、階段状に積み上げられた古書店と骨董雑貨、いつの時代のものとも知れぬ広告塔。廃線となった軌道跡を跨いで、アラヤは立ち止まった。
風が回線を叩いた。無人の公衆通信機から、短い電子音。
受話器を取ると、わずか数秒の暗号信号が流れ、そのあとに続いたのはモーリスの沈んだ声ではなかった。
それは記録の奥底に焼き付けられるべき報告――静謐にして、確定された死の宣言。
――プリレーピン、処理完了。人民統合航空36便、全乗員死亡確認。任務完了報告済み。
実行個体:86400型、脱出済。以後、記録抹消に移行。
アラヤの胸に、鈍く錆びついた棘のような痛みが走った。
プリレーピン。
革命という名をまといながらも、ただ飢えと寒さと死体の山の中で呻いた男。
汚れた制服、詩人の口調、軍靴の裏にこびりついた理想と後悔の混成体。
国家の「記録」に収まることを拒みながら、それでもなお――国家という檻の中で夢を見ようとした魂。
ナユタが隣で、低く声を漏らす。
「これって……」
「やっぱりね」
アラヤは短く応じた。
「スターリンは最初から、許す気なんてなかった」
冷たく研がれた現実が、言葉より先に答えを差し出していた。
アラヤの視線が、暗号のログに記された一行へと落ちた。
実行個体:86400形
たったそれだけの記録。
だが、彼女にとっては見慣れた構文だった。
人民武力総局――彼女がかつて属していたあの組織が用いる番号体系。あれは単なる番号ではない。
86400。
それは、24時間に換算したときの秒数と同じ数字。
ナユタが彼女の沈黙に気づく。
「……どうしたの?」
アラヤは数秒の空白の後、首を振る。
「なんでもないわ」
それは正確には真実ではなかった。
「でも、これで先に進まないといけなくなったかもしれない。……もしかしたら、私自身のことについても」
ナユタはそれ以上追及せず、ただ静かに彼女の横に並んで立っていた。
アラヤは再び、番号の列に目を落とす。
その数列が、どこか遠い別の誰かの“名”であり、あるいは、かつての自分でもあった可能性。
プリレーピンを撃ったアラヤと、今ここにいるアラヤ。
その間に横たわるのは、ほんの一枚の記録の紙でしかない。
橋の上に立っていたプリレーピンの姿が脳裏に浮かぶ。
彼は最後まで「死」を選ばなかった。
あくまで「生存」を、兵士たちの「帰還」を求めた。
アラヤはその背中を、今も鮮やかに覚えていた。
その選択を、国家は許さなかった。
だが、それでも。
彼が最後まで貫いたものを、「敗北」と記すのは誰か。
「成功」と書き記すのは、誰のためか。
アラヤはもう一度、暗号端末を見つめ、受話器を静かに置いた。
時間は、凍った時計のように止まっていた。
だが、止まっているのは“記録”であり、彼女の“思考”ではなかった。
その夜、アラヤは旧市街の空に漂う白い煙を見上げた。
それは煤けた記録の残滓であり、燃え残った「真実」の匂いだった。




