7:粛清
列を成した男たちは、武器を持たなかった。
プリレーピンが率いていた兵士たちは整然と阻止線の陸軍に武器を引き渡していた。
彼らはひとつの戦争を終え、そして帰還という名の行進をはじめていた。
だが、その目に勝利はなく、敗北もなかった。代わりにあったのは、生きるということへの、静かな執着だった。
アラヤは、かつて自分たちが破壊してきた多くの国家の記憶を、ふと重ねていた。
何度も、何層にも記録は上塗りされ、改竄され、消去された。
だが、このとき彼女の前を進む兵士たちは、記録に書き込まれるよりも先に、ただ生きようとしていた。
それは確かに、「真実」と呼ばれるべきものの輪郭だった。
前方、陸軍の最終防衛線はすでにその機能を停止していた。
「敵」を待ち構えていたはずの彼らが、いまは黙って道を開けていた。
まるでこの無言の行進を、ある種の儀式として受け入れているかのようだった。
「アラヤ」
ナユタが小さく言う。
「これが、あなたの想定した結末?」
アラヤは答えなかった。
いや、答えられなかったというべきか。
彼女はただ、行進する兵士たちの列の脇を、無言で歩いていく。
その中に、義足の男がいた。膝から下を失い、鉄の棒で歩く彼の姿は痛々しかったが、何よりも静かだった。
後ろから歩く者が彼を追い抜くとき、誰もが一瞬足を止め、彼と目を合わせた。
そのまなざしが、祝福ではなく、謝罪でもなく、同胞に向ける尊敬だったことにアラヤは気づいた。
「記録」という言葉が、脳裏をかすめた。
モーリスは言っていた。
「記録が物語を支配する。だが、それを打ち崩すのは意志だ」
一方で、スターリンは言った。
「記録が語る物語こそが支配する。それ以外は、ただの騒音だ」
アラヤはその二つの命題のあいだで、自分自身が宙吊りになっていることを感じていた。
「プリレーピンは……記録を壊さなかったのね」
ナユタが言った。
「違う」
アラヤはそれを否定した。
「彼は記録を書き換えようとした。でも、途中で筆を置いたのよ。
壊すことよりも、生かすことの方が重かった。そう判断した」
「それが、正しかったと思う?」
ナユタの問いには、答えはなかった。
ただ、アラヤはその場に立ち尽くし、行進を見送った。
戦火もなく、勝利の凱旋もなく、ただ無数の足音だけが舗装の裂け目を踏みしめていく。
その音の一つひとつが、世界のどこかにかすかな波紋を残していた。
行進の列が橋を渡りきったとき、遠くの空で戦闘機が旋回していた。
爆弾は落ちなかった。記録は更新されなかった。
そしてアラヤは、静かに目を閉じた。
彼女の中の何かが、確かに揺れていた。
夜の空港は静寂に満ちていた。
空調の風音と、遠くの誘導灯の瞬きが、すべてを無機質な夢のように映していた。
旅客機の胴体にプリレーピンが足をかけたとき、彼は振り返ることはなかった。ただ一度、濃紺の夜に染まる滑走路を見下ろし、深く吐息をついただけだった。
同行を許されたのは、古くからの副官と、補給部門の士官、筆記官の青年、それに護衛任務の下士官数名。いずれも忠実な部下だった。忠実で、愚直で、彼を最後まで「祖国のために」と信じてくれた者たち。
機体は滑るように離陸した。低く震えるエンジンの響きが、彼らを大地から引き剥がす。
プリレーピンは窓際の席に座り、沈黙のままに遠ざかる街の灯を見ていた。
列車に乗せられた部下たちは、いまごろこの国の各地へ散っていっているだろう。
誰も死なせなかった。それだけが、唯一の救いであり、罪だった。
巡航高度に達した機内に、穏やかなBGMが流れる。
通路を滑るように歩いてきた万能文化女中が、白い布のトレイにシャンパンのグラスを載せて現れる。
完璧に整えられた身のこなし、愛想笑いに寸分の狂いもない声。
だが、プリレーピンは手を出さなかった。
その代わりに、窓の外を見た。暗黒の空に浮かぶ星々のなかで、どれが東方人民連盟の衛星だったか、もはや彼にはわからなかった。
側近たちは瞬く間にシャンパンを飲み干していた。
「しかし隊長、本当に我々だけ企業連邦なんかに行っていいんですか?」
プリレーピンが窓を眺めながら答える。
「まあ、あの極太眉毛が情をかけてくれたと見るべきだろう」
「しかし、持つべきものは友ですなぁ!」
「俺たちも企業連邦に行ったらどうするよ」
「カジノってやつがあるらしい。そこで一山あてるか」
「いいねェ」
側近たちは万能文化女中の差し出すままシャンパンを呷り、勝利の美酒に酔っているようであった。
だがその笑い声が、次第に濁り始めるまでに長い時間は必要としなかった。
士官が咳き込み、筆記官の青年が口元を押さえて椅子から崩れ落ちた。
続けて、副官が咄嗟に立ち上がろうとして、テーブルにひざまずくようにして倒れ込んだ。
誰もが目を剥き、苦悶しながら泡を吹き始める。
プリレーピンは立ち上がったが、すぐに静かに座り直した。
彼は悟った。これは、最初から用意された「記録の締め括り」だったのだ。
誰も、英雄が語られることを望んでいない。物語には終わりが必要だ。そのためには、記憶ではなく、「記録」が必要なのだ。
コクピットの扉が開いた。
黒いジャンプスーツに身を包み、鋼のような無表情を携えた少女が、通路を歩いてくる。
その瞳は、冷たく、無機質で、感情というものを拒絶していた。
プリレーピンは記憶を辿り、それがモーリスの繋がりによって現れた少女、アラヤだと認識した。しかしそれは、彼が知るアラヤではなかった。
プリレーピンは静かに問うた。
「なぜだ?」
だがその少女は答えなかった。
ただ拳銃を抜き、無音の中で引き金を絞った。
銃声はなかった。衝撃だけがあった。
そしてプリレーピンの身体は、まるで幕を下ろすように、ゆっくりと椅子にもたれかかっていった。
機体は、すでに自動操縦に切り替わっていた。
その少女は、万能文化女中の合図に従い、後部ハッチへと移動する。
機内には、消毒液と金属臭の入り混じった、奇妙な静けさが満ちていた。
荷室から冷気が入り込み、その少女の短い髪がかすかに揺れる。
暗黒の夜空へ、彼女は飛び立った。
万能文化女中もまた、無言でその後に続いた。
パラシュートが開き、彼女たちは空中に浮かんだ。
足元には、漆黒の地平線が広がり、上空には、機体が白い光に包まれていくのが見えた。
通信が入る。
「裏切り者は始末しました。同志スターリン」
少女の声が、澄んだ空に吸い込まれていく。
数秒の沈黙の後、冷徹な声音が応答する。
「よくやった、アラヤ」
次の瞬間、旅客機が爆発した。
夜空に紅い光が咲き、残骸が火の粉となって散る。
その閃光は、記録という名の劇を、静かに、確実に幕引きしていた。
その少女は、記録の完遂を確認した。
その瞳には、どこまでも冷たく、どこまでも静かな無が広がっていた。
この世界にとって、プリレーピンという名は、必要なかった。
記録にとって、真実は不要だった。
ただ命令と、結果だけが残された。
そして、暗闇の中で、次なる「削除対象」を探すべく、その少女はまた落下していった。




